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現在高畑に鎮座する鏡神社では令和の大修理が行われています。
鏡神社については、来年早々に発刊予定の小生の高畑の本にも
書いていますので、興味のある方は読んでいただければと思います。
 ある日、宮司さんから電話がかかってきて、本殿の修理に伴って、
本殿内にあった狛犬を座敷に移動させているから見に来ないかとのこと。
せっかくの機会ですから、早速拝見に伺ったところ狛犬と
その台らしき板に墨書されたものが座敷に置かれていました。





木板に書かれた記録には、今からおよそ350年前の江戸時代寛文111671)年に
次郎右衛門という人が鏡神社に寄進して、破損していた狛犬に彩色をしたことがわかりました。

この狛犬の造られた時期は、この修理された時に既に
痛んでいたことも考慮すれば、この墨書よりもっと古い室町、
あるいはその姿から平安後期の可能性もありそうです。 

そこで、狛犬について少し調べてみました。

 

    狛犬とは

 狛犬は神社に奉納、設置された空想上の守護獣像です。
本来は「獅子・狛犬」といい、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬です。
鏡神社の狛犬もこの阿吽形のものです。
 阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像は両方とも口を開いているものも多く、必ずしも「阿吽」にはなっていません。

獅子・狛犬はもともと別の生き物(空想上の霊獣)ですが、
呼び方は「獅子・狛犬」の獅子が消えて単に「狛犬」に定着しています

この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像の阿吽などと同じで
仏教の影響を受けたものでしょう。

仁王像も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じなので、
守護獣としての獅子・狛犬も阿吽の形にしたと思われます。
これが日本独特の「狛犬」の始まりで、時期は平安時代後期と言われています。

 日本の狛犬は、天皇の玉座を守る守護獣像として誕生しました。
これを「神殿狛犬」あるいは「陣内狛犬」と呼んでいます。

 

 狛犬の「狛」という字については諸説あります。

1)「狛」は本来、中華思想では「周辺の野蛮な地」を指しており、従って、
狛犬は中国の外(野蛮な異国の地)に棲む正体不明の怪しい犬という意味で、
想像上の霊獣。
2)「狛」は今では中国でも使われなくなった言葉だが、本来「神獣」の意味。 

犬に似ていて頭部に角があり、猛々しい姿をしている。

 いずれにしても、中国のものであり、「朝鮮がルーツ」とは言えません。

日本では「こま」という音から「高麗」を連想し、「こま犬」=「高麗犬」=「朝鮮の犬」といった誤解が広まったようです。 
また狛犬は「こま」の「犬」ではなく、あくまでも「こまいぬ」という空想の動物なのです。「犬」ではありません。
 
 国の重要文化財に指定されている狛犬の多くは、平安後期から鎌倉・室町時代に作られた木製の神殿狛犬、あるいは金属製のものです。

石造りの狛犬で重文指定されているものは数えるほどしかありません。
 日本最古の石造り狛犬は、東大寺南大門にある狛犬で、宋の石工の手になるもので


鎌倉時代建久7年(1196)製作と言われ重要文化財に指定されています。

この狛犬は両方とも阿形の獅子です。
 南大門の、表(南側)に面した仁王像には多くの観光客が目を向けますが、
その裏側の重要文化財である狛犬に目を向ける人はほとんどありません。

ついでに、これは奈良県庁の隣のバスターミナルの売店前に
置かれている狛犬で、おそらく東大寺の狛犬の複製化と思われます。

京都清水寺に置かれている狛犬も東大寺の石像をモデルとして
作られた同じく阿形の獅子像です。
清水寺に以前からあった狛犬は戦前、軍に供出され、戦後、
狛犬を復元するに当たり、石像でということになったそうです。
どちらも笑っていると姿と観光客に言われていますが、
笑っているのではなく吠えている姿で、これを獅子吼というそうです。

春日大社の第60次年造替に伴って公開された4本殿に置かれていた狛犬は
48体あり、2体が室町、6体が鎌倉時代で阿吽の対となった
木製ヒノキノ寄木造の阿吽の狛犬です。

 

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最近このブログを通じて知り合った方から、平城坊目遺考を送って頂き、
見ていると、木魂塚に関して面白い記事がありました。
前回木魂塚は武蔵塚とも言われ、安世卿の墓と言われると紹介しましたが、
上記の平城坊目遺考に一説として、

