この様に男女のことに関しては、人並み以上に潔癖であった女帝が何故道鏡にここまでのめりこんだか。
こればっかりは本人に聞かなければわかりませんが、状況から考えて、若くして皇太子となり、男子を遠ざけられた形の女帝には、相談相手がいません。
玄昉、真備は仲麻呂によって大宰府に左遷されています。
そして信頼して政治を任せていた仲麻呂には裏切られます。
勝手の女帝、持統天皇には我が子を孫を皇位に就けるという執念がありました。
元明、元正はその遺志を受け継ぎます、そこには目に見える目的がありました。
しかし、称徳天皇にはもはや何の目標もありません。
信頼できる部下も無く、尊敬していた母も父も無く、しかも跡継ぎが必然的に無い形で、ただ光明皇后の意地によって皇位に就けられた称徳天皇はどうしたらいいのでしょうか。
結果が道鏡でした、これは必然でもあり、称徳には不幸なことでした。
こうして信頼した道鏡も所詮俗物、最初のうちこそ謙虚に天皇を支えていましたが、ご他聞にもれず権力の誘惑には勝てません。
ついには皇位さえ伺うと言う思い上がった妄想を抱きやがて退けられます。
失意の天皇は法華寺に入ります。尼寺には男子ははいることができません。
政治は停滞します。
仲麻呂の失脚は光明皇后の死によって始まったと言うのは定説でその通りなのですが、結果がそうであって、光明皇后の後ろ盾うんぬんというのは少し違うと思います。
孝謙天皇は即位以来、常にNO2でした、聖武天皇、光明皇后が政治を実際は取り仕切り、実務はほとんどnoタッチと言う感じでした。
そして、光明皇后が病に伏した後は、看護のため譲位します。
そして、光明皇后が亡くなって初めて、政治に目覚めたと言ってもいいかもしれません。
でもその時には、実権はすべて仲麻呂にありました。
孝謙天皇は愚鈍な人ではありません、むしろ聡明であったと思います、そして教養もありました。
若いときからその時の第1級の教養人である吉備真備、僧玄眩がそばに仕え、言わば家庭教師役を担っていました。
ところが、吉備真備も玄眩も仲麻呂によって、遠く九州の地に左遷され孝謙天皇の傍から遠ざけられます。
恐らく、孝謙天皇の側近になられることを恐れたのでしょう。
言わば話し相手、相談相手を取り去られた天皇は光明皇后の看病禅師であった、道鏡と出会います。
巷間いわれる男女の関係が2人の間にあったかどうか、これは実際のところはわかりません。
しかし、相談相手のいない女帝にとっては、道鏡は格好の相談相手であったことは容易に想像がつきます。
女帝は21歳で皇太子になっています。
結婚はその時点でありません。そしておそらく女帝は常人以上に男女の間に潔癖な人だったと思われます。
道祖王の皇太子を廃嫡したのも女性に対する「不品行」が理由です。
こうして仲麻呂は権力の頂点に上り詰めます。
翌年には孝謙天皇は,母親の光明皇太后の病気の看護のため淳仁天皇に譲位します。時に天皇26歳。
ほとんど養子といって良い淳仁天皇は仲麻呂に意のままです。
光明皇后は病、孝謙上皇はその看護、仲麻呂を妨げるものは誰もいません。
淳仁天皇は父舎人親王に崇道尽教皇帝の称を贈ります。
父に皇帝の称を送るのは孝養の道としては当然かもしれませんが、このことの重要性を認識していたとは思いません。
皇統が天武ー崇道ー淳仁と変わってしまったのです。
あれほど不比等が苦労して、天武の血筋ではなく、天智の血筋たる持統の血筋を守ることによって、天武を消し去り天智の血筋を重んじてきたのにそれを踏みにじったのです。
そればかりではなく、あれほど身をつつしみNO.2であれと言い聞かせてきたのに第2世代の仲麻呂はNO1になろうとしたのです。
言わば破局は当然の成り行きでしょう。
奈良麻呂の乱と前に書きましたが、結果はとても乱とは言えません。
ことの発端は長屋王の変と同じく、誣告です。
757年6月28日、山背王が「奈良麻呂が兵器を準備し田村宮を、囲もうとしている』と告げます。
山背王が長屋王の子であるところが、なんとも歴史の皮肉を感じます。
これを受けて、まず孝謙天皇、ついで光明皇太后はどちらも、何とかことを穏便に収めようと、詔をします。
仲麻呂と同じく、奈良麻呂も同族、共に皇朝を助けよ、という詔です。なんとか争いを鎮めたいという、両女帝の思いです。
ところが重ねて、その日の夕刻謀反に誘われたと仲麻呂に申し出てきたものがありました。
そこで、仲麻呂は名前の挙がった、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大友古麻呂の5人を天皇の前に召しだされましたが、それでも光明皇后の言葉として「みな私に近いもの、朝廷でも高いくらいに就いているのですから、恨みを抱くはずがない、この度は許しますから今後この様な事がないように」と許します。
ところが別に捕らえられた、小野東人らが謀反の内容を白状します。
ようするに仲麻呂が許さなかったということでしょう。
そして、黄文王、道祖王、大友古麻呂、小野東人らは鞭で打たれて獄死。安宿王、塩焼王は流刑、奈良麻呂については何故か記述が無いのですが、おそらくその時同じく鞭で打たれて亡くなったと思われます。
そればかりか仲麻呂の実の兄、豊成も罪ありと言うことで左遷されます。
これで、仲麻呂より上位の者は一人もいなくなったわけです。
豊成は前にも書きましたが温厚な学者肌、とても仲麻呂にはかなわなかったのでしょう。
豊成については、本人より中将姫の親として有名ですね。
屋敷は所謂奈良町にあったようです、いま中将姫ゆかりの寺として、高林寺、誕生寺、徳融寺などがある辺りが屋敷跡です。
その場所も仲麻呂の田村第平城宮のすぐそばだったことから比べると随分不便な場所でこのことからも力関係が伺えます。
すべて物事はそう単純ではなく、いろんなことが複雑に絡まりあって怒るものですが、大筋において間違ってはいないと思います。
756年聖武天皇が崩じます。そして翌年橘諸兄も没します。
聖武天皇は亡くなる前、道祖王(天武天皇の孫、新田部親王の子)を皇太子にせよと言い残していました。
が、孝謙天皇は道祖王がその行いに問題があると廃します。そして仲麻呂の息のかかった大炊王(舎人親王の子)を皇太子にします。
その皇太子は仲麻呂の息子真依の妻、粟田諸姉と言う女と関係し仲麻呂の屋敷である田村第にとどまっていた。
まあ要するに半ば養子のような感じです。
そしてあろうことか、天皇までもがその田村第に移ってしまいます。
そして仲麻呂は紫微中台、として軍事を、紫微内相として政治の実権を握ります。
こうなると、ライバル心むきだしの奈良麻呂は黙っていません、と言うより追い詰められます。
このままでは完全に世は仲麻呂のものになる自分の居場所がなくなるということです。
まあ小沢一郎の党首選への立候補も同じような理由でしょうから、命がかかっていない分迫力は違います。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |