どうやら伊勢物語が関わっていることがわかりました。
そこで、伊勢物語、在原業平を調べてると、実に興味深い人物でした。
卒伝『三代実録』元慶4年(880)5月28日条
「28日辛巳、従4位の上行右近衛の権中将兼美濃権守在原朝臣業平卒す。
阿保親王、桓武天皇の女伊登内親王を娶り、業平を生む。
業平体貌閑麗、放縦にして、拘はらず、ほぼ学才無し、よく倭歌を作る。
尋いで右馬頭に遷り、累加して従4位下に至る。
元慶元年、遷りて右近衛権中将となり、明年相模権守を兼ね、 後に遷りて美濃権守を兼ぬ。
卒する時、年56。」
ほぼ学才なし。と切り捨てられていますが、決して勉強ができないという意味ではなく、
当時の学問というのは漢学ですからその方面には弱かったということで、
代わりというか倭歌に優れていたということです。
業平は歌人としてその名を『古今集』に不滅のものとして残しています。
『古今集』は業平没後約四半世紀、醍醐天皇の名を受けた紀貫之等によって
編纂されたわが国最初の勅撰和歌集ですが、選者である、貫之の102首を筆頭に,
凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑の作が多く採用されています。
その序文に「六歌仙」として業平、僧正遍照、文屋康秀、喜撰法師、
小野小町、大伴黒主の名をあげています。
その中でも小町18首、遍照17首に対し業平は30首採用されています。
古今集序文で業平の論評として
「その心あまりて、言葉足らず、しぼめる花のいろなくて、
にほひのこれるがごとし」としているのは、これも悪口ではなく
31文字に盛り込むにはあまりに豊か過ぎた業平の情感を言ったものと。
解釈されます。
さて問題は父の阿保親王ですが、平安時代初頭藤原式家の薬子の乱で
連座して太宰権帥に左遷されます。
弘仁15年(824年)に至って平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によって
ようやく入京を許されます。
一方この事件により平城天皇の第3皇子高岳王子は皇太子を廃され、
その子女は在原姓となり臣籍降下しました。
高岳親王に変わって皇太子に嵯峨天皇の弟淳和天皇。
時の嵯峨天皇を助け功があったのが北家の冬嗣,蔵人頭として天皇側近となり、
北家全盛の礎となりました。
次に帝位についたのは嵯峨天皇の皇子仁明天皇、皇太子は淳和天皇皇子
恒貞親王であったが、承和9年(842)7月に嵯峨上皇が亡くなった2日後
密告が嵯峨天皇皇后檀林皇后に届き伴(大友)氏一族が失脚、
恒貞親王は皇太子を廃され、仁明天皇皇子通康(後の文徳天皇)が
皇太子となる 承和の変が起こります。
この通康親王は藤原北家冬嗣の子良房の妹順子と仁明天皇の間の子で、
良房の甥にあたる。
『続日本後記』によればこの密告者が業平の父阿保親王で、良房に利用され、
その後ろめたさを抱え、同年10月に亡くなったとおもわれています。
仁明天皇はその死に際して一品を贈って労を報いたが、
その宣命
「慮(オモハ)ザル外(ホカ)ニ忽チ朕ガ朝廷ヲ置キテ罷リ巫シヌ。
聞食シテナム驚キタマヒ悔ヒタマヒ哀レミタマヒツツ」は、
密告直後から死に至るまでの間、
親王が邸内に引きこもって全く出仕しなかった事実からも自殺を思わせます。
この時業平は18歳。
このことが業平の人生に大きく影響を与えたと思われます。
そして、伊勢物語の2つの大きなテーマである、
二条后、伊勢斎宮に関わっていくわけです。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |