最初の犠牲者は大津皇子です。
天武天皇が亡くなったのは686年9月9日、大津が殺されたのは10月3日。まったくの早業です。
理由は自分の子供である草壁皇子を皇位につけるためです。
結果として、天武の有力な跡継ぎを殺すことになってしまいましたが、持統にとってはそれは結果です。
しかし、最初からそれが目的だったのは不比等です。
しかし、まだその時不比等の身分は低いものでした、だから直接持統に意見を言えたわけではありませんが、妻の橘三千代を通じて、アドバイスをできました。
なんと、持統天皇が即位したのは鎌足の屋敷でした、これもつながりを暗示しています。
今日でNHKの衛星でやっていた奈良時代という番組が終わりました。45回の放送で地味に、でも中身は濃く充実した番組でした。
さて、私の奈良時代の見解ですが、遷都の大きな理由が天武天皇の影響からの脱却であった。
そしてそれは元明天皇の意思というより、不比等の意思であったと書きました。これは多くの人が認めるところです。
しかし、その理由については、私のまったく個人的な意見で、私が知る限りどの本にも書いていません。
理由は、天皇の即位の詔です。
天智天皇の不改常典、元明天皇、聖武天皇そして桓武天皇の言葉にもあります。
不改常典、解釈はいろいろありますが、親から子への譲位を指すと解釈できます。
やや、不規則な譲位である元明天皇の場合特にその言葉が重要でした。
しかし、これは諸刃の剣というか、翻って天武天皇の即位は不改の常典ではありません。
ここに、わたしは不比等の深謀があると思います。
そうです、鎌足の子である不比等にとっては天武の即位はあってはならなかったことなのです。
まさに、皇位の簒奪、それの史上まれに見る武力によるもの。
不比等にとって許すことのできないできごと、しかし表立って批判はできません。
こうして深くもぐって、暗に天武の即位を批判し、天武の即位をないことにする。
天武の血の粛清です。
みごとに奈良時代になしとげられました。天武の血筋はものの見事に抹消されたのです。
奈良県協では年に2回県大会を開いています。
2月に全国大会を開いているので、それに対する春と秋の大会です。
一人4試合を戦って、優秀者を表彰します。
今日はなんと60名近い参加者がありました。
県大会としては空前の人数です。
大半が学生です。不真面目な会長にはほとんど初対面といったところです。
朝、県協の年に1度の総会を済まし、その後で大会、総会と大会の挨拶だけを済まして大急ぎで帰って店を開けましたが、それでも11時。
なんとも、何時開いているかわからない店です。
前に持統天皇は天武天皇を愛していなかったかもしれないと書きましたが、これはその後幾冊かの本を読んで、取り消します。
しかし持統天皇の目的は我が子、我が孫の即位であって、天武の血筋を残すことtが第1であったということは言えません。
さて、藤原京からの遷都は天武の都から離れることが目的であったとすれば、それを推し進めたのは元明天皇かといえば、即位の詔からもしぶしぶということが読み取れますから、元明の強い意思ではないことは確かです。
では誰かと言えば、不比等を置いて他にはありえません。
これも前に書きましたが、鎌足の子である不比等にとって天武に対しては良い感情を持っていません。
しかし好悪ということでなく、不比等にとって決して見過ごすことができないことがあったのです。
昨日、1300年祭のメイン会場である平城宮蹟会場がいよいよオープンしました。
昨日は3万4千人の入りとか。
それほどの混乱はなく無事スタートできたようです。
いわゆるパピリオンがなく、3箇所に集中し、しかも人数制限があるので、連休が心配です。
これも荒井知事の意向で決まったことですが、この点に関してはおそらく禍根を残す可能性があります。
さて、その平城京、私の説では、天武の影響を消すための遷都であった。
そして、奈良時代には天武の血筋は跡形もなく消されてしまった。
平安京の時代には天武の存在そのものがまったく無視されるに至っています。
どうしてそんなに天武が無視されなければいけないのでしょう?
天武の血筋のせい?藤原氏との確執?
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