文武天皇の時代に武蔵出身の小野美作という人がいて、
墓を武蔵に作ることを遺言して亡くなったにもかかわらず
京の地に埋葬したため祟りをなし、そこで武蔵国より土を取り寄せ
墳を築いた。これが木魂塚(武蔵塚)である。
そして武蔵塚は頭塔である。
頭塔が武蔵塚という説は首肯しがたいですが、木魂塚の由来としては
面白い説です。
東京の市谷あたりに逢坂という地名があり、その由来としてこんな話があります。
昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、
美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、
娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、
逢坂と呼ばれるようになったという。

 

 さらに、次の話も伝わっているそうです。


 奈良時代の昔、都から小野)美作吾(みさご)という人が武蔵国の国司として赴任しました。
そこで、美しいさねかずらという名の娘と出合い、二人は相愛の仲に。
美作吾に帰還の命令が出て、やむなく都に帰って、死亡しています。
さねかずらは美作吾の霊とこの逢坂の上で再会しましたが、生き甲斐を失い、
坂下の池に身を投げて死んだといいます。

奈良若草山山麓にむさし野という名の旅館があります。
そこのホームページに武蔵野の由来として、

平城京に都がある頃、現在の東京のむさし野から小野美作吾と言う方が、
宮使いに奈良に来られました。
小野美作吾は愛する美しい妻と祝言をあげたばかりで、
離れて暮らすことが耐えられませんでした。
妻を毎日想いだし悲しみに暮れているうちに、
流行り病にかかり奈良の都で命を落としてしまったのです。
共の者に、私の亡骸は必ずこの地から、東京のむさし野へ返してくれるよう頼んだのですが、
余りに遠いので、この若草山の麓に葬りました。
小野美作吾の霊は怒り、この付近を祟り幽霊となって彷徨いました。
 それを恐れた住民達が、この地を“武蔵ヶ原“と改め、
霊の怒りを鎮めたといわれております。
 
 
出典は江戸時代に書かれた江戸の地誌
「紫の一本」 天和2(1682)年成立
(むらさきのひともと)戸田茂睡著
であることが分かりましたが、平城坊目遺考の話では奈良に
そして東京に同じ話が伝わっており、なかなか興味深い話ですので紹介しておきます。

追記

 武蔵塚は武蔵守である良峯安世の墓説。
 小野美作(吾?)の墓説を紹介しましたが、
その後、いくら探しても、良峯安世が武蔵守に補任された事実は見つからず。
また、奈良時代を通じて小野美作という人物が武蔵守であった事実も確認できませんし、
存在したという記録も見つけることができません。

今後も調査は続けますが、今まで紹介した伝説はどこから生まれたものか、
謎は深まるばかりです。
 
 
  

標記のテーマを調べていると、10年前に奈良大学で平安文学で
提出したレポートを思いだしました。
もう10年近く前になってしまいましたが、今読み返してみると,
この時は提出しなければ単位がもらえないということで、
義務的に書いたのですが、結構内容は良いことが書いてありました。
10年たって今ようやく理解が進みました。
平安時代の文学を読むにさいして、婚姻制度の理解なしでは誤解してしまう。
平安時代は決して一夫多妻ではなく。あくまで一夫一妻制である。

そして正妻の話は恋愛物語の主人公にはならないこれが前提です。
そもそも正妻というのは、親同士が決めるもので、
上流貴族の男は元服時に親が決めた結婚をするので、
恋愛感情を持つようになる青春時代には既に妻がいて、
恋愛の対象はおのずと妻以外の女性となるということです。
例えば「蜻蛉日記」を書いた道綱の母は正妻ではなく妾です。
「和泉式部日記」を書いた和泉式部は敦道親王の召人です。
そして源氏物語はヒロインである紫の上が正妻でないことから
話が展開します。
若い女性に男が近づかなければ話が展開できません。
若い女性が正妻では結果は悲劇的にならざる得ないわけです。
源氏物語では光源氏は12歳で左大臣の娘である葵の上と
親同士が決めた結婚をしています。
このままでは若紫は決して正妻になれません。
これが源氏物語を読む上でのポイントです。
 そこで話は、正妻である葵の上の死となり、その死に関して
 六条御息所が、物の怪として登場し葵の上に憑りつき
死に至らしめます。
その六条御息所も紫の上の邪魔になっていけないので、伊勢にさります。
同じように朧月夜の君も遠ざけられます。
その他、夕顔、空蝉は、いきずりという扱い。
こうして次々と登場する女性は決して、紫の上のライバルにはならず
消えていきます。
そして、女三宮が正妻はいない(紫の上は正妻ではない)光源氏に
降嫁してきます。
光源氏の愛情だけが頼りのはかない紫に上は
こうして、いつも不安な立場に立たされ続けます。
源氏物語を読むポイントは、このように正妻でない紫の上の立場を知らなければ
理解が深まりません。

