不比等に関しては、出生の秘密が一説にはある。
不比等の母、鏡女王は天智の妻であったが、後鎌足の正妻となっている。
そして、不比等の出生に関して、公に避くる事有。と一書にあり、天智落胤説となっている。
私は歴史学者ではないので、面白いから、この説を採ります。
ということで、不比等は天智の落胤。それをしっている持統は不比等を取り立てる。
また不比等も良くそれに答え、ますます信頼を得る。
そして次の元明天皇からも厚い信頼を得、三千代との政略結婚もあり宮廷での地位を確固としたものにし、
(701年、大納言。707年右大臣)天武の都である藤原京からの遷都を実行。
というのが、私の筋書きです。
今年は文字通り、奈良にとってはゴールデンだったようです。
1300年祭は予想の1.5倍、奈良公園でも昨年の3割り増し。
もちろん、地域によってばらつきはありますが、まずは大成功の部類と思います。
1300年祭、最初に保存運動に文字通り命をかけた棚田作十郎さん、
近鉄の車庫問題で保存運動を盛り上げた上司海雲師も地下で喜んでおられると思います。
後はこの祭りの後の平城宮蹟のありかたでしょう。
ところで、話が途中になっていますが、藤原不比等。
この人はほんとに理解が難しい人です。
奈良の都の大功労者ではありますが、実に巧にと言うか、表面に現れません。
その後1000年以上に亘る藤原氏の繁栄はこの人の功績なのか、その後の子孫のせいなのか?
先日JRの方に用事があって、旧奈良駅をのぞきました。
今は観光案内所になっています。
人はいなくてがらんとした感じ、はしっこに案内所があります。
かって保存運動がもりあがって、保存することになり、何十億だったか。税金を投じて保存された建物です。
私は当初からこの建物の保存には懐疑的でした。
まったく値打ちを感じなかったからです。
でも、何故か保存運動が起こり、どうでもいいと思っている人の声は当然起こりませんから、1部の声をあげた人の言い分が通り、税金が投入されて残ってしまいました。
なら市民県民の税金です。そして保存運動に声をあげた人はまったくと言っていいほど、お金は出していません。
そして保存が決まればそれで終わり、あとはほったらかし。
かって平城旧蹟の保存運動がおこり、近鉄が折れて保存が決まり、今1300年祭の会場として盛り上がっているのとは大違いです。
ま、わたしの雑感です。
5日までの人出は、1300年祭では予想を上回るすべりだし。
一方、おなじ奈良市内でも、奈良町界隈は3割減とか、明暗を分けた感じです。
平城宮跡を見物した後で、奈良市内に回る人はまずいないだろうというのが、私の見立て。
私としては予想通りというところです。
アカダマの方は、例年通りもともと、並みの下(波の下)はいつも穏やかといったところです。
鎌足は天智天皇が無くなる2年前の669年その時不比等はまだ10歳、壬申の乱のときで12歳。
まさに絶妙のタイミングです。
鎌足の死がもう少し遅ければ、当然壬申の乱で敗者の側であったでしょう。
不比等がもう少し大きければ不比等も壬申の乱に巻き込まれていたでしょう。
その後不比等が歴史に名を表すのは31歳。
持統にとっては、父の忠臣である鎌足の子ということで特別な思いは当然あったであろう。
そして、三千代の存在。
大津の皇子に対する果断な決断は一人のものではありえないし、身の回りで相談できる人材は限られる。
やはり、不比等と考えるのは、あながち考えすぎではないと思います。
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