科目は「考古学特殊講義4」
テーマは「ヤマト王権成立史の諸問題」
店をやっている間は時間がとれなくて参加がかないませんでしたが、昨年1年間は
いろいろ講演を聞きに回りました。
聞いて良かった、面白かったという話も幾つかありましたが、講演はせいぜい長くて2時間。
シンポジウムと言う形で1日と言うのもありましたが、話として講師一人あたりはやはり2時間までが限度です。
その時間の中ではどうしても表面的な内容になってしまします。
結局詳しいことは著作があれば、その本を読むことが一番だと言うことがわかりました。
ところがこの聴講と言う制度は大学の授業を聞くわけですから、1回あたり90分。
それを半年、約15回ほど聞けるわけですから、随分内容の濃い話が聞けます。
問題は自分が知りたい内容にあった授業があるかどうかですが、ヤマト王権の成立を巻向から見ると言うテーマは私が知りたいと思う内容にぴったりの授業です。
そんなわけで、まだ2回ですがはやくも私が知りたかった事を、講義でしていただけて
大変興味深く講義を聞いています。
九州では武力による騒乱で、集落が大きくなっていったのに対し、ヤマトは必ずしもそうではなく言わば観念的な支配であり、経済により発展して行った。
そいうった違う発展を遂げた文明圏でありながら、何故か言わば突如として、弥生時代の発展形ではなく、巻向に王権が誕生した。
と言う話は興味シンシンで今後の授業が楽しみです。
NPO法人のソムリエの会とは違うソムリエの合格者が、お互いの知識を深めあい、
また好きな歴史を語り合うための任意の趣味の団体です。
早いものでもう2年以上になります。
NPO法人の方とは違って、任意の会ですから、会員はソムリエ合格者に限定しています。
本来は、歴史が好きな方ならどなたでも入会していただければいいのですが、
ある程度以上の歴史に対する知識と意欲を持つ人の線引きが難しいので、
一応ソムリエに限定していますが、それほど厳密なものではありません。
このブログを見て、参加してみたいと思う方がいらっしゃれば、声をかけてみてください。
ただ、会場が旧 「可否茶座 アカダマ」の店舗ですので、
参加できる人数にはおのずと限界もあります。
現在メンバーは約15名ほど、毎回10名程度で講師をお招きして、歴史という大きなテーマの中で分野は限定せず、講師の先生に2時間自由に話を聞かせていただき、また自由に質問をして闊達に語り合うのが趣旨です。
今回は4月5日に伊勢斎宮博物館から穂積 裕昌さんを講師にお迎えしました。
著書に「古墳時代の喪葬と祭祀」雄山閣 2012があります
今回のテーマは「古墳時代の喪葬と殯所」ということで、なかなかに今まで勉強をしたことがないテーマで興味深い話でした。
特に殯という行為は、内容がつかみにくい事柄ですから、ことに耳新しい話でした。
殯と言う行為に従事した部民「遊部」はまったく初めて知りました。
古墳時代の湧水祭祀の内容も、あまりにも生々しく、衝撃的でさえありました。
詳しい内容については、私自身の知識が不足しており、とても簡単にまとめることが難しく、
できれば著作を読んでいただければと思います。
ここでは、項目だけ列挙しておきます。
1:戦後古墳時代研究の潮流
2:囲形埴輪・「導水施設」の発見とその評価
3:埴輪の役割
4:殯とはなにか~養老喪葬令親王一品遊部事の評価~
5:古墳の埋葬状況から
6:古墳とは何か
以上ですが、すべての事が初めてと言っていい内容であリ、わが身の知識の不足を痛感させられました。
なお次回は再度、おいでいただき、今度は地元、伊勢神宮に関する話をお願いしているところです。
天照大神命を奉じる勢力は、倭へ進出してきた勢力であると考えるのが
常識的判断かと思いますが、そうであるなれば、
天照が倭から出て巡幸すると言うことは、その勢力争いに敗れたことなのかと言えば、
私は違うと考えます。
おそらく藤原不比等が最終的に完成させた国史書です。
それに合わせる不比等の編集方針が織り込まれています。
初代の天皇と意識されていた故、この天皇の時期に
伊勢神宮の基が定まったとしたかったということです。
伊勢の社に向かって拝礼を行なった旨の記事を載せています。
その時三輪朝臣高市麻呂が、再三にわたり、その行幸の中止を求めます。
しかしながら持統は諌めに従わず決行します。
そのかれの身を挺しての反対にもかかわらず、何故伊勢へ行幸しなければならなかったのか理由は書かれていません。
オオモノヌシの神に仕える氏族であることです。いわばここでも国つ神と天照の対立が書かれているということになります。
この倭姫は天智と天武の中継ぎとして天皇に遥立されようとしたという説もある人です。
いろいろ興味あることはまだまだあります。
折に触れてまた書いていきたいと思っていますが、この稿は一旦終わります。
伊勢の神について大胆に整理すれば、3つに収斂します。
1:倭姫によって倭から持ち込まれたとされる説
2:高天原から伊勢にアマテラスが降臨して伊勢に祀られたとする説。
3:もともと伊勢に祀られていた神とする説
2,3の説は言わば神代の話、なかなか検証は難しいですが、
何故伊勢と言う土地が神祀りに相応しいかと言えば
東に海を望み日の出を海に見ることができる土地にヒントがありそうです。
天孫降臨の地として名高い日向の国も名前の通り、
東に向かうという土地の共通性がその神話の基となります。
同じ話は東に海がある常陸の国にもあり、そこから日が立つ。
常陸と言う国名の由来となります。
鹿嶋神宮の2キロ東北に高天原と言う場所もあります。
いずれにしろ、常世の国が東の日が出る海の彼方と意識されていたことをうかがわせます。
一方これは時代が少し違いますが、仏教では日が沈む西に、
西方極楽浄土があると信じられているのは面白い対照ですが、
これも4方が海に囲まれた日本と言う土地が生みだした思想と言えます。
さて。以上の2,3は諸説入り乱れて収拾がついていませんが、ここでは1の倭姫の巡幸について考察を進めたいと思います。
前にも書いたことがありますが、私の歴史に対する興味の対象は、歴史時代が主です。
それと言うのもそれ以前については資料も乏しく、
判断となる材料がモノ遺物に限られる考古学の分野となるのが理由です。
それに対して歴史時代は、ある程度の文献資料はありますが、空白部分が多く、
それが逆にいろんな仮説を可能とします。その一番の例が邪馬台国論争です。
伊勢神宮についても、神代の時代の創成伝説については資料が乏しすぎ、
逆に推論の組み立てが難しいのが実情です。
伊勢神宮の創設に関しては日本書紀に記載があります。
崇神記6年の条によれば当初、宮中に天照と倭大国魂の二神を祭っていたが、
天皇は二神の神威の強さを畏れ、天照大神を宮の外で祀ることにした。
天照大神は豊鋤入媛に託して大和の笠縫邑に祭った。
倭大国魂は淳名城入媛に預けて祭らせたが、
髪が抜け落ち痩せ衰えて祀ることができなかった。という話を載せています。
この続きの話として、よくヒミコと比定される倭迹々日百襲姫命が出てきて、
箸墓伝説が出てきますが伊勢の話ですので先へ進みます。
少し時期が飛んでいますが、多分連続している話だと思われますが、
次に垂仁紀の25年に、天照を豊鋤入姫より離して倭姫に託し巡幸の上、
伊勢に洞を立てるという話が出てきます。
これをどう読み解くかが、私なんかには、大変興味を持つところです。
まず、私が注目するところは、倭大国魂命と天照大神命が一緒に宮中に祀られていたと言うところです。
この時代の宮中と言う方には少しひっかかりますが、まあそれは置いておいて、この話はその通りに解釈すれば、国つ津神を奉じる地元の勢力と天津神を奉じる対抗勢力の争いの記事と読み解くのが妥当と思います。
天つ津神を奉じる勢力が、九州から進出してきた所謂天孫族であると言ってしまうと、
いささか先走りしすぎですから、在来の地元勢力と、そこへ進出してきた勢力と言う言い方が無難かと思います。