参考文献『源氏物語の結婚』中公新書   工藤重矩
    『平安朝の結婚と文学』風間書房 工藤重矩
現在奈良シニア大学で源氏物語の講座を受けているので、
源氏物語の周辺について、記事を書いて行きたいと思います。
前回、良峯安世親王が光源氏のモデルの一人だと書きましたが、
モデルの候補者は他にも何人もいます。
その条件としては平安時代に臣籍降下した天皇の御子であることが挙げられます。

源 融(みなもとのとおる)(822~895).嵯峨天皇皇子、桓武天皇孫もその一人です。
 その屋敷が六条・河原院、現在の千本釈迦堂(清涼寺)にあったとされ源氏物語の
 六条院のモデルとされます。
源 高明(みなもとたかあきら)醍醐天皇の第10皇子。(914~987)
 天禄2年(971)太政官のトップである左大臣となりますが、安和の変で謀反の疑いにより
 大宰府に左遷されます。これが光源氏の明石への蟄居と重ねられています。

醍醐天皇は在位中に37人の皇子女をもうけます。
内18人が皇子、19人が皇女。
18人の皇子の内12人が親王宣下を受けますが残り6人。
盛明、高明、兼明、自明、充明、為明が臣籍降下して源氏賜姓を受けます。
 源氏物語と直接関係ないのですが、この高明の弟が兼明親王で、
後で書く具平親王と並び称される博学多才の人物で
太田道灌の逸話で有名な
 七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき
の作者です。
高明と同じく左大臣となりますが後
政変に巻き込まれ親王宣下を受け、親王に復帰します。
『菟裘賦』では、「君昏く臣諛」(君は暗君臣は諛)と時勢を批判しています。
そして皇子でありながら左大臣となったとして、その邸三条第家は御子左家と呼ばれます。

そしてこの邸には、後に道長に連なる家ではありますが長家の代から本流とは
はずれ歌道の家として文人の道をたどった俊忠―俊成―定家が住まいし、
その長家流が屋敷に因んで「御子左家」と呼ばれるようになります。
ちなみに、俊成は父俊忠が10歳の時に亡くなって一時義兄の葉室顕頼の養子となりますが
この葉室家の末裔が、先代の春日大社宮司葉室頼昭氏です。

余談の方が長くなりましたが、
もう一人光源氏のモデルと言われる人物が
 源 光(みなもと ひかる)  仁明天皇の皇子。臣籍降下して源姓光。
      
      西三条右大臣と呼ばれ醍醐天皇の延喜元年(901)
      56歳で右大臣正二位となります。
この右大臣の先任者が菅原道真。
推理小説でその死によって最も利益を得る者が犯人とよく書かれていますが、
道真の失脚によってその地位を得た光も首謀者の一人とされています。
延喜13(913)狩猟の際に泥中に駆け入り落馬しますが死骸が見つからず
死去したとみなされるという亡くなり方により、世の人はこれを道真の祟りと考えました。

もう一人
第62代村上天皇の第7皇子具平(ともひら)皇子(964~1009)も有力候補です。

その屋敷六条宮は千種殿と呼ばれ光源氏の六条院に擬せられます。
文才豊で、和歌、漢詩に優れ、書を良くし、諸芸に通じ、まさに光源氏を彷彿させる人物です。

紫式部の父為時と具平親王の母は従妹どうしで、その六条院には
紫式部が一時期身を寄せていた可能性があります。
源氏物語の空蝉は、この具平親王と紫式部の関係がモデルともいわれています。

さらに、具平親王の愛妾雑仕女に大顔と言う女性がいて、この女性との間に男児がいたともいわれています。
ところが、広沢池の月見の際にこの大顔が急死、物の怪に憑りつかれたと
「古今著聞集』に書かれており、この大顔が、
同じく源氏物語の夕顔のモデルであると言われています。

