図らずもと言うか、権力の忠臣に躍り出る形になった橘諸兄は元葛城王、三千代の前夫美努王と三千代の間にできた子です。
美努王は敏達天皇の3世、言わばかつかつ皇族、であるからその力はむしろ不比等の妻美千代の子ということによります。
光明皇后も三千代の子、そこで異父兄弟ということになります。
亡くなった四兄弟ももちろん不比等の子ですが母は蘇我娼子、ここでは異母兄弟。
現在の我々では理解しがたい血族関係です。
聖武天皇は母は宮子、不比等の子ですが、その母は賀茂比売。
もうこうなると何がなんだかわかりません。
そして何より今の感覚で理解できないのが、こうした異母、あるいは異父兄弟というのは互いにどう思っていたか?
異父、異母の関係では当たり前のように結婚もあります。
ということは、感覚としてはほとんど他人なのでしょうか・・・
皇后光明子と橘諸兄はどういう関係であったのか、あるいは聖武天皇とはどうだったのか?
もちろん光明皇后は藤原氏の出です、しかし不比等も美千代もなき今、残された藤原氏の子達と諸兄をみれば、諸兄の妻は光明子の姉妹多比能。
こうみると、藤原の子より橘諸兄のほうが寄り近しい関係です。
ご存知のように、天平9年(737)都を襲った疫病は藤原四兄弟を次々と襲い、また橘諸兄の弟佐為も死なせてしまいます。
このとき房前57歳、麻呂43歳、武智麻呂58歳、宇合44歳。その当時の平均年齢が何歳かは知りませんが、ともかく、なんの心構えも、死後に対する手配もできずに倒れて行ったと思います。
その前、天平五年(733)には橘美千代が、天平七年(735)には天武の子、舎人親王と新田部親王も亡くなっています。
かくして朝廷はまったくの人手不足と言うか、政治を執り行うこともできない状態となります。
そこで急遽長屋王の弟鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を大納言に任じます。また藤原氏では唯一武智麻呂の長男豊成が参議となります。
そして、その当時医学が発達していませんから、病気の治療と言うか、加持祈祷は僧侶が行います。
そこで頭角をあらわしてくるのは留学僧であった玄昉です。
そればかりでなく、天平九年に隔離状態であった聖武天皇の母、宮子の病を治してしまいます。
なんと37年ぶりというか、生まれて初めて聖武天皇は母と対面を果たしたのです。
その喜びは国名まで、大倭から大養徳と代えてしまうほどでした。
かくして政権の中心は藤原氏の手から一変してしまいます。
こうして、長屋王を死に追いやった後、これでもう聖武天皇にとってライバルになりえる人はないと言えますが、まだ安心しません。
天武の子がまだ他にも生き残っています。舎人親王と新田部親王です。
舎人親王は形だけとはいえ太政官の首座知太政官事です。
そこで、なんと舎人親王に敬意をはらうなと言う、不思議な命令を出します。
本来太政官の最高位である舎人親王が朝堂に参入するとき、諸司の官人は親王のため座席を降りて敬意を表するにおよばない。
このような理不尽な命令が出ても長屋王の死をみて、舎人親王は反発することができません。
かくして、邪魔者はすべて排除で来たのですが、今度は人材不足に陥ります。太政官には大臣がいません。
そこで、各省庁に呼びかけて適当な人材を推薦せよと呼びかけます。
聖武天皇は、独裁的であるかと思えば、後の遷都でもみなの意見を募ったり変に民主的な面もあります。
その呼びかけに応じて朝廷の管理職のうち9割近くが推薦者を出します。
結果6人の新しい参議が決まります。その中には不比等の三男宇合、四男麻呂、不比等の妻である三千代の子葛城王が含まれます。
と言うことは、太政官の中で大納言不比等の長男武智麻呂、房前に加え不比等の子が4人まで占め、あと一人も三千代の子と言う藤原家にとっては万々歳結果となります。
しかし、それでもまだ不比等の子達は不比等の教えを守り、天皇の忠実な臣下としての節度を保っていました。
ところが事態は一変します。
こうして、最大のライバルというか目の上のたんこぶだった長屋王をしに追いやった聖武天皇は藤原の光明子を皇后とします。
その点に関して、またまたいろいろと言い訳をします。
いわく、皇太子(1歳で亡くなった基王)の母だから。
元明天皇からかの不比等の娘であるから、くれぐれも大事にするように言われたから。
過去にも仁徳天皇が葛城曽豆比古の娘、伊波乃比売命を皇后とした。
よって昔から先例があることだ。
くだくだ言い訳をします。しかし誰に対して言っているのか?クレームを付けるような人はもういません。
要するに自分自身に対する言い分けです。
あくまで臣下の藤原氏の娘を皇后にすることに自分で理由が必要なのです。
しかし、聖武天皇を支えているのは今や藤原氏であることは間違いありません。
この時点ではもう不比等は亡くなっていますが、その子である4人は政権に入ってしっかりと聖武天皇を支えています。
子供たちにはまだ不比等の遺志はしっかり受け継がれ、身を挺して天皇を支えると言う使命は守られていました。
そのとき政権の首座はt知太政官事舎人親王、ついで知五衛及授刀舎人事新田部親王。大納言多治比池守。
房前は中衛府大将。長男の武智麻呂は中納言で正三位。宇合は式部卿従三位。麻呂も従三位でした。
したがって藤原氏が政権を支配していたとは必ずしも言えません。
長屋王の変は藤原氏が娘光明子を皇后にしたいがために仕組んだ、と言われています。
私はその側面も多少はあるでしょうが、まず第1に聖武天皇自身の意思が強いとお思います。
今まで書いてきたように、長屋王に対して強いライバル心というより恐れを抱いていた聖武天皇の気持ちが、皇太子の基皇子の死によって一気に爆発したのが真相ではないかとお思います。
聖武天皇は繊細な神経を持った人です、そしてプライドは人一倍強い。
いっぽう長屋王は豪放磊落、小さいことにこだわらない性格と思われます、逆に言うと繊細さに欠けるとも言えます。
もう少し自分の置かれた立場と言うものに思い至ればその行動も少しは制御されたでしょうが、その気はなく自分のしたいように行動した、その行動がますます小心な聖武天皇に疑心を植えつけたのだと考えます。
こうして、長屋王は結果として死に追いやられます。
その後で、光明子が皇后になったのは流れだと思います。要するにそれが目的ではなく結果としてそうなったと言うことです。
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