そしてその年、持統天皇が譲位して、文武天皇が即位する。
文武天皇15歳のときです。
奈良時代以降になれば、若いどころか、まだ幼児の天皇も登場するが、奈良時代までは、天皇が実権を持っていた時代、即ち天皇が実際に政治を行っていた時代です。
だから、この15歳の即位は珍しいできごとです。
何故それが可能かといえば、持統の存在がそれを許したわけです。
生前譲位というのも、珍しいできごとであり、文武の政治を持統が補佐する、できることによってのみ、このことが可能だったわけです。
しかし、持統の存在があってもなお、スムーズに文武の即位が実現したわけではありません。
懐風藻によれば、高市皇子の死後会議が開かれ、後継問題が話された。
そこで弓削皇子が発言しようとしたのを一喝して、軽皇子を押したのが、葛野王でした。
葛野王は、あの大友皇子の子です。かくて、軽皇子が皇太子に決まったのですが、葛野王の発言は、私は不比等の入知恵としか思えません。
いうなれば、根回しです。葛野王はこの後、正四位、式部卿に任ぜられています。37歳で死んでいますが、もう少し長生きしていれば、もっと出世したと思われます。
不比等はこうして黒子として持統天皇を助けます。
民主党の小沢支配どころの比ではない、なにせ命を奪われるわけであるから、表立って天皇に異を唱える人などいるはずもない。
大津皇子に対する果断な処置が功を奏しているわけだが、このあまりにも即断実行というのは、やはり誰か陰で支える人がいなければ女帝一人の決断としては果敢すぎるとおもいます。
さて、その時多少とも気になる存在をあげれば、高市皇子である。天武と共に壬申の乱を戦い、実際に長子である高市皇子はその時太政大臣として政治の実権をにぎっていた。
しかし太政大臣であることによって、後継者ではなく、臣下であることも確かであったが、その存在が気にならないはずはない。
というわけで、高市皇子が亡くなったその年、いわば待ってましたという感じで、珂瑠皇子の皇太子が実現される。
と言っても、現実に文武を皇位につけるのに、大きな障害があったわけではない。
なんと言っても、大津皇子をすばやく抹殺したことが、ここで大きく意味を帯びてくる。
前にも書いたように、不比等にとって、天武は鎌足と天智が築いた近江朝を滅ぼした敵である。
壬申の乱では、鎌足亡き後,中臣家を率いて大友皇子に仕えた、中臣金が殺されている。
しかも、不比等は天智の子である可能性もある。
だから、天武は決して許すことができない敵であり、だからこそ、その都である藤原京からの遷都を画策したのであるが、一方、持統は天武の皇后であるとともに、同じ天智の子である。
その血筋を守ることは、天智の血筋をまもること、ここに利害の一致がある。
そもそも、天皇の血筋は男系、女系の議論があるが、古代においては歴史としては男系で表されるが、女系が大きな意味を持っている。
その好例が、継体天皇である。
武烈天皇が亡くなった後、皇統が途絶えてしまう。
そこで、越前に住む応神天皇5世の子男大迹王を迎えて継体天皇とするのであるが、5世の子というのは、ほとんど皇族でさえない。
そこで決め手となったのは、条件として仁腎天皇の子、手白香皇女と結婚し生まれた子を跡継ぎとすること。
すなわち、生まれた子は継体天皇の子というより、手白香皇女の子。仁賢天皇の孫となる。
そこで初めて皇位は保たれるわけである。
女系が大事な皇統を保つ要素となっている。
このようにして、なんとか草壁皇子を皇位に就けたいという、持統の願いもむなしく、草壁皇子は28歳でなくなってしまう。
ここで、普通なら茫然自失に陥ってとうぜんであるが、持統は強かった。天武の皇子は他にもいる。
しかし持統のとってはその選択肢はまったくない。
帝位に就くのは私の産んだ皇子だけ、これが持統を支える信念となった。
なんとしても、孫、草壁の子、珂瑠皇子を皇位に、そのため自身がまず即位し、7歳の珂瑠まで繋げる、そのことが持統の使命となった。
持統には天武の血を伝えるという意識はなく、自らの血を受けた子に皇位を伝えると言う意思のみがあったと考えられる。
その点で、不比等がこれを助けると言う構図ができあがった。」
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