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元正天皇の即位の宣命詔はありません、しかし、聖武天皇の即位の宣命のなかに元正天皇の言葉が引用されています。

「文武天皇がまだ首皇子が幼いので、荷の重いことは堪えられないであろうとまず、元明天皇に皇位をゆだねた。

そして、元明天皇が元正天皇に皇位を譲るとき、天智天皇が建てられた不改常典にしたがって、天皇の位は必ず我が子(首皇子)に確実に授けなさい。

そして、養老7年に白亀が献上されこのように瑞兆が現れたので、養老8年を神亀元年とし、天皇の位を譲る」

と元明天皇から、不改常典にしたがって、かならず首皇子に位を譲るよう言われて即位したと述べています。

このように、最初から聖武天皇への中継ぎを託されて元正天皇は即位したわけです。

そして、元明天皇は実際には祖母と孫の関係ですが首皇子のことを我が子といっています。

またおばである元正天皇も首皇子を我が子と表現しています。

首皇子の実際の母親は、不比等の娘、宮子です。

しかし宮子は首皇子を産んだ後長い病を患って、養育にはまったくタッチしていません。

したがって、祖母、おばが母親代わりとして育てたいきさつもあります。

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藤原宮蹟で、大嘗祭の遺構らしきものが発見されました。

誰のものかはわかりませんが、元明天皇の可能性が高そうです。

 ますらをの鞆の音すなり 物部の

          大臣楯立つらしも

答歌として

   吾大王ものな思ほし皇神の

       継ぎて賜へる吾なけなくに

この歌は大嘗祭に臨む、元明天皇の心境を表した歌です。ようするに不安なのです。まわりの視線も自分自身の気持ちも即位することに不安だったのです。

でも持統天皇の遺勅、不比等、美千代の励ましをうけてしびしぶ即位しました。

でも、やめるときは自分の意思を貫きました。

そこで氷高内親王です。彼女はどうだったのでしょう?嫌々なのか、突然の皇位だったのか?

その気持ちを推し量る資料はありません。

ただ即位の時点で36歳、独身。ある程度覚悟があったとしか考えられません。

そうでなければ、その年齢まで皇女が独身でいてることは不自然です。

707年元明天皇が47歳で即位して、721年61歳で亡くなるまで、この期間は不比等と2人三脚、あるいは美千代との3人で政治は非常に安定した時代であったと思います。

715年には元明天皇の子、首皇子の姉の氷高内親王が36歳で即位し、714年には首皇子の立太子も行われています。

譲位の理由は、つまるところ「疲れた」である。

「庶政に憂労すること茲に9歳。今精華漸く衰へ耄期斯に倦む」しかし、首皇子は「年歯幼く稚くして深宮を離れず」であるから、庶務多端な帝位はまかせられない。よって氷高内親王に帝位を譲る。

首皇子は15歳、幼いわけではないが、その当時はまだ天皇が実際に政務を行っていた時代、平安時代のように幼帝が平気で即位した時代とはわけが違いました。

ただ、15歳と言う年齢には意味がありました。

と言うのは、持統天皇が文武に譲位したのが15歳。

この時は政務は引き続き持統天皇が実際には執ったわけですが、元明天皇は天皇になりたくてなったわけではありません。

いわば、持統天皇の意思を継ぐため、しぶしぶ即位したわけですから、もういいだろう、持統天皇も文武に15歳で譲位したんだから、わたしも、もうやめます。というのが本音だと思われます。

先日案内が来ていました。

飛鳥で二泊三日の合宿、男15名、女5名までと言うことです。

行きたかったのですが、夏はスケジュールが混んでいて私は無理でした。

ソムリエを対象にした講座があると聞いていましたが、こういう形は意外でした。

参加できる人はうらやましいです。

1日だけの講座を何時かお願いしたいものです。

話は行ったりきたりしますが、こうして、奈良時代が始まりました。

その参謀は不比等、旗頭は天智天皇の子である元明天皇。

不比等は、天智から天武によって簒奪された王朝を元に正し、合わせて天武によって滅ぼされた中臣家の無念を晴らす。

そのための天武の都である藤原京からの遷都であり、文武、元明と、天智の不改常典による皇位の継承であったわけで、その望みがすべて果たされたわけです。

天武系の皇子は完全に臣下となり、天智の血筋のみが皇位を継承するというルールが確立されました。

天武の皇子は遷都の時点で大部分は亡くなっていましたし、忍壁皇子、穂積皇子は知太政官事という、極端に言えばわけのわからない官職に祭り上げられていました。

知太政官事というのは、律令の規定にはありません。

太政官の事を知らしめる、本来は太政大臣という官があります。

最初の太政大臣は大友皇子、次が高市皇子です。定員は一人、帝の師範ときていされ、人無くば闕く。

この官につけば官の最高実力者ということになりますが、知太政官事では権限があいまいです。

こうして、天武の皇子を言わば囲い込んでしまったわけです。

そしてその官位も穂積親王が亡くなったあと、不比等が亡くなるまで空位となります。

不比等はすでに右大臣、しかも左大臣は空位であり、最高実力者となっていたので、お飾りは必要なくなったということです。

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