忍者ブログ
アカダマブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 「下高畑町にある大石である。これは十文字の入った境界石である。
さわると、きっとよくないことが起こる。

 

破石から東南は、藤原広嗣を祀った鏡神社が、南西には吉備塚、東北の方向にはこの清明塚があり、この破石が、その結界であるとする伝承もあります。

 

この破石に関して『続日本記』宝亀元年二月に次のような記載があります。

 

「西大寺東塔心礎破却す。その石の大きさは一丈四方余り、
厚さ九尺、東大寺の東、飯盛山にあった石である。
初め数千人で引き動かしたが、一日に数歩分しか進まず、
時に唸り声がした。
そこで人夫を増やして,九日かかってやっと運んだ。

それから削り刻んで、据え付けの基礎を築くことが完了した。
その時、男女の巫女の中に、ともすれば石の祟りがあるかもしれない
という者があった。
そこで柴を積んで石を焼き、三〇石余りの酒を注いで、
細かく砕いて道路に捨てた。
その後一ヶ月余りして、天皇が病気になった。
これを占ったところ、砕いた石の祟りであるというので、
すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。
今、寺内の東南隅にある数十片の砕石がそれである。」
この石を祀った神社が西大寺東門の前にある石落神社であると言います。

 

この記事を引き継ぐような形で「奈良坊目拙解」では、

「これが破石である。灌ぐに三十余斛の酒を以てし、その石を焼いた。時に清水寺の清泉を汲み酒を醸す、故に破石の清水と名付けた。
この辺りは造酒の地である。古老曰う、この破石清水の造酒は
奈良名酒の権輿(注、始まり)である。」

また東大寺山堺四至図には、飯守山に、この巨石が描かれています。


   石落神社西大寺東塔跡
 

国立奈良文化財研究所の発掘で、現在西大寺に残る東塔跡基壇
の外側の地下に、一回り大きい八角形基壇の痕跡が見つかりました。
「西大寺資材流記帳」に塔は、「二基五重」と書かれ、
現存する基壇も五重塔のものです。

『日本霊異記』下巻第三六話に
「塔の層を減らし、寺の幡を倒して悪報を得た話」
として西大寺五重塔に関する説話があります。

時の右大臣藤原永手が法華寺の幡を倒させ、
西大寺の八角七重塔の計画を四角五重塔に切り詰めた罪により、
地獄に堕ちたというのです。

ここから、続日本記に言う東塔の心礎は、
当初の八角七重塔から取り替えられたもので、
これが破石でないかと思われます。

さらにこれらのことから、破石の誕生年がほぼ確定できます。
則ち藤原永手の没年である宝亀二年〈七七一〉が
破石の誕生した年となるはずです。
 
高畑に残る数々の伝承は、この破石を中心として展開します。
問題は、西大寺の東塔礎石が何故高畑まで運ばれたか?です。
専門家が見れば、西大寺の塔礎石の石と破石が同じ種類かどうかは
わかるかもしれませんが、残念ながら私にはその判断はつきません。
昔は基壇の上に自由に上がれたのですが、今日行ったら立ち入り禁止。
続日本紀と坊目拙解の間には1000年の開きがあります。
坊目拙解が何故、これを破石であると書いているのか、
根拠はわかりません。
破石町の名前は、鎌倉時代の記録には出ておらず、
江戸時代中期の記録に登場します。
鎌倉時代には破石はなかったのか?

破石めぐる吉備塚の話しも江戸時代よりは遡れません。
安倍清明は11世紀の人。謎が深まるばかりです。

先日、目医者で、手術を勧められました。
9月ごろのつもりで、病院に行たら、あれよあれよという間に
手術に決まりました。
眼が良くなる可能性は50%。
ほっておいたらいずれは見えなくなるし、薬物療法では治らない。
パソコンの画面を見るのが疲れるので、今書きかけの高畑の話を
取りあえず仕上げました。
何時かは本にしたいのですが、まだまだ分からないことが山積みです。
というわけで、しばらくこの問題はお預けです。



 

PR
近くに所要があり、前を通りかかって道真公産湯の井戸
という看板が目に入り、参拝してきました。
場所は上京区烏丸通下立売下がる。
烏丸通りに面して御所の西側に位置します。

