正倉院展が始まり、ひときわにぎわいを見せている奈良公園の一角、
県庁東の交差点の北東角に、春日大社の摂社拍子神社が、ほとんど訪れる人もなく、
ひっそりとたたずんでいます。
この神社の祭神は、狛近真という鎌倉時代に実在した南都楽所の左方・一者の楽人です。
雅楽には主に中国から伝わった楽曲(唐楽)を左、その曲を主に演じる方を左方。
朝鮮半島から伝わった楽曲を(狛楽)を右とし、それを奏する方を右方と称します。
楽所とは楽人が所属する団体のことで、かって京都の大内楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所が天下の三方楽所と呼ばれていました。
また雅楽を家職とする家を楽家と呼び、その末裔は明治に至ってその三方楽所の楽人が
東京へ移され職員として宮内庁楽部の楽人となるまでで雅楽をもって仕えていました。
ちなみにテレビなどで活躍する東儀秀樹氏の東儀家は天王寺楽所に所属した楽家で、
秀樹氏はその末裔です。
南都楽所は京に都が遷った後も奈良にとどまり南都の社寺の諸行事に奉仕した楽人の団体で、明治に至るまでその本拠を氷室神社においていました。
明治になって多くの楽人が東京へ召された後、一時南都楽所は解散されましたが、
春日大社の[おん祭リ」を始めとして、奈良の社寺の行事を支えるため、民間の有志で雅楽団体が結成され、奈良雅楽会、春日古楽保存会として存続し、今は社団法人の南都楽所として活動しています。
一方南都楽所の事務所が置かれていた氷室神社でも晃耀会という団体で雅楽が続けられています。
狛氏は代々雅楽の左方舞を家の芸として仕える楽家であり、一条天皇の時に狛の姓を賜ったと伝えられる楽家の名門で南都楽所の中心的な存在でした。
狛近真はその狛家の秘曲を一身に身に着けた名人でしたが、折から源平の争乱によって雅楽も衰退を余儀なくされ、狛家自体もその存亡が危ぶまれる事態に陥り、伝来の芸を次の代に伝えるため「教訓抄」と言う全十巻の書物を著わし、それが今に至るまで雅楽を志す者にとって貴重な雅楽書の指南書として伝えられ、自身も「ひょうしの神」と音楽・芸能の神としてこの拍子神社に祀られている次第です。
また、氷室神社の境内には狛氏の祖であり楽祖と讃えられる光高を祀る「舞光社」という祠があります。
また氷室神社には雅楽にゆかりの日袋を持つ灯篭があります。
楽太鼓の彫り物、その横側には舞h人が描かれています。
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