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その阿部内親王が皇太子になった年はどんな年だったでしょう。

738年のその前年、突如として、藤原四兄弟が病を得て亡くなります。

まさに、政治の大空白が生じた年です。朝堂は言わば空っぽ。

誰もいなくなったといった状況です。

そこで、知太政官事に長屋王の弟・鈴鹿王を、最上席の大納言には橘諸兄が任命されます。

鈴鹿王は言わば飾り、ましてあの長屋王の弟ですから、何もできません。

政治に実権は諸兄一人に集中していたといってもいいでしょう。

そこで、阿部内親王の立太子です。

諸兄は、光明皇后の同母兄弟、その時点では1番親しい関係といっていいでしょう。

聖武天皇は安積親王のことで弱みがあります。

元正天皇は女性の立太子には異論はありません。

こうして阿部内親王の立太子が成立します。

お礼の意味もこめて、諸兄は右大臣に就任します。

かくして、後継者がいないのを承知で皇太子が決まります。

波乱は当然後に起こります。

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前から書いているように第1世代、第2世代と言う分類で、当然不比等の子である光明子は第1世代に属します。

要するに親の苦労を見、肌で感じた世代です。当然わがままではありません、自分の役割も心得ています。

第2世代に属する聖武天皇とはここらでも意識が違います。

そんなわけで、しっかりと聖武天皇を支えると言う心構えを持っていた光明皇后ですが、人間である以上自我はあります。

光明皇后がその自我を押し通したのが皇太子だと思います。

当然女性の天皇と言うことになれば跡継ぎは絶えます。

それを承知で皇太子に阿部内親王を押したのは、当然、もう一人の男子、安積親王の存在です。

聖武天皇との間にできた唯一の男子、其皇子が生後2ヶ月で立太子と言う異例の即位をした後わずか1歳で亡くなります。

そして許せないことにその年,県犬養広方自が安積親王を産みます。

悲嘆にくれている光明子を尻目にせっせともう一人の女の下に通い子を儲けたわけです。

その安積親王には絶対皇太子になってほしくないと考えるのは人情でしょう。

そこで我が子の阿部内親王です。今までの女帝はすべてその子、孫までの繋ぎのための即位です。

しかし阿部内親王は違います。後に譲るべき男子なく即位するわけです。

それでもよしとしたのは聖武天皇であるはずがありません、光明皇后の強い意思なくしては考えられません。

701年不比等と三千代の間に安宿媛は、奇しくも聖武天皇(首皇子)と同じ年に誕生します。

首皇子は文武天皇と同じく不比等の娘宮子の間に生まれたわけですから、光明子とは異母兄弟です。

その時、持統天皇はその2人の誕生を知っています。

だからと言って将来2人の結婚を考えたかどうかはわかりませんが、信頼する不比等の孫が同年に誕生したことに何らかの感慨はあったかもしれませんね。

714年、聖武天皇は皇太子となり元服します。

715年には元明天皇が、本来なら皇太子に譲位すべきだが、まだ年和で後宮を離れられないからということで、娘の元正天皇(氷高内親王36歳)に譲位します。

この辺からも聖武天皇の頼りなさと言うのは伺えます。

そして翌年、元明天皇が首皇子に光明子を授けると言う形で結婚します。

ただの娘と思うな、あの忠臣不比等の娘ですぞ、大切にするのですよ、とわざわざ言葉を添えます。

もちろん、言葉通りでしょうが、首皇子には既に子供をもうけた県犬養広刀自という妻がいます。

そのことと、当然関わっての発言でしょう。

天皇、皇太子というのは跡継ぎが絶対いるわけですから、何人も妻がいるのは言わば常識です。

だからといって、子さえもうけた妻がすでにいるというのは光明子にとって心穏やかなわけでは当然ありません。

余談ですが、奈良時代でも、もう天皇が好きな時に外歩きして、好きな女性をみつけるなんてことはできません。

また、その当時の妻は当然通い婚ですが、天皇に限ってはその家に娘を迎えると言う形になります。

そんなわけで、広刀自も差し出された娘ですが、その中でも気に入って首皇子が手を付けたわけですから、まあ好きだったということでしょう。

そこへ、元明天皇から、大事にしろと言って与えられた光明子。非常に微妙ですよね。

天平時代のもう一人の主役、というよりほんとはこちらの方が主役かもしれない光明皇后。

天平と言う年号は21年までですが、その後「天平感宝』、「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」と40年近く天平と言う時代が続きます。

そして。それは聖武天皇の元号ではなく、光明皇后の時代です。

後に孝謙天皇が譲位した時「宝字称徳孝謙天皇」、皇太后たる光明皇后には「天平応真仁正皇太后」という称号が送られます。

そして聖武天皇にはそのずっと後になってようやく「勝宝感神聖武皇帝」という称号が贈られます。

要するに、天平と言う時代を代表するのは、その称号に天平とつく光明皇后であるということです。

余談ですが、我々が、聖武天皇、孝謙天皇あるいは称徳天皇と呼んでいるのは、この称号からきています。

ということは、光明皇后は、天平皇后と呼ぶべきかもしれません。

私は書家ではありません、そしてその人の書を見てその人柄を類推するなどということは来ません。

でも、正倉院展に何度か出品された光明皇后と聖武天皇の字を拝見すれば、まったくの素人でも、聖武天皇の字が繊細で、光明皇后の字が豪放磊落、というか骨太でおおらかというか、とにかく字に力強さを見て取れます。

やはりこれは、人となりを表しているとしか考えられません。

昨年6月に取り壊された日吉館の跡地に店舗兼住宅が建設されます。

正面は旧日吉館の外観をイメージした建物になるようです。

鉄骨2階建て、床面積は270平方m。1階の入り口から2回の店舗スペースに上がる構造で、正面からは階段は見えず、1階もシャッターは木調とか。

日吉館のファンはどう思われるのでしょうか?

私は、建物の外観が復元されてもあまり意味はない様にも思います。

日吉館は田村キヨノさんと、お客さんが、かもしだした雰囲気、まさに昭和と言う時代があってこそ存在意義があった。

そして時の移ろいと共に姿を消した、それでいいのではないかな、と考えます。

アカダマもいずれ姿を消します。

そのとき私は訪れたことのあるお客さんの心の中に思い出が残っていたらそれでいいと思います。

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