なかなか立派な社殿です。
祭神は
 菅原道真公
 菅原是善卿
 菅原清公卿とあります。
是善卿は道真の父。清公は祖父です。

由緒書によると、この場所は菅原道真が生まれた場所であり、
曾祖父古人、祖父清公、父是善の住居であった地であるとされています。
そして産湯の井戸が残されています。

奈良にも道真公誕生の地と称する場所があり、
そこには菅原天満宮があり、やはり近くに産湯の井戸があります。
こちらの天満宮は延喜式内社では最古の天満宮とされ、
土師氏の本拠地でもありました。
天応元年(781年)遠江介従五位下土師宿祢古人以下15名が
土師氏より地名にちなみ菅原氏への改名を願い出て
許されたと『続日本紀』にあります。
この古人の第4子が清公(771~841)
其の子が是善(812~880)で、
第3子が道真(845~903)
また平城遷都に先立って和銅元年(708〉年9月14日に元明天皇が
添下郡菅原に行幸したという記事があります。
菅原という土地には行基が菅原寺を建てており、この地が古くより
菅原と言われ、土師氏の本拠地であったことは間違いありません。
それでは、道真誕生の地はいずれであるか?
今のところはよくわかりませんが、常識的に見て代々文章博士を勤め
宮中に仕えていた菅原氏の住まいは京都であったであろうことは考えられますが、
出産のため奈良に帰り、そこで道真が生まれた可能性は否定できません。
ちょっと散歩をしただけで、いろいろ考えさせられました。

 



 

 

 

 

高畑の伝承に出てくる吉備真備、玄昉、阿倍仲麻呂はすべて
奈良時代に実在した人物です。
それだけでなく相互に複雑に絡み合った因縁があり、
そういった人物に関わる伝承が残る場所がすべて高畑という限られた地域に
残っているのは不思議でもあり、それだけに偶然であるとは思えず、
高畑であることに深い意味があると思えます。
以下その係わりを簡単に書いておきます。

吉備真備、玄昉、阿倍仲麻呂、さらに藤原広嗣とその父である藤原宇合は、
霊亀二年〈716)に第九次遣唐使として入唐し共に唐で過ごしています。

宇合は養老二年〈718〉に帰国し常陸国守、
西海道節度使となり九州に赴任した時には式を整備します。
玄昉は唐にあって天子より三品に準じて紫の袈裟を賜い、
天平7年(735〉に経論5000余巻、諸仏像を齎し帰国。
玄昉はわが国でも紫の袈裟を施されます。

真備は
「経史を研覧して、衆芸に該渉せり。我が朝の学生の名を唐国に翻す者は、
ただ大臣及び朝衡の二人のみ」と賞せられ、
帰国に際しては、唐礼壱百参拾巻、太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻、
楽書要録十巻等大量の書籍を持って帰りました。

唐で書籍を集めた様子は、「得るところの錫賚にして、尽く文籍を市う」
と『旧唐書』東夷日本国条にも記されています。
二人は
同船にて共に在唐18年で帰国します。

おりしも、おそらく遣唐使が持ち帰ったと思われる疫瘡が
太宰府より瞬く間に全国に蔓延し、藤原四氏を始め政界の要人が
ことごとく病に倒れ、天平の廟堂は人材が枯渇し、
橘諸兄が右大臣に昇進し政権を掌握します。

この時参議は大野東人、巨勢奈弖麻呂、大伴牛養、県犬飼石次と、
藤原氏ではただ一人藤原豊成の五名となっていました。
そこでいわば留学帰りの気鋭の知識人である真備は
新帰朝の文人として天皇の寵を得ることとなります。

さらに玄昉は、聖武天皇の母である宮子の近くに仕える中宮亮であった
真備の紹介もあり、皇后宮に赴き、皇大夫人藤原宮子が天皇を産んでから
一度も息子聖武に逢えなかった気鬱の病で
「幽憂に沈み久しく人事を廃する」という心の病であった宮子を治癒します。
これによって玄昉は聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得
内道場に入り、宮廷における地位を確立します。

こうした状況に危機感を抱いたのが
一挙に四兄弟を失った藤原氏です。

中でも若い藤原式家の広嗣は猛烈に反発します。
『扶桑略記』延暦十六年〈七九七〉の条で、
玄昉が宮子と密通したとする流俗を記しており、
梅原猛氏は光明皇后との不義に触れています。
真偽は不明ですが、宮中の内道場に自由に出入りを許され、
天皇・皇后の寵愛をほしいままにした玄昉に対して誹謗中傷が
あったことは間違いありません。

おそらく若い広嗣の玄昉・真備排斥の発言に、
行き過ぎたものもあったと思われ、
その結果が太宰府への左遷となったと思われます。

左遷の理由として「広嗣は子供のころから凶悪で、
長じては偽りや姦計をなすようになった。
父の宇合も朝廷から除こうと願っていたが、できずにいたところ、
京で親族をそしり乱れるので、遠くにやって改心させようとした。」
と述べており、これが先の内容を指すのではないかと思われます。

太宰府にあった藤原広嗣は、(天平12年(740)八月
橘諸兄によって起用されていた真備と玄昉を追放すべき旨の
上表文提出します。
 
しかし、それを謀反とみなした聖武天皇は、
召喚の詔勅を出しますが、広嗣はそれに従わず
反乱の兵を起こします。
朝廷は一万七千人の兵を動員し大野東人を大将軍として
追討の軍を出します。

広嗣軍は板櫃河の戦いで敗れ、広嗣は値嘉嶋で捕らえられ
斬殺され乱は終息します。
その間、聖武天皇は突如都を離れ、その後都を恭仁京、
更には紫香楽へと、彷徨を繰り返します。

その理由については諸説ありますが、
藤原氏と橘諸兄ら皇親勢力との間の争いがあったと思われます。

こうした情勢の元、突然玄昉は天平17年〈745〉
具体的な理由は不明ながら、行基が大僧正になるのと時を同じくして
「沙門の行いにそむけり」と
,太宰府観世音寺へ左遷されます。
おそらく大仏造営に関して、玄昉、行基、そして聖武天皇との間に
齟齬が生じた結果と思われます。

その翌年観世音寺の落慶法要に臨んだ玄昉が急死します。

『続日本紀』天平一七年記で
「玄昉の筑紫派遣を左遷と記し、
同年十一月玄昉に与えられていた封戸と財物を没収しました。
天平十八年六月玄昉の死について、僧正に任じられた後、
内道場に自由に出入りし、天皇の派手な寵愛が目立ち、
次第に僧侶としての行いに背く行為が増え、時の人はこれを憎むようになった。

ここの至って左遷された場所で死んだものであり、
世間では藤原広嗣の霊によって殺されたものだ」と伝えています。

今昔物語によれば、広嗣が怨霊となり天平一七年(七四五)に、
太宰府観世音寺へ左遷されていた玄昉が、落慶法要に臨まんとする時、
天空より玄昉の体を巻き上げ引き裂き、奈良の地にその体を、
ばらまいたとしています。

頭が落ちたところが、高畑の頭塔であり、更に、
後に太宰府に赴任した吉備真備がその広嗣の怨霊を鎮め、
お祀りしたのが唐津の鏡神社で、
その御霊を移したのが高畑の鏡神社であると書かれおり、
「吉備真備は陰陽の道に極めたりける人にて、
陰陽の術でわが身を怖れなく固めた」と書かれています。

この話は「平家物語」「源平盛衰記」と言った物語にも取り上げられており、
平安時代末期には多くの人が知っていたことになります。

 

 

 まだ話は続きます。

天平勝宝五年(753)十一月末、参議藤原清河大使。
副使大伴古麻呂以下450名、四隻で、遣唐使が派遣されます。
その際に光明皇后が詠んだ歌

春日ニテ神之日、藤原太后御作歌一首。
即賜入唐大使藤原朝臣清河

大船に ()楫貫(かじしじぬ)き この吾子を 韓国(からくに)遣る(やる) (いは)へ 神たち

太子藤原朝臣清河(皇后の甥)歌一首

春日野に (いつ)く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで
 
 真備もこの一団で
遣唐使となり、唐に渡っています。
その目的は、
一は鑑真和上の招聘であり、
二番目には阿倍仲麻呂を連れ戻すことでした。

この二度目の渡唐は左遷という説、真備自らが
政争を避けて身の安全を図るためとも言われています。

この時天平勝宝五年〈七五三〉帰国する仲麻呂を送別する宴席において
王維ら友人の前
詠んだとされる歌が
百人一首にも取り上げられている有名な歌

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

この歌には、望郷の意味と、出立にあたって祈った春日の神に対する祈念。
更には、『東大寺要録』に記載のある春日にあった安倍氏神社に対する祈りと、
多くの意味が含まれていると思われます。

真備の乗った第二船は無事帰国できましたが、
残念ながら仲麻呂の乗った第一船は驩州(現在ベトナム北部)に漂着し、
その後長安に戻り、その後
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、
結局、日本への帰国は叶えられることなく、
『旧唐書』によれば京師長安に留まること五十年、
上元〈760―63〉中に抜擢されて左散騎常侍・鎮南都護になったとされ、
宝亀
元年(770年に73歳の生涯を閉じています。
最後は潞州大都督(従二品)を贈られている

吉備真備がこの二度目の渡唐の際に、
二世紀末から十三世紀初めに描かれた絵巻物の『吉備大臣入唐絵巻』で、
唐において数々の難題を吹っ掛けられるが、鬼となった阿倍仲麻呂に助けられて、
これらをことごとくしり退けるという説話が描かれています。
しかしこの時、仲麻呂はまだ存命ですから、唐の朝廷の高官であった仲麻呂が、
何かと真備らを手助けしたことが、こういった話になったかと思われます。

このように真備、仲麻呂との因縁は絡み合っていますが、
更に真備と玄昉、広嗣の関わりは、玄昉が広嗣の怨霊のために死んだという話、
さらに、その怨霊を鎮めたのが真備であり、その怨霊を封じ込めたのが松浦明神、
それが移されたのが鏡神社。
その鏡神社は清水寺の鎮守社であり、清水寺は玄昉ゆかりの寺。

さらに清水寺は造東大寺司長官であった真備が玄昉の供養のために
手を貸して作らせた寺である可能性がり、すべての人物との因縁が
複雑に絡み合います。

 

 



 

高畑の伝説の最後に、悲劇の皇女の話があります。


 
  比賣塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられていました。

1920年代には、比賣塚は国有となっていましたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から払い下げを受け、比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、そこに神社を造営して神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任することとなりました。

1981年に十市皇女の命日である47日を新暦に換算した日である510日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生しました。


ただこの比賣塚には、もう一人藤原鎌足の娘で天武天皇の夫人で但馬皇女を生み、天武11年正月没した氷上夫人も祀られている可能性があります。

藤原夫人また大原大刀自と呼ばれるの鎌足の娘の五百重娘は、新田部皇子を生み、妹と考えられますが、その藤原夫人に賜う御歌一首として万葉集に次の歌があります。

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)」(万葉集巻二・103.104

藤原夫人、和へ奉る歌一首

「わが岡の(おかみ)に言ひて落らしめし雪の(くだ)けし其處に散りけむ

と飛鳥の里に降った雪をめぐるユーモアに富んだ相聞歌を載せています

 

万葉集の最後に近い巻20巻に藤原夫人として次の歌があります。

万葉集巻二十 4479 藤原夫人の歌一首

(浄御原の宮に天の下知らしめしし天皇の夫人なり。字を氷上大刀自といへり)

 朝夕(あさよひ)()のみし泣けば(やき)太刀(たち)()(ごころ)(あれ)は思ひかねつも

  (朝に晩に、泣いてばかりいるので、しっかりした心をとうてい持っていることができません)

同じ姉妹でありながら、歌の明るさには雲泥の差があり、氷上皇女が、どういう境遇であったのか詳しいことはわかりませんが、二人の姉妹の対照的な悲劇性が浮き彫りになっているように感じられます。

現在上高畑町には式内社赤穂神社があります。

古老の話しでは
「昔は赤穂神社をアカボさんと呼んでいる。
昔はもっと地所が広かったが、だんだん削られて狭くなってしまった。
皇族のお姫さんを葬ってある所と言うて、誰もさわるものがなかった。と言うことである。

