697年の5月、吉野の盟約で誓詞を述べた順番はまず、草壁、次に大津、そして高市皇子。
第1子はもちろん高市皇子である、しかも壬申の乱で父天武を助け活躍したのは高市皇子のみである。
にもかかわらず、順番で3番目ということは、なによりも血筋が重んぜられたということの他ならない。
草壁、大津は血筋は同じ天智、天武の血を受けているが年齢が草壁が1歳上だということの順番である。
しかし、大津という名前でもわかるように、大津皇子は天智にも高く評価され、後継者と目されていたようである。
天武も大津の才能を評価していた。
であるからこそ、天武の死のその直後に大津は持統の手によって殺されてしまったのである。
能力があったゆえの悲劇といえる。
天智の男子の子は4人(芝其皇子は第7皇子と書かれているので、7人いたようですが後の3人は不明です)でした。
吉野の盟約に参加した皇子は2人。川島皇子と芝其皇子です。
後2人は、大友皇子は壬申の乱で、建皇子は658年に8歳で既に亡くなっています。
川島皇子は691年に亡くなって、その後名前は出ることはありません。
芝其皇子の子供が後に白壁王、光仁天皇として、天智の血筋を伝えることになります。
次の天武の子ですが、草壁、大津、高市、忍壁の4皇子です。
その場にいない皇子は、長、弓削、穂積、舎人、新田部の5人。まだその時点で成人に達していなかったと考えられます。(磯城皇子という皇子もいたようですが生没年不明)
一般的には、これで草壁皇子の立太子が決まったと言われています。
というのも、誓約の言葉を言った順番が、草壁皇子が第1番だったからですが、わたしは必ずしもこの場が立太子の決定の場所とは思っていません。
ただ、第1子であり、壬申の乱でも天武を助けて功績大である、高市皇子が順番として、3番目であったことは、単に年齢、あるいは功績ではなく、まず血筋。天武と天智の血を引くことが優先されたということを表しています。
であればこそ、人格、人望の高い大津の皇子の存在が、持統には大きく感じられたのが、この場であった。
という意味で、非常に重要な場であったといえます。
そもそも、この話を書き始めたとき、今年は遷都1300年でもあるし、奈良時代のことを少し書いておこうと軽い気持ちで書き始めました。
奈良時代といえば、遷都したときの天皇は元明天皇。
元明天皇といえば、我が子である文武天皇から譲位された、少し変則な即位であった。
何故かと言えば、文武の子である軽皇子(聖武天皇)の即位までの繫ぎであった。
そしてそれは、持統天皇の強い意志であった。
というわけで、前へ前へとさかのぼる必要がどうしても出てきました。
何処まで遡っても歴史は連続するわけですから、実際きりはありません。
でも最低限、天智天皇、天武天皇までは遡る必要はあります。
そして、壬申の乱がまず大きな転換点になります。
そして、今、吉野の盟約という流れです。
さて天武天皇には子供が16人いました。随分多いですが、なんせ妃だけで10人ですから。
そのうち男子は9人。これだけでも多いです。後継争いが心配なわけです。
天智の子は16人、男子は4人、妻は9人です。
その中で最初に壬申の乱で大友皇子が亡くなります。
そしていわゆる吉野の盟約に参加した皇子は6人。
天智のこは、川島、芝其の2人。
天武の子は草壁、大津、高市、忍壁の4人。
この6人だけが後継者の可能性があった皇子です。
そしてここでも最初に大津の皇子が亡くなります。
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