国内で例のない階段ピラミッド状の巨大方墳であることが判明した都塚古墳には、多くの古代史フアンがおしかけているようです。
被葬者をめぐっては、その場所が馬子の墓との説が強い石舞台古墳の南東約400メートルに位置し、近くからは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡 も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされることから、古代朝廷の実力者・蘇我馬子(そがのうまこ)の父、稲目(いなめ)であるとの意見が多くでています。
泉森皎(こう)・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所 に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。」
猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)も、被葬者は稲目とみる。「階段ピラミッドの形で最初に思い浮かぶのが古代朝鮮・高句麗の将軍塚古墳であり、朝鮮半島からの情報を参考に古墳を築いた可能性があり、石舞台古墳も階段状の方墳だったことが推定される」と語る。
しかし、被葬者はおそらく確定することは当分ないと思いますが、ただ階段状の古墳については朝鮮半島の影響が強いということは間違いないとは思われます。
今回の国際奈良学セミナーハウスの講演、講師は長年奈良県の文化財修復に携わってこられて、現在東大寺に伎監としてお勤めの今西 良男氏。
会場はいつもの通りのセミナーハウスですが、今回はこのセミナーハウスの建物がテーマです。
この建物は明治のは廃仏毀釈以来所有者は転々と変わり現在は県の所有ですが,
元々は興福寺の子院の世尊院でした。
そしてその隣、裏側にあたる場所にあるのが現在はこれも県が買い上げた吉城園、
同じく興福寺の子院の一つの摩尼珠院 です。
そしてその立地する場所が登大路町ですが、もともと登大路と言うのは、興福寺の東門から延びる路を指したようです。
興福寺の境内にも多くの子院がありましたが、この登大路から現在の浮御堂のあたりにより多くの子院が存在したようです。
現在はその子院も多くは姿を消し、町中に飲み込まれて行きました。
今回は当日が今年の夏でも最高という37度の猛暑日。
界隈を歩くと言うよりは、本の近辺だけで、建物の内部も一部しか見れず、やや物足りない企画となりました。
ヤマト王権についての奈良大学の考古学特殊講義が終了しました。
大学での講義はどんな感じのものか、期待と不安を持ちらながらの受講でしたが、半期15回の授業を終わって、半ば期待通り、半ば物足りないと言った感じです。
日本書紀、古事記と言った日本の文献資料は絶対年代が特定できないので中国あるいは朝鮮半島の資料から、1~3世紀の日本列島の政権を見ます。
そこでまず、例のAD57年の光武帝の金印が登場します。
次に後漢書の倭国王師升の遣使の記事。いずれも年代がはっきりと特定できます。
従って九州には1~2世紀にすでに中国に使を送る奴国、末廬国、イト国などの国が存在したわけです。
一方大和ではまだ弥生時代に分類される段階で、九州とは相当な差がありました。
やがて大和では唐古が中核となる農業集落として登場します。
そして弥生の終わりぐらいには大和は高市、十市、層富、といった3つぐらいに集約されていきます。
ところが、3世紀の初めごろ突然巻向に政治的中心となる都市が出現します。
要するに弥生時代の発展形ではなく、まさに突如として巻向が登場するわけです。
寺澤先生はそれを、伊都国を中心とした吉備や讃岐、伊予、播磨などの連合国家と位置付けます。
連合国家がその都を大和の巻向に置いたというわけです。
中心は伊都国です。ですから伊都国が大和へ遷ったと言ってもいいと考えます。
そして、巻向はその連合国家の都のおかれた場所であり、その場所は邪馬台国と呼ばれた。
倭の都するところが巻向であり、邪馬台国=倭ではなく、倭の中に都をおいた邪馬台国があり、そこにヒミコが居たというわけです。
授業ではその理由を考古学的な史料から裏付ける作業が語られました。
いずれも納得はできます。
しかし、私にはまだ納得できない部分が多く残り、消化不良と言った感じです。
結局その消化不良の部分は自分で勉強して補っていくしかないようで、大学の授業と言うのは正に、そこに至る道筋を示すものと言うことでしょう。
折から猛暑日の予想、熱中症の危険もあり、かなり迷った末、重い腰をあげ
祇園祭後祭りに行ってきました。
昔から祇園祭大好き、祇園ばやしが大好きでしたが、仕事をしている間は、
なかなか行くことがかないませんでした。
仕事を辞めた今、祇園祭の巡幸が49年ぶりに2回に分かれ、
150年ぶりの再興となった大船桙と、今年は話題の巡幸。
やはり、これは行かざるをえません。
見るからには桙回しが行われる角地ということで、河原町御池の角で待つこと2時間。
炎天下で立ちぱなしの2時間。まさに命がけでしたが、やはり祇園囃子は私にとっては最高です。それだけの感動をいただけました。
幾多の困難な時期を乗り越え、千年近く、この祭りを支え続けた京都の町衆に感謝します。
「茅淳と三輪」
茅淳と三輪と言うのが今回のアカダマ会のテーマでした。
最初このテーマを聞いた時、「茅淳」って何ですか?と思わず聞いてしまいましたが、たいていの人にも耳慣れない言葉だと思います。
「茅淳」は大坂南部の泉北丘陵一帯の地域を指すとのことです。
言葉としては茅淳の海と言う方が、まだ耳にすることがあるかと思います。
講師を務めていただいている松田氏にとっては、恩師の森浩一先生から与えられた大切なテーマであり、ひと際思い入れの強いテーマと言うことでした。
結論から言えば、この「茅淳」の地に本拠をおいた渡来系氏族であるミワ氏がヤマトに入り三輪山の山麓に移り住み。やがては、三輪山を祀る神祇の氏族としての三輪氏になったということです。
私にとってはすべてが初めて聞く話であり、毎回松田氏の歴史に対する深い造詣と研究心にただただ圧倒される思いです。
【先代旧事本紀】( せんだいくじほんぎ)という書物があります。
神代から推古天皇までを記載した歴史書で、9~10世紀初めの間に成立し、全10巻。
『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などをつづり合わせて作られた歴史書。略して《旧事本紀》《旧事紀》とも言われます。
信憑性については疑わしい点もありますが、巻五の《天孫本紀》は尾張氏,物部氏の古来の伝承,巻十の《国造(こくぞう)本紀》も古い資料によっていると考えられ歴史書として価値は高いものがあり、しばしば論文などでも参考資料として引用されます。
私も参考文献として取り上げられるのは目にしますが、実際に通読したことはありません。
この中の「地神本紀」にオオアナムチの神が天羽車に乗り、茅淳縣に住む活玉依姫を娶る話があります。
その活依姫の元に密かに通ってくる男を不審に思った親が糸をその男の衣に結びつけ、その糸をたどって行くと茅淳山から吉野山に入り.三諸山に入り、糸がミワ残されていたことからその男が三輪の大神であり、その山を三輪山と呼ぶという地名伝説が載せられています。
良く似た話は日本書紀の崇神紀にあり、有名な箸墓古墳の話へ、そこからオオタタネコへと続きますが、このことは、また後で繋がりますが、ここでは、まず茅淳が登場し、三輪へと繋がることが指摘されます。
こういった伝承に対する考古学的な検証が、今回のアカダマ会での話です。
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