現在は鏡神社の別社となっていますが、延喜式に記され、また東大寺お水取りの神名帳でも、その名が読みあげられる古社で、元の社地は数百余坪あり、桜の木が多く植えられ辺りは桜田の地名もあったと言います。

大和志料でも赤穂神社と擬しており、延享四年の石灯籠がある。赤部社とする記録もある。


 

十市皇女は鏡王のむすめとされる額田姫王と天武の間にもうけた皇女で、彼女は父に命ぜられるまま、いとこにあたる大友のもとに嫁ぎ、壬申の乱で父に大友を殺された後は失意の日々を送り、678(天武七年四月)宮中において急死をとげたので、自殺ではないかと思われます。

運命にもて遊ばれた薄幸の佳人というイメージが鮮烈であり、やはり悲劇の皇女のイメージがあります。

日本書紀天武紀の記事

天武7年夏4月・・・・斎宮に幸さむとして卜う。・・・平坦の時をとりて警蹕既に動きぬ。百寮列をなし、乗輿蓋命して、、以て未だ出行しますに至らざるに、十市皇女、卒然に病發りて、宮中に薨せぬ。

此れに由りて(ミユキ)簿既に停マリテ、幸行すこと得ず。新宮の西廰の柱に霹靂す。・・・・・十市皇女を赤穂に葬る。

天武天皇の行列が出発しようとしたまさにその時、突然

十市皇女が亡くなったという、不思議な死を伝え、その亡骸を赤穂に葬ったと書かれています。
 

天武11年春、壬子に、氷上夫人、宮中に薨せましぬ。癸丑(19日)地動。辛酉(27日)に氷上夫人を赤穂に祀る。

いずれの皇女も突然宮中において亡くなり,天地に異変が起こっていること、さらに、お二人が赤穂の地に葬されたと書かれています。

 

 

ゴリョウ塚

イガミ御霊さん
不空院の住職談

不空院の巽の隅にゴリョウ塚と言うのがあり、

貴いお姫さんの塚であると伝えている。
どなたの事なのかはわからぬ。

女人守護のご利益のある塚である。

社家の千鳥氏の話しでは。
この辺は、以前は井上村と言い、イネンド(井上堂)と言う祈禱所のあったことが、千鳥家の古図にある。
高野山の丹生都比賣神社の近くに、猪上(イガミ)の社と言うのがある。

この井上堂はイガミさんで、井上内親王を祀ったのがこのゴリョウ塚でなかろうか。

鏡神社の末社の天神さんも、管公さんではなく、家の記録には井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だとある。

このゴリョウ塚はイガミさんに違いない。
若宮火雷天神

ゴリョウ塚は春日社の社家中西家が代々守護神として大切にしてこられた。
井上内親王は霊亀三年〈717〉に聖武天皇の長女として生まれ、母は県犬飼広刀自。養老五年(721)五歳の時、伊勢の斎宮に選ばれ神亀四年〈727〉に伊勢に下向。17年後、天平16744)弟の安積親王が薨じると共に任を解かれ退下し、白壁王の妃となる。

宝亀元年(770)称徳天皇の崩御によって白壁王が即位して光仁天皇となり井上内親王は皇后となり、他戸親王が皇太子となるも、宝亀三年に天皇を呪詛したとして皇后を廃され他長戸親王も廃太子となり、翌年には親子とも大和国宇智郡に幽閉され、翌年宝亀6427日、二人は同じ日に薨去する。以降天変地異が続き井上内親王と他戸親王の怨霊の仕業であると恐れられた。

墓は五條市に延暦19年〈800〉に桓武天皇によって皇后の地位が回復され墓も御陵と改められた。

同じ聖武天皇の娘でありながら、かたや天皇となり、母親の差により、幼くして斎宮に出され、下向後は、格下の、しかも30歳近い年上の58歳の白壁王をあてがわれ、運命のいたずらによって皇后となるも、最後は悲劇の死を迎えた井上内親王もまさに悲劇の皇女です。