このように具平親王と、源氏物語にはかなり因縁があります。
ところで、この夕顔は、もちろん源氏物語の登場人物で架空の人物ですが
墓と言われるものが京都にあります。
場所は堺町高辻。その名も夕顔町。個人の家の中庭に宝形印塔があるそうで、
夕顔墓と書かれた石塔がその家の前にあります。
夕顔の命日とされる旧暦8月16日にちなんで新暦9月16日に
夕顔を飾り、夕顔忌が営まれているとのこと。
源氏物語を読むだけでなく、こうして周辺のことを
これからも色々調べて行きたいと思っています。
学生時代に舟橋聖一氏の訳、そして20数年前には橋本治氏の訳で源氏物語を読みましたが、
今70歳を過ぎて、初めてシニア大学で源氏物語を原文で読む講座を受けています。
 以前はただ話の筋を追うので精一杯で、それ以上のことは何も考えませんでしたが、
今こうして読む機会を得、折からのコロナの影響もあり、物語だけでなくその背景も含めて、
じっくりと読み進めています。
 その中で「若紫」の巻、若紫を二条院に引き取った後のやり取りで武蔵野が出てきます。
ここでは紫から藤を連想して藤壺への恋慕を語るためですから、歌枕としての武蔵野であり、
場所は特定する必要はありませんが、奈良人としては、武藏野は関東のものと決めつけてほしくありません。
前に書きましたが、桓武天皇の皇子で安世親王が亡くなって、葬られた場所が武蔵塚。
その塚にちなんで辺りを武蔵野と称します。

 桓武天皇の母は新笠女(にいがさめ)百済系帰化人で和史乙継(やまとのふひとおつぐ)と土師宿禰真妹(まいも)の娘。

 

天平5年能登王女、4年後山部王。13年後天平勝宝2年に、早良王を産んでいます。

 

 そして、河内交野の百済王の娘明信を青年時代の桓武天皇が愛したと思われ、
藤原南家の当主継縄に嫁し、乙叡(おとえ)を産みますが、後に後宮に入り尚侍。(後宮の内侍司の女官長)となります。

 

 

 明信は、天皇の信頼は極めて厚く、『3代客』には「取り仕切るのは明信。」と書かれており、その縁によって百済王家は栄え、同家から後宮に入った女性は、教仁,貞香をはじめ幾人もいました。

 

桓武天皇には16人の皇子、19人皇女、計35人があり、さらに天皇62歳延暦17年大徳親王をもうけ、その頃ほかに、まだ4歳に満たぬ子があったと言われ、まさに精力絶倫の天皇でした。
 
その子供の中で安世は母の百済永嗣が渡来人であるため妃として認められず、そのため親王宣下を受けられず臣籍降下し良岑安世となったと一般には言われていますが、どうも桓武天皇は半島系の女性が好きだったようで、その子である安世親王にも目をかけており、臣籍降下したのは、おそらく、このまま、うだつの上がらない親王の一人として留め置くより、臣籍降下して、自分の才覚で出世できる道を選ばせたのではないかと私には思われます。

良峯安世は文章、雅楽に優れ、最澄、空海と言った人とも親交が厚い文化人であり、源氏物語の光源氏のモデルの一人とされています。

源氏物語で頭中将と光源氏が舞う青海波の舞は、鎌倉時代の楽書「教訓抄」によれば、良峯安世の作とされています。

此の青海は中国青海省の標高3000m以上の高原にある青海湖のことで、序に使われる「輪台」も西域の輪台国の地名です。

青海波の舞楽は特殊で、両弦(琵琶・筝)を用いる管弦舞楽と言う形式で、明治以来奏されていず、残念ながら奈良南都楽所には伝わっておらず私も舞を見たことがありませんが、舞の途中、詠と言って歌を吟じます。

その詠の作者が「教訓抄」によれば小野篁とされます。

小野篁は中世以来、紫式部を地獄より救い出したとされ、京都にある紫式部墓所にも紫式部の墓と小野篁の墓が並んで祀らています。
また、小野篁ゆかりの千本焔魔堂(引接寺)には紫式部の供養塔があります。

このように、調べてみると、安世は源氏物語と縁があります。

さてこの良峯安世は天長7830)年に薨去し、その墓は武蔵守であったことから武蔵塚と称され。
1681年(延宝9年、天和元年)の『大和名所記(和州旧跡幽考)』に「
武藏塚(手向山と号す) 