この2柱の神は本来的に両立しません。
どちらを取るかが重要な意味を持つと考えますが、とりあえず、
地元の神である倭大国魂の神は倭に残り、進出勢力の神である天照神はその落ち着き先を巡幸の末に伊勢と定めると言うことを日本書紀では書いていると考えます。
鏡が神の形代であれば、容易に動かすことが可能です。
そこから倭姫に託された神が巡幸すると言う話が可能となります。
雄略記では稚足媛(ワカタラシ・幡姫)が神宮から鏡を持ち出して埋めたと言う話を載せています。
一方で、伊勢神宮は倭姫がアマテラスの形代である鏡を持ってくる以前から存在したと言う説もあります。
アマテラスが降臨したのは日向ではなく伊勢という話です。
タジカラオ、ウズメ、サルタヒコ、タクハタ、オモヒカネ等天岩戸に関る神は伊勢にゆかりのあるものが多くあります。
『古事記』では「度相宮」に坐すトヨスキも天孫降臨につき従った神と書かれています。
『常世に浪寄する』といわれた常世は、東の海上の豊穣の世界と認識され、伊勢の海の東の向こうから昇る太陽の姿の基づく日神信仰から天の岩戸の物語が語られたとも言います。
『日本書紀』垂仁25年のあるところの
「則天照大神始めて天より降りますところなり」とあるのがそれです。
さらには、アマテラスとは別の神を祀った神社だと言う説もあります。
尾張氏の祖神に「火明命」があります。
『新撰姓氏録』では天孫の部に入っています。
この神は天火明命とも、天照国照彦天火明命、また天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とも単に饒速日命と呼ばれています。
ただし、物部氏に祖神である饒速日とは違うと言われています。
この神が天照神と同一神で、皇室の祖神天照大神の原型の一つとしての太陽霊格であろうかと考えられています。
しかし、伊勢の天照大神とは別の日神で、男性神格と考えられています。
そして日神には、海人族ゆかりのある霊格で、その中の別格として、対馬系の日神・天日神命(アメノヒノミタマノミコト)があります。
対馬は天道信仰など古くから太陽信仰が行われ、日光受胎譚等も語られています。
日神として下県郡の阿麻衰氐留神社があり、これは後世与良郡小舟越村にあって照日権現となづけられ、これが対馬県主等の祖「天日神命」であるとされます。
それ以外の天照御魂神の多くは、尾張氏及び、その同族と伝えられる畿内の諸豪族の奉載する神です。
これらの氏族の共通の祖先とされる火明命の名が『日本書紀』『旧事本記』では、天照国照彦火明命と呼ばれ、「天地を照らす光輝」すなわち太陽の光を人格化した名であるようです。
そして天照神社・天照御魂神社の祭神としては、天孫、火明命を祀ると伝えていることが多い。
以上のように、いわゆる皇室神天照大神とは違う天照神が存在しています。
ただ天照大神と天照神は全く違うかと言うと、これは微妙で、
伊勢大神が古くはアマテル神と呼ばれていたことは、神楽歌
「いかばかり よきわざしてか 天(あま)てるや、
ひるめの神をしばしとどめむ」とあったり、
皇大神宮鎮座の伊勢度会郡にある神路山の一名を天照山(アマテルヤマ)といっており、アマテラスはアマテルに敬語をつけた形に他なりません。
そして天照大神がかっては男性太陽神であった形跡すらあります。
それが女性化したのは神妻として仕える斎宮の印象が強大となり、
神格に投影したからという可能性も指摘されています。
以上、天照大神と天照神は違う扱いであることは確かではありますが、別物と言い切るのも難しいのが現状です。
とにかく天照神は尾張氏の祖神です。
そしてその尾張氏は葛城氏と深い関係があり、尾張氏、葛城氏は皇室と深いつながりがあると考えられています。
このように、伊勢の神についてもなかなか一筋縄ではいきません。
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