井上内親王を祭神として祀る御霊神社は数多く、奈良市内では現在は薬師堂町にありますが、元は、元興寺南大門前の井上町にあり、南側一帯は井上郷と呼ばれ、一時井上内親王と他戸親王が篭居されていたといいます。亡くなった地である五条市竜安寺町の御霊神社は御霊本宮と呼ばれています。

千鳥氏は,鏡神社に祀られている天神社は、井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だと言う。

伝説では宇智郡に配流された時、井上内親王は身籠っており、産まれたのが火雷神(ほのいかずちのかみ)であり、内親王の御子であるから若宮と呼ばれ、御霊本宮の丹生川の対岸にある火雷神社に祀られています。

このように、井上内親王を始めとして、十市皇女、氷上娘と、いずれも悲劇の皇女であり、赤穂の地が高畑であるとすれば、悲劇の皇女の葬送の地が、飛鳥時代から何故か高畑であることになります。

高畑には赤穂神社があり、媛塚があり、ゴリョウ塚が伝えられています。

まだまだ高畑には分からないことが多く残されており、これからも調べていきたいと思っています。

 



高畑の伝承について見てきましたが、頭塔について、もう少し詳しく詳しく書いておきます。

頭塔については、2001年に奈良文化財研究所より史跡頭塔発掘調査報告書第62号で非常に詳しく書かれていますので、興味ある方は是非一読されたら良いと思います。

以下は、そこからの抜粋です。

 頭塔の創建については神護景雲元年(767)に東大寺僧実忠によって

完成したことは、ほぼ間違いありません。

発掘調査によって頭塔の造営は上層、下層の塔が明らかになり、少なくとも2段階の造営過程があったことがわかりました。

造営開始の上限については天平勝宝8年(756)に描かれた東大寺山堺四至図に記されていないことから、造営開始時期はこれ以降と考えられます。

そこで正倉院文書天平宝字4年(760)造南寺所解の記事

「東大寺南朱雀路壊平為鬼霊奉写・・・」

(東大寺南の朱雀路にあたる墓を壊すにあたって、その墓の鬼霊の供養のため写経料物を申請するための解)

これが、頭塔造営のための工事に伴うものである可能性が高く、恐らく頭塔下層の工事の始まりを指すと考えています。

 

事実、頭塔の下には、いくつかの古墳が見つかっています。

それらは、春日野に分布する春日山古墳群の中に含まれ、春日山古墳の般的な古墳群とは線を画した上位階層の墳墓であり、6世紀においてはもっとも由緒のある伝統勢力として君臨していた族の墳墓であったと思われ、あえて氏族を比定するならば、古墳の造営時期にほぼ該当する敏達朝頃に春日氏から大宅粟田小野柿本などの諸氏が分枝し、古市地区の護国神社古墳群を大宅氏の、そして頭塔下古墳を春日氏族の墳墓として考えることができるとしています。

発掘調査からは、この時期に造営された下層頭塔の塔身は破壊され、全く異なった姿の上層頭塔に作り替えられたことが分かっています。

理由としては下層の構造がかなり不具合をはらんでいて、石積が崩壊するなど改造せざるえなくなったことと、時期的に、皇太后の病気平癒と恵美押勝乱後の国家安泰の為などが考えられます。

その後奈良時代の末に相輪部分が焼失し、9世紀に相輪に代わって六角屋蓋を持つ石塔が頂部に立つなどの再整備が行われたが、次第に荒廃していったと思われます。

それでは、何故この位置に頭塔が建てられたかという問題は、天平宝字年間に東大寺が南方に寺域を拡大しようとした寺域拡大事業の中核的な事業であった可能性が指摘されています。

立地は、春日山の東麓から西へ延びる台地上の西端に位置し、四条大路の延長上にほぼ一致し、東大寺の中軸よりは若干西に振れることによって、平城京の街から構築物を最大限効果的に見せる場所にあると言えます。