或る人いわく。

「此の塚は東大寺の八幡宮のうしろの山を手向山という、又此の山を武藏塚とも号するなりと云々。此の山は春日の社より北にあたれり、いかゞとぞおぼゆる。

澄月歌枕に武藏づかは春日の社の南に森あり、それぞ安世卿の墓所なりと云々。むさしづかは大納言兼武藏守良峯安世卿の墓所、むさしづかと号し、かの卿を神にあがめし所なり。」と記し、また江戸初期の『書言字考節用集』手向山の項に「和州春日社以南有武藏塚、是良峯ノ安世卿古墳也」と記されています。
 しかし、この「武蔵塚」の位置を具体的に記述した文献はほとんどなく、辛うじて吉田東伍著『大日本地名辞書』が「武藏塚は登大路(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉塚と云者もあり。」と記し、それをほぼ引用する形で、江崎政忠著『皇陵巡拝案内記』(昭和7年発行)には「武藏野は春日野の別名にして、武藏塚あるを以てなり、塚は登大路(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉塚とも称す」と記しているだけです。
 この記述に基づくと、現在の武蔵塚(小玉塚)は、人力車の溜り場になっている大仏殿交差点の東北に位置する「木魂塚」銘の石碑が建つ地点となりますが、もはや、塚(古墳)としての機能を失い、下手すれば伝説さえ忘れ去られてしまいそうです。
 なお、前記『皇陵巡拝案内記』には「手向山は嫩草山の北隣にありて紅葉に名あり、此の山に大納言兼武藏守良峯安世卿の古墳ありて、之を武藏塚と云ふ(武藏野の條下に記せる武藏塚と何れが眞か)」と記し、前記武蔵塚(小玉塚)とは別に項を立てており、手向山(手向山八幡宮)付近に何らかの遺跡(もう一つの「武蔵塚」?)が残されている可能性もありそうです。

木魂(こだま)塚(武蔵塚、樹神塚とも云う)

塚の上に昇り北東大寺南大門に向って「コダマ」と呼ぶと奇なことが起ると云われ、これは東大寺に悪神、鬼神の入るのを防ぐ鬼門除けの塚とも又、往古日曜をまつる旧跡とも云う、日曜とは太陽(日輪のことか?)

 『奈良坊目拙解』巻第十四

「武藏塚トテ有之今芝原ト成申候惣而此木魅ノ名所也此社ヨリ一町計北流川吉城川ト申名所也「或云往年在於武藏塚之東邊人家号中村是西野田與登大路村之中間仍有斯名也」或いは、昔武蔵塚の東辺りに人家が有り中村と号した。これは西野田と登大路村の中間にあるためこれを名前としたのだと。」

以上のように、武藏塚の所在地説は3か所あり、
一つは、現在東大寺と春日大社の十字路に建つ
木魂塚がそれであるという説。
もう一つは若草山の北手向山にあると言う説。
さらに春日大社の南の森の中と言う説です。
このどれと決定できる資料はなく、塚の所在地を決定できませんが、武蔵野はいずれにしろ、
曽て広義に春日野と呼ばれた場所と言えます。
 春日大社の南説は、9世紀当時、高畑の社家町はまだ形成されておらず、新薬師寺もまだ隆盛でしたので、現在の春日大社と新薬師寺の間の何処かと言うことになりますが、それらしき伝承は残されていません。
 
 事のついでにもうひとつ、同じく若紫の巻に紫君が手習いする話で。
なにわづにさくやこの花‥の和歌が出てきますが、この歌は、古今集真名序にも記され、
応神天皇の御代に来朝し論語、千字文をもたらした王仁の作だと伝えられています。
 ただ現在ではこの歌が王仁の作とは認められていませんが、少なくとも平城遷都以前の作であることは、法隆寺の壁にこの歌が落書されていたり、平城旧跡から出土の木簡に書かれていることから間違いありません。

 現在、競技かるたの冒頭に詠みあげられる序歌として、
この歌が競技の最初に読み上げられます。
 それまで、競技の最初に読み上げられる歌は、決まった歌はなく国歌で知られる
「君が代」の歌であったり、九州の大会では菅原道真の「こちふかば・・」であったり
定家の「しのばれむものともなしに・・」であったりとまちまちでしたが、戦後競技かるたが復興した時に、佐々木信綱氏に選歌を依頼し、選定されたのがこの歌です。
現在では、すべての公認競技かるた大会でこの歌が詠みあげられています。
 
 

 

 


 

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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