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前後編がNHKで放映されていましたが、前編は見れなかったのでなんとも言えませんが、後編はあんまり面白いとは言えませんでした。

しばらく、神武の時代に遊んでいたので、奈良時代は資料が多すぎて逆に自由な想像がしにくしですが、それでも、人の心理までは書いていないので、仲麻呂と光明皇后、孝謙天皇と道鏡との関係の本当のところはわかりません。

そこへ吉備真備、玄坊。まあ、いろいろ解釈はできそうです。肝心の聖武天皇の心理もいまいちわかりにくいです。

またしばらく、奈良時代に帰って本を読んで見ます。

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あんまり考えずに書き始めた結果、中途半端に終わることになりました。

古事記も、もう少し詳しく読まないと、それに日本書紀も・・まだまだおもしろいことがありそう。

神武の話、何故東征をしたか?動機から考えると、徐福の線は悪くないと思います。

時代的にもあいそうだし。でも勉強不足の身では、この説に執着しているわけではありません。

任那日本府、これも国家というものがまだない時代、日本府という大層なものはあるわけがありませんが、富を求めて朝鮮半島にでていったのは、神功皇后画神のお告げで、西の方には金銀をはじめ目もくらむような珍しい宝物がその国にあるというお告げを得た問いう記述からも伺えるように、朝鮮半島は後のジパング伝説ではないが、宝の国に思われていたことが明らかであるから、動機付けは十分である。

このように、動機付けから推理するのは結構いい考えだと思います。

邪馬台国、位置については深入りしませんが、邪馬台国が日本の統一国家であった事実はありません。

ようするに1地方国家のひとつです。その辺から考えてみた方がいいと思います。

倭という国は多分ありません。倭といわれていた頃はにほんはまだ群雄割拠の時代、日本と名乗って初めて国家になった。

倭は初期に中国に言った日本人が我(わ)といったことから、それが名前になったというのが妥当だと思います。もちろん当て字です。

昨日は書くつもりのことと中身が違いました。

勢夜陀多良比売,伊須気余理比売の母ですが、大物主がその姫がうんこをしているときに、赤く塗った矢に化けて川上から流れてきて、その女陰に突き刺さり、子が生まれたのが富登多多良伊須気余理比売ということが古事記に書かれています。

どうも現在人の私には理解ができないのですが、なにも神武天皇の妻となる人の逸話で、なにも、うんこをしているとき、なんて書かなくていいとは思うんですが、なんか必然性があるのでしょうか?

同じ大物主にかかわる話で、ヤマトトトヒモモソヒメが死ぬとき女陰に箸が刺さって死んだことになっています、

実際のところはよくわかりませんが4~500年違うにに同じ大物主というのもへんですが、女陰に箸とか矢が刺さるというのは、何を意味しているのでしょうか?

私の思うには、モモソヒメのほうは、やはり出産にかかわる出血での死亡。イスケヨリヒメのほうは、川でうんこをしているときと言うのは、無防備なときにいきなり襲われたといった状況を表しているのではないか。

片方は一応無事出産、片方は母子共に死亡ということを暗示しているように思われます。

そして無事出産した方は神武天皇と結ばれやがて大和を支配します。死産の方は子を残すことができず、箸墓にのみその存在が残されている。考えすぎでしょうかね。

勢夜陀多良比売と大物主の命の間にできた伊須気余理比売。

この組み合わせは奈良市にある率川神社の祭伸と同じです。

この神社のゆり祭は有名ですね。これこそこの神武天皇の妻問いの古事に基づくお祭りです。

従って非常に古いお祭りで大宝令にすでに記載されています。

これだけでも、少なくとも飛鳥時代には神武天皇の古事は記憶されていたということです。

さてと、徐福はBC278~208の人です。亡くなった年がわかっているのが不思議ですが、ここではまあそのことは重要ではないのでそのまま信じるというか、ようするにその頃の人であるとさえ理解ください。

前に書きましたが、秦の始皇帝に不老長寿の妙薬を持ち帰るように命令され東を目指した、徐福が宮崎にたどり着き、その子か孫が東を目指した。もちろん本人でもいいわけですが、古事記に寄れば孫ということになります。それも要するにその頃に橿原にたどり着いたということが重要です。

従って三輪の現地人の娘と結婚して橿原に定住(あえて即位とは言いません)したのが紀元前3cころ。

ここから大和王権が始まったと理解されます。だから、はつくにしろしめす大王。

そこからいわゆる欠史8代という天皇が続きます。欠史というのは、記述がないということであって、架空の名前ではないと思います。即位した宮はきされていますし、その宮の名で大和王権の大和における拡大がわかります。

最後に開化天皇、率川宮で奈良市というか、奈良盆地の全域を支配下に置いたと理解できます。そこに率川神社があるのも偶然ではないでしょう。

昨日は何故か店でかるたの飲み会がありました。

これも何故か奈良県協のメーンバーはわずかで、他府県の人ばかりでした。

現クイーンも前クイーンも永世クイーンも元クイーンも参加して女性の第1級のかるた選手の集いみたいでした。

私は話題にはついていけず、はなはだ肩身の狭い思いをしました。

今日は朝から、小倉百人一首検定の方がわざわざ店に来てくださって、ご挨拶をいただきました。

実は今年1300年に当たり、検定を奈良で実施しませんか?とお誘いしていたのですが、いろいろあって難しそうな話でした。

何時か奈良でも実施できたら良いな~と思います。

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