所謂玄昉の首塚伝説に触れておきます。

玄昉の略歴を簡単に書いておきますが、吉備真備と共に養老元年(717)に入唐。

天平7年(735)に多くの仏像経典を携えて帰国。

帰国後は真備と共に、藤原4兄弟の死によって人材不足に陥っていた橘諸兄政権に重用されます。

このことで、広嗣の反感を買い、天平17年(745)には筑前観世音寺に左遷され、その翌年に死去します。

ここから真備と玄昉を排除すべく反乱を起こし鎮圧された広嗣の霊に害され

五体がばらばらに飛び散ったと言った様々な伝説が生まれます。

玄昉の首が落ちた場所については諸説ありますが、いずれも興福寺内であることでは一致しています。

玄昉と興福寺の関係は、玄昉が唐より持ち帰った経典のことごとくが、興福寺に収められたことから生じたと考えられます。

興福寺菩提院は『七大寺巡礼私記』によれば、玄昉の住んだ院であるとされていますが、実際は平安中期以降に玄昉の菩提を弔うため建立された院であろうと考えられています。

平安時代末には頭塔が実忠が造った土塔であることは忘れ去られており、玄昉の頭を埋葬した墓であるという認識が一般化していたようで、さらに『七大寺巡礼私記』によれば、頭塔の周囲はすでに荒廃し、東大寺の施設としては廃絶しており、興福寺関連の施設として認識されており、興福寺がこの地域に支配を拡大していたことが示されています。

興福寺菩提院は10世紀から11世紀初頭が拡大の画期であり、玄昉止住の院家としての創建伝承を持ち、頭塔が玄昉の墓である伝承を頭塔を自らに取り込む根拠とし、これを供養することで玄昉止住以来の法脈を相承する院家であることを主張したと考えられます。

室町時代には頭塔周辺の地域は頭塔郷と称されました。

18世紀になると頭塔は興福寺賢聖院の管理下になり、『奈良坊目拙解』では

小規模な堂舎があったとされます。ところが享保15年(1730)に頭塔は日蓮宗常徳寺に譲渡され末寺となり頭塔寺と称されます。発掘調査では頭塔南面にこの当時の五輪塔や、墓石が確認されています。

南側から見た頭塔。こちら側に頭塔寺がありました。

近世では頭塔が玄昉の墓であるという伝説は広く流布しており、
玄昉の肘を埋めた肘塚、眉と目を埋めたとされる眉目塚、
胴を埋めたとされる胴塚などの伝承がありますが、
『奈良坊目拙解』でもこれらは証拠もなく信用に足りない、
後世に起こった説であろうと述べています。
中世の表記を見ると肘塚は甲斐塚、貝塚であり、眉目は大豆(まめ)が本来であり、頭塔の伝承に合わせて作られたものと思われます。

以上発掘調査報告書に基づく客観的な頭塔の評価ですが、
ここからは私のいわば妄想です。

頭塔の南にあったとされる清水寺は、これも『奈良坊目拙解』によれば玄昉が開基とされ、玄昉が太宰府に左遷された時に、弟子の報恩に譲られ、後に玄昉が非業の死を遂げた時、その骨を持って帰って頭塔に収めたとあり、この報恩の弟子延鎮が山城の八坂に清水寺を建てたが、清水(しみず)に憚って(きよみず)寺としたと言います。

さらにその清水寺の鎮守社が鏡神社です。この鏡神社は広嗣の亡霊の祟りを治めた吉備真備が、佐賀唐津の鏡山に広嗣を祀った神社を奈良に移したもので、ここにも高畑の鏡神社・藤原広嗣そして玄昉と吉備真備が関わります.

 

造東大寺司長官であった吉備真備が、建設した南寺が、
 盟友であった玄昉のために、創建に力を貸した清水寺で、
 
それが後世、頭塔玄昉の墓説に結び付いたのではないかと妄想しています。

玄昉が没したのは天平18年(746)。吉備真備が太宰府にあったのは、
 752~754年で、同年造東大寺長官。

760年に正倉院文書南寺所解。767年に頭塔を造る。

時期的には矛盾はありません。

ただ清水寺に関しては一切資料がなく、遺構も確認されておらず
 これからの研究課題です。

 

カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[04/21 あき]
[12/09 宮前 英明]
[06/28 大石孝]
[11/08 千鳥祐宣]
[08/10 こちずふぁん]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
マスター
性別:
男性
趣味:
歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
バーコード
ブログ内検索
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog
Graphics by 写真素材Kun * Material by Gingham * Template by Kaie
忍者ブログ [PR]