こうして、不比等の協力の下、奈良遷都を成し遂げ、即位の詔で天智天皇不改常典を用い出すことによって、自らの正当性と共に、天武天皇の即位が正しからぬことであったと宣言し、天武の子達の野望を封じたわけですが、ここでもう1度天智、天武の子達を見てみましょう。
まず天智の子ですが、長子の大友皇子は壬申の乱によってすでに亡く、建皇子は658年に8歳で死亡。
川島皇子は691年に死亡、残ったのは施其皇子のみですがその皇子も716年には亡くなっています。
天武の皇子では、まず大津の皇子が持統天皇により葬られ、ついで草壁皇子が689年、高市皇子は696年。弓削皇子は699年。磯城皇子は時期は不明ですが、早くに亡くなり、忍壁親王も705年に亡くなっています。
そして,長皇子、穂積皇子は715年に死亡。
残るは、舎人皇子、新田部皇子のみとなっています。
こうして、即位した元明天皇ですが、歴史上は比較的地味な存在です。
持統天皇ほどの強烈な個性はないし、後の孝謙のようなスキャンダルもありません。
しかし、その治世をみると、まず奈良遷都、貨幣の鋳造、古事記、日本書紀の撰修、大宝律令も制定と歴代天皇の中でも特筆すべき功績を残しています。
元明天皇は姉、姑である持統天皇とならんで、賢明な女帝であったことは間違いありません。
しかし、その功績のほとんどは不比等のおかげであるとみなされています。
また事実そうでもありましょう。
しかし、トップたるものは、如何に部下をうまく使いこなすかがその能力です。
官僚を敵に回したり、本来部下である幹事長をつかいこなせなかった鳩山政権を見るまでもなく、部下を使いこなしてこそ、その統治もうまくいくわけです。
改むまじき常のことわり。このことについては、中身が一体なんであるか?論争があります。
しかも、天武ではなく天智天皇の不改常典です。
いまも結論はでていないようですが、私は、皇位の相続に関して親子相続を言っていると解釈しています。
そして、それは天武ではなく天智が伝える皇統。
それを前面にうちだすことによって、元明の即位の根拠とする。
天武の子の草壁の妃であることより、天智の子である元明ということが大切なわけです。
こうして親子の相続が不改常典であるということによって、元明の即位を正当化すると同時に、天武の子達の即位を封じる。
なんと、素晴らしい理論でしょう、お分かりでしょうが、これえも不比等の考えであることは間違いありません。
元明天皇にとっては、皇位というものには、恐れはあっても執着はまったくなかったでしょう。
その点でも、壬申の乱を夫、天武とともに文字通り血で勝ち取った持統上皇とは、思い入れが違います。
そして、我が子文武が病弱の身で皇位の重みに苦しんでいたさまを身近でみていたわけですから、何が何でも孫を皇位にという思いもそれほど強くはなかったと考えられます。
その阿閉皇女を言わば叱咤激励したのが、不比等であり三千代であったと思います。
それでも、皇后でもなく、天皇の母という、名目に乏しい即位に躊躇する阿閉皇女に不比等が用意したのが、いわゆる、天智の不改常典です。
15歳で即位した文武天皇でしたが、病弱で、実際の政務は持統上皇がささえ、不比等が実行するといった組み合わせで行われたと思います。
そして、再三、文武天皇は母、阿閉皇女に譲位をねがいます。
断り続けた阿閉皇女ですが、病弱な文武の頼みを最後には受け入れて即位します。元明天皇です。
しかし、もちろん皇太子であるわけではありませんし、子から母への譲位など、
かってあったことがありません。
まして、夫である草壁皇子は天皇ではありません。皇后でもない阿閉皇女が即位することなど、まさにありえないできごとでした。
当然、元明天皇は躊躇しますが、そこで持統上皇、不比等が強く即位を後押しします。
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