なんかいわれがるんじゃないか?そう、「いわれ」があるからイワレなんかな?
最初に宮崎から大和に入ったイワレのある天皇だから「カムヤマトイワレヒコ」
これも寝ながらの妄想です。
その神武天皇ですが結婚する相手は勢夜陀多良比売と大物主の命の間にできた伊須気余理比売。
要するに三輪に地の人と結婚するという、他の土地から入ってきたものが土地の人に同化する1番の手立てです。
ところで、その時使いにいった大久米命をみて、伊須気余理比売が大久米命の刺青した裂けた目をみて、ふしぎに思って歌を詠みます。
そういった刺青をした人を見たことがないというわけです。そこからも神武の一行が本来の大和の人でないことがわかります。
ところでその久米ですが。うちてしやまんの歌で有名なように明らかに武人です。戦いの場面で必ず先頭に立ちます。
しかし、大和朝廷の時代にはもう名前がありません。あれだけの功臣だのに。
そこから、多分宮崎からついてきた久米氏はそんなに大人数ではなかった、だからすっかり同化してしまって一族を形成するにいたらなかったと類推されます。
昨日は途中でやめてしまいましたが、書いてるときに忙ししくなったということです。
この話、ここまで書くつもりはなかって、漫然と書いていたのですが、最近夜寝てからいろいろ妄想して、夜が眠れなくなってしまいました。
妄想って変なことじゃないですよ、古事記のことです。
昨日も橿原で即位した神武天皇、カムヤマトイワヒコノミコト、のイワレの意味を考えているうちに眠れなくなってしまいました。
その、事跡からイワレというのは、大和に最初に入ったという何らかの意味じゃないかと考えたのですが、イワレというのは地名もあります。でも橿原で即位したというのに、あえてイワレという地名を入れる必然性がないし、イワレノイはなんか入るに関係あるんじゃないか?と、いろいろ考えていたのですが・・・
まず日向を発って筑紫へ、それから、豊国の宇沙そこでは、宇沙都比古、宇沙都比売の2人が宮を立て大いにご馳走をした。
そこから、筑紫の岡田の宮に1年。阿岐の国の多祁理の宮に7年、吉備の高嶋の宮に8年、明石海峡を過ぎて浪速で登美能那賀須泥毘古と戦うわけですが、それまでこのように長い年月をかけています。
これは神武の一行が戦闘集団ではなく、いろんな人を含んだ集団であることを表していると思われます。
だから目的地に向かって一直線ではなく、こういう行き方になったということです。
当然この情報は大和にも伝わりますから、ナガスネヒコの一行が迎え撃つ準備をして待ち構えていたわけです。
この後大和に入って橿原の地で即位するわけですが、まあ即位といっても要するにその地に腰を据えた程度のことでしょう。
そして
天孫降臨、これは何処にでもある神話ともいえます。
しかし、うがった見方をすると、外来族を暗示しているとも取れます。
天孫族、天=海人=渡来人と言う感じです。渡来人というのは要するに海を渡ってきた人ということです。
そこで、徐福です。秦の始皇帝の命令と言うか、自分の希望で課、3000人の人を連れて、蓬莱山を求めて船出したと言う伝説の人です。
日本だけでなく各地に渡来伝説があります。
なんせ紀元1cのことです。文字がありません。伝説でしか残りようがありません。
宮崎に来た可能性も間違いなくあります。
そこで、古事記です。その天孫族の後裔である、火遠理命が海神の神の娘、豊玉姫と結ばれ子供ができその子の子が神武天皇です。
余談ですが、その豊玉姫の歌が「アカダマ」の名前のゆわれです。
それはさておき、要するに渡来人と地元の神、土着民が結ばれて子供ができたということです。
さて、徐福にとって、宮崎の人には失礼ですが、宮崎は求めていたような理想郷ではとてもない、文化未達の地でした。
これは考古学的にも証明されます。
そこで、本人か子供かわかりませんが、さらに東に旅を続けたのが、神武東征に投影されたと言うのが私の説です。
徐福の一族は決して軍人ばかりではありません、むしろ農民、技術者、学者などを含んだ一般人の集まりと言えます。
だから、東征もそれほど侵略的な側面を持っていません。
さて、神武東征ですが、なぜ大和を目指したのか?
考えられる理由は、1、その地(宮崎)に、何らかの理由でおれなくなった。
2、大和が素晴らしい国だと思いあこがれた。
2は少し考えにくいですね、それだけの理由で住み慣れた故郷を捨てて、困難な旅をするのでしょうか?まあ絶対しないとはいえませんが・・・
2のなんらかの理由には、いろいろかんがえられますが、単純に言うと悪いことをしていたたまれなくなった。
あるいは外敵が進入して追い出されたといったところでしょうか。
ところで、もう1つ考えられます。神武は最初からその土地の人間ではなかった。
だからそこがふるさとではないし、どうしてもそこにとどまる理由はなかった。とも考えられます。そこでより良い土地を目指した。
ここからは私の小説的妄想です。
要するに神武イコール徐福あるいはその子孫。
但しこれは私の独創ではありません。
徐福が宮崎にたどり着いたと言う伝説も確かにあります。なんと宮崎の延岡市には徐福祭りなんていうのもあるそうです。
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