どうも私はひねくれ者で、あんまり社会正義を振りかざす人は信用できません。
必ず裏があるんじゃないかと思ってしまいます。
そんんわけで奈良麻呂の怒りも、あんまり正義感にあふれているんので、そればっかりじゃなかろう、と思ってしまうわけで、ここはやはり藤原氏に対する対抗心、そして傍から見れば十分な出世なのですが、本人は不満があっての行動と考えてしまいます。
その怒りの対象は仲麻呂です。
749年に奈良麻呂は参議に取り立てられます、同じ年仲麻呂は大納言。もちろん仲麻呂の方が年が大分上なので当然のことなのですが、奈良麻呂としては面白くなかったのでしょう。
仲麻呂は次男、奈良麻呂は橘の長子です。その辺で自分の方が上だという感覚だったかもしれません。
仲麻呂は確かに次男、長男は豊成です。2歳違いですが嫡男と次男、どうしても豊成を越すことはできません。
豊成という人はどちらと言えば、学者肌、仲麻呂はぎらぎらと野望に燃えるタイプ、正確は反対と言えます。
光明皇后にとっては、仲麻呂も奈良麻呂もかわいい従兄弟、さほど区別はしていませんが、仲麻呂は例の疱瘡で親を亡くしていますので、次男ではありますが、藤原家を代表しています。
一方奈良麻呂は、親はまだ現役で左大臣、当然立場が違います。
どうしても仲麻呂の方が第一戦にでます。そして野心家です。兄の豊成を何とかして出し抜きたい。
そこで考えたのが紫微中台、皇后宮職の権限を拡大して名を中国風に改めたものです。
太政官とは別の組織です、言わば内閣府が2つあるようなものです。
本来あってはならないことですが、仲麻呂は一方では太政官、なんの差し支えも無いといいはります。
聖武天皇は既に,政治への関心を失っています、孝謙天皇は光明皇后を敬っています。
皇后宮の権限が強まってもなんら問題なしと考えています。
歯噛みしているのは一人奈良麻呂です。
こうして即位した孝謙天皇はその政権は不安要素がいっぱいです。
といっても孝謙天皇のせいではありません。
聖武天皇の治世に対する不満のマグマがたまった状態と言えるでしょう。
その不満分子の代表が橘奈良麻呂です。時の最高権力者である橘諸兄の息子ですから、傍から見れば何が不満なの?と言う感じですが、そこが私の分類による第2世代の特徴である苦労を知らないお坊ちゃま世代です。
とにかく怒っています。「方に今、天下の憂へ苦しみて、居定まること無く、乗路に哭叫びて、怨嘆くことまことに多し。しかも猶、皇嗣立つることなし。」
度重なる遷都に怒っています。皇嗣は定まっているのに、阿部内親王を後嗣と認めていません。
光明皇后は橘三千代と藤原不比等の子供です。
橘奈良麻呂はその三千代の子、諸兄の子でしかも三千代と不比等の間の子、多比能と諸兄の間にできた子です。
このように絡まりあった姻戚関係の結果、ともかくも橘家と藤原家は並び立つ二大勢力です。
光明皇后にとってはどちらも大事な家です。
特に姓はちがってもその当時の婚姻の形態から母方の方がより近しい関係です。
ですから、光明皇后が藤原氏だけを大切に思っているはずはありません。
光明皇后にとって、国家のことは関係ないといったのは言いすぎかもしれません。
天平という時代を事実上支えてきたのは光明皇后です。
聖武天皇は何故か自分に自信がありません。非常に内省的でナイーブ、でもわがまま。
その天皇をずっとサポートしたのが光明皇后ということです。
広嗣の乱で、慌てふためいて奈良の都を言わばおっぽり出した聖武天皇はその後も彷徨します。
絶対的帝王のわがままです、だのに自信のない天皇はアンケートをとったりして、どっちの都が良い?
五位以上の官人で「24対23」六位以下で「157対130」で恭仁京が僅差で勝ちます。でも聖武天皇は実際は難波に都を移したいので、今度は民衆の声を聞きます。
ここでは圧倒的に恭仁京に軍配が上がります。そこでどうしたかと言えば。
ささっと難波に行ってしまいます。
あのアンケートはなんだったんだ?ということです。ところが難波に都を移したか思えば、上皇左大臣を残して
皇后と紫香楽へいってしまう、そして取り残された元正天皇もやがて紫香楽へ、従って新都のはずの難波はからっぽ、遷都の詔もないまま紫香楽が新都になる。
こんな状態で1番困るのはもちろん庶民、役人だってこまる。
ちなみに今、1300年祭で復元されている大極殿は恭仁京に移される前の建物です。
こうした状態で当然国民の怨嗟の声が上がるが、絶対的権力者である聖武天皇の耳には届かない。
そのうち天災に人災も加わって結局奈良の都に帰るわけですが、もう皆はへとへとです。
これでも叛乱が起きなかったのはむしろ不思議なくらいですが、左大臣橘諸兄、光明皇后の必死の支えがあったからとしか考えられません。
こうした背景の下に阿部内親王が即位します。
歴史はよく川の流れにたとえられます。
歴史は常に流れてとどまることはありません、個人の偉大な力で止まって見えても、流れの中では一瞬のことです。
天智天皇は、その治世は続くと思っていたでしょう、でも天武にとって代わられます。
天武天皇も藤原京を永遠の都として考えていたでしょうが、わずか十数年で平城京に変わります。
藤原不比等もあれだけの天才を持ってしても奈良の都が80年しか続かなかったとは考えていなかったでしょう。
国家100年の大計とよく言われますが、実際問題として100年先など誰にも読めるはずがありません。
所詮個々人が精一杯努力して自分の時代、せめて孫に時代まで描ければ良しでしょう。
持統天皇は決して天武の血筋を永遠に残そうと努力したわけではありません。
自分の腹を痛めた我が子、その子が死ねばその子をなんとか皇位に就けたい、その思いがすべてでした。
そしてその思いを、元明、元正天皇が引き受け、聖武天皇までリレーします。
聖武天皇は言わば上がりです。その先は何もありません。
そして、聖武天皇は皇太子に阿部内親王を就けます。
当然皇位は途絶えます。それでも、光明皇后は持統天皇と同じく我が腹を痛めて子に皇位を継がせたかった、犬養広刀自の子たる安積親王にはだけは絶対継がせたくなかった。
ここには、国家のこと、皇位のことは頭にありません、その先は誰か考えればいい、なんとしても我が子を皇位に就けるその1点です。
歴史は推理です。
学者は大胆な推理はできませんが、それでも史実の裏を読んで、書いていない部分を推理で補います。
ました私のような素人は、勝手気ままに推理をします。
でもある程度の裏づけはあるにこしたことはありません。
阿部内親王の即位は、光明皇后の意思である。
根拠は聖武天皇が何も言わないからです。
いわく元明天皇がおっしゃった、元正天皇がおっしゃったとか、誰に対していいわけしているのかわかりませんが、聖武天皇は自身の即位でも言わずもがなの、くどくどと理由をのべます。
光明子を皇后にするときも、これまたくどくど理由を述べ言い訳をします。
でも、後嗣に関わる重大な女性の阿部内親王の立太子の対しては、何も言いません。
続日本紀の記述は1行、阿部内親王を皇太子としただけです。
だから、私は聖武天皇の気持ちを勝手に推し量ります、僕知らない。これじゃないかなということです。
そして、光明皇后の協力者は橘諸兄、なぜなら同じ日に右大臣になったからです。
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