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9月25日、26日の両日第2回の研修が行われました。

私は25日の研修に参加しました。25日の参加者は95名。あくる26日は70名あまりになります。

プログラムとしては最初に奈文研の発掘調査部長の井上和人氏の平城旧蹟に関する講演。

ついで、現地見学でした。

講演では時間の関係でかなり駆け足で、もう少し時間がほしいところでした。

印象に残ったところは、当初ないと思われていた羅城(都を取り囲む築地)の存在は発掘の結果確認されたこと。

都城の建設は東アジアの海外情勢(特に中国)が大きくかかわっていたことです。

このことに関しては以前から指摘されていたことではありますが、直接研究者の口から聞くことは新鮮でした。

現地見学はなにぶんにも100人近くの人が移動するので、時間が押してこれも駆け足で、ただコースを実際に歩いて確認したにとどまりました。

これももう少し現地での説明が聞きたかったので、すこしもの足りませんでした。

当日は30度を越す暑い日で、結構御高齢の方もいらっしゃいましたが、皆さんのさすがガイドを志す人、元気さには感心させられました。

全体として今回の研修も少し物足りないものでした。もう少し勉強だけではわからない現場の声を聞きたかったというのが正直な感想です。

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昨日家に帰って思いだしてみて、間違いにいっぱい気づきました。

畿内で、和泉を泉と書いてしまいました、書いていて違和感があったのですが、急いでいて確認できませんでした。

後徳大寺の左大臣を何故か、勝手に前入道太政大臣と、思い込んで答案を書いていました。

定家の生年は、西暦でしか覚えていず、元号がわかりませんでした。

三代集はまったく知りませんでした。

平安京の三大門も知りませんでした。

六歌仙の問題も自信がありません。

というわけで、90点も怪しくなってきました。

今日朝から受けて、大急ぎで帰ってきて店を開けました。

80分の試験を50分でやって、12時の特急にで帰れました。

試験のできは、問題を持ち帰れなかったので,チエックできませんので、はっきりとは言えませんが、90点はとれたかな?というところです。

問題集の問題がそのまま、また出るとは思っていなかったので、問題集に出た問題は流していたので、ちょっと裏をかかれた感じです。

小倉検定のホームページで最後の問題がどこやらのブログに書かれたと騒いでいたのを読んで、いったい何処かな?と探してわからなかったのですが、なんと、私のこのブログでした。

御子左家についての記述問題です。

別に山が当たったとかじゃなく、面白い話題だなと思って書いたのですが、まさかそれが問題とは。

これは,冷泉家の本を読んでいて、へ~と思ったので書きました。

というわけで、このブログを読んで、試験を受けた人はラッキーでした。

さてその初代長家の子、忠家。

周防内侍の歌「春の夜の 夢ばかりなる たまくらに

           かひなくたたむ なこそおしけれ」

       (短い春の夜のほんの夢ほどの、はかない間のたわむれに、あなたの手枕を おかりしたばかりに

        足っても何の甲斐もない浮名が立つでしょうが、それが残念でなりません)

2月の月の夜、二条院で夜明かしをした折、内侍が、枕があればねと小声でいったのを、大納言忠家が「これを枕に」と腕を差し入れたのに対して詠んだ歌ということですが、こうやってゲーム感覚で歌のやり取りを楽しんだ宮中の様子が伺える歌ですが、これが、定家のご先祖様の歌というのも面白いです。

ちなみに、この時、忠家は20代、内侍は70代であったとか。

ついでにもうひとつ、忠家の子忠俊。

祐子内親王家紀伊の歌

   音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ

(うわさの高い、高師の浜のいたずらに立つ波はかけますまい、袖が濡れて困ります。名高い浮気なあなたの甘いおことばもうけますまい、泣きの涙で袖が濡れては困りますもの)

これも宮中での艶書あわせという、一種のゲームで歌われた歌ですが、このあいても中納言忠俊、ということで、百人一首の歌2首に、定家の先祖が絡んでいるところが面白いですね。

小倉検定も、あさってに迫りましたが、最後に風邪をひいてすっかり戦意喪失。

でも、いろいろ本を読んで勉強にはなりました。

そこで、こぼれ話を幾つか。

 

藤原俊成、定家の家を御子左家と称します。

そもそも、その始まりは、藤原道長。

正室の倫子の他に、明子が産んだ子が、長家。その長家が御子左家の始まりです。

さて、醍醐天皇の頃、皇子に兼明親王という方がいらっしゃいました。

いったん臣籍の降下して、左大臣となっていましたが、時の政治の事情でまた、親王(御子)に復されました。

それで、人呼んで、御子左。

そのお屋敷を長家が拝領したことから、御子左大納言と称せられるようになったとか。

以来、俊成、定家の家柄を御子左家と、他家と区別して呼ばれるようになりましたとさ。

ちなみに定家の子為家の後、御子左家は二条、京極、冷泉家にわかれました。

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