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この一連の遷都は一体どういう意味があったか、正直聖武天皇の気持ちはわかりません。

ともかくも奈良の都が嫌、そして、絶対君主である自分は何をしても許される。

自分は第2の天武になるといった気持ちだったのでしょうか。

ここで、事実として忘れてはならないのは、確かにこの時代、天皇制はもはや、だれも犯すことのできない、絶対的なものになっていた。

聖武天皇がいかに横暴であっても、それを諌め正す、あるいはその地位を脅かすものは誰もいない、いなかったという事実です。

おそらく長いに日本の歴史の中で、天皇の地位が1番強固であった時代がこの時代であったということです。

そしてこの体制を作り上げたのは天皇自身というよりやはり不比等の力であったということです。

こうして、不比等が作り上げた強固な律令制とその上にある天皇。その力を1番利用したのが自身意識していたかどうか微妙ですが聖武天皇です。

そして頂点であったがゆえに、後は下り坂になるのは歴史の必然です。

思えば、持統天皇の執念として我が子に天皇の地位を継がせたい、子が死ねばその孫に、その孫が若死にすればその子に、そしてその執念を実現するために次々と女帝がリレーをし、そのバトンを最後に受け継いだ、元明、元正天皇、そしてそれを陰で支え続けた不比等、妻の三千代。

そのゴールが聖武天皇です。ゴールまでは強い意思と執念、言わば高いモチベーションが維持されましたが、目標が達成された後、同じモチベーションを持ち続けることは不可能です。

そしてなお不幸なことに聖武天皇にはついに男子の後継者ができませんでした。

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ここで突然遷都が行われます。

聖武天皇の頭の中では計画されていたのでしょうが、まわりにとっては突然のことです。

実際、思い付きであった可能性が高いです。

広嗣の乱で都を尻をからげて逃げ出して、その間にひらめいて、そうだ、この際都を移してしまえ。

天武天皇のように、自分の都を作ろうとひらめいたに違いありません。

しかし計画性があったわけではありません、そこで側近の橘諸兄に何処が良いだろうと相談します。

おどろいたのは諸兄でしょう、当然反対はしたでしょうが天皇には逆らえません。

相談されたところは諸兄の別荘、そこですぐ近くの恭仁ということになりました。

藤原氏の勢力が強い平城京を離れて、諸兄が自分の勢力圏である恭仁にしたと言う説が有力ですが、私は諸兄の意志より聖武天皇の意向と思います。

ここから、また聖武天皇の気持ちは次々と変わります。

恭仁から紫香楽、そして難波。また紫香楽そして大仏の建立もその地で始まります。

正直周りは大混乱、迷惑至極です。

そして結局は平城京にもどるのは5年後です。

なんとなんと、聖武天皇は驚きあわてて、都から逃げ出してしまします。

もちろん直接兵を指揮する立場ではありませんが、仮にも最高指揮者である天皇が都をおっぽりだして逃げ出すとは、驚きの反応です。

聖武天皇にとっては、武力による反乱者が出たことがまず驚きですが、それが藤原氏であることがショックだったのです。

藤原氏は天皇にとっては言わば身内です、しかも不比等依頼、常に忠実な家臣として天皇家を支え続けてきた、最も信頼できる部下である藤原氏が叛乱を起こすなどとは、まさに驚天動地、想像を絶する出来事だったのでしょう。

それにしてもですが、さらにその逃げ出したときにはもう既に反乱軍は鎮圧されています。

もちろん、今のように通信手段がありませんから、どうしてもタイムラグが生ずるのですが、なんとも間の抜けた話です。

しかも、広嗣処刑の報が入った後も,徘徊を続けます。

お坊ちゃまとしては、叛乱の知らせが入って、前後のことも考えず逃げ出したのですが、言わば初めて都を離れて、これが意外と気に入りました。

言わば日々の重圧から開放されたのです。まわりにはうるさい重臣もいません。日常の行事からも開放されます。

こうして、その後も徘徊を続けるのですが、このコースは天武天皇の壬申の乱でたどったコースをなぞっています。

前から言っている様に、奈良時代は不比等が天智天皇から天武天皇に略奪された政権を天智の子である、持統天皇を助けることによって、天智の血筋に戻したのが始まりです。

しかし、同時に聖武天皇は当然ながら天武の血もひいています。

天武の否定と、その血筋という自己矛盾を抱えた聖武天皇はそのことに心の中で葛藤があります。

そして天武が否定される中で、ひそかに天武に対する憧れをはぐくんでいました。

そして今回の出来事によってその気持ちが表に出てきたわけです。

最初にイライラを爆発させたのが、式家の広嗣です。

大体広嗣は藤原家の中でも乱暴者としてもてあまされていたようで、このとき大宰府の左遷されいました。

ところが逆にこれが裏目に出ます。大宰府と言うところは完全に独立した組織で兵力もあります。

広嗣は少弐と言うことでトップではありませんが、そのときの大は高橋朝臣安麻呂と言う人でしたが、家柄的に藤原のおぼっちゃまを抑えることはできず、結果広嗣が大宰府を牛耳ってしまいます。

こうして叛乱の軍を上げたのですが、その要求は僧玄肪と吉備真備を朝廷から除けと言うものでした。

いずれも唐から帰国したいわば海外留学のエリートです。

そして、朝廷ではまだ地位は高くありません。

にもかかわらず、その2人を除けと言うのは、要するに彼らが朝廷でもてはやされていることに対するやきもちです。

やきもちで叛乱を起こされてはたまったものではありませんが、広嗣の心の中では、自分の言うことは正しい。

必ず自分の要求は受け入れられるはずだと言ういかにも、おぼっちゃまらしい甘えがあります。

だから、その蜂起そのものも対して計画性もありませんし、先の見通しもありません。

結果はいうまでもなく、早々に鎮圧されてしまいます、そして広嗣は処刑されます。

ここで、かたや権力者のおぼっちゃま聖武天皇は、これまたおぼちゃまらしい反応をみせます。

天智天皇から元正天皇までの時代と、それ以降を私は勝手に第1期と第2期に分けています。

第1期はそれぞれの天皇が実力で覇を争った権力闘争の時代。

第2期はその子、孫といった生まれながらにして権力者であったおぼちゃま達のわがままによる騒乱の時代。

天智天皇は文字通りその知力によって、天武天皇はその武力によって、自らその権力を手にしました。

鎌足、不比等、は徒手空拳と言っていい立場から、自らの才覚で権力を手にしました。

今、不比等 美千代、そして不比等の子の四兄弟、元明天皇も亡き後、権力は聖武天皇に集中します。

しかしその聖武天皇はわがままなおぼちゃまであり、しかし反面気弱で自信無げです。

そして藤原氏も第2世代の交代しています。

藤原氏もその親の四兄弟までは、親の苦労を見て育ち、不比等の教訓をよく守っていました。

しかし、突然の親の死で藤原の当主となった孫達には親の教育も不十分なまま巣立った感があります。

聖武天皇と同じく、生まれながらの権力者として育った彼らにはつつしみはありません。

こうしてわがままな天皇、おなじくわがままな臣下の時代が奈良時代の後半です。

 

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