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23回全国競技かるた奈良大会 が2月 16日に行われます。

(B級以下の部A級については昨年11月23日に実施済み)

 奈良県で行われる唯一の公式競技かるた大会である

第23回の全国競技かるた奈良大会が下記要領で実施されます。

参加は事前の申し込みが必要ですが、競技かるたの正式な試合を

生で見てみたい方は見学にお越しください。

200名を超える老若男女が競技かるたの試合に真剣に挑む様は

一見の価値はあります。

但し、武道場は暖房がない上、広く天井も高いので相当寒いです。

また見学にあたっては、いっさいもの音をたてないように細心の注意も必要です。

 

参加資格は下記のようにB、C,E級、と実力によって細かく分けられています。

原則として競技かるたでは男女年齢による区別はありませんが、

奈良大会では小中学生、年配者には別のクラスも設けてあります。

ちなみにA級というのは4段以上。B級は2,3段。C級は初段が参加資格です。

D級は無段のもので、段位(初段)を目指すもの。E級以下は、段位の認定は受けられません。

競技かるたの段位は、原則としてこういった全国大会に出場して、

各級で上位4人に入ったものに与えられます。(A級は別)

ですから、競技かるたで段位をあげるためには、必ず全国大会に出場しなければならず、

奈良では年に1度開催されるこの大会が唯一のものです。

各級とも勝ち抜き戦ですから、参加者の数によって、

優勝まで5試合から多い時には7試合勝ち抜かなければなりません。

1試合大体1時間かかりますから、5時間から7時間連続戦わなければなりません。

選手は強い体力と気力が必要です。

そして組み合わせの運不運も生まれます。

例えば第1試合で優勝するような人と当たってしまい負ければ

本当は4位以内に入れる実力があっても、その大会は本人には終わってしまいます。

従って段位をもらうためには、また次のどこかで行われる全国大会を待つしかないと言う、

過酷なものです。

それだけに選手にとっては一試合一試合が待ったなしの真剣勝負です。

ということで、見学にあたっては、試合の妨げにならないように細心の注意をお願いします。
なお、本大会には奈良県かるた協会からは、ねんりんの部には6名
B級には11名。C級には15名。D級には16名。
E級6名、小学生5,6年の部に4名、2年以下には1名が参加予定です。

1.日 時   

  平成26年2月16日(日) 開会式は10時から、試合開始は10時半~夕刻まで

 2.会 場

   主会場  奈良市中央第ニ武道場 奈良市法連佐保山4-6-3 (0742)27-6163

    近鉄・JR奈良駅から、加茂駅行・高の原駅行バス 「市民球場前下車」下車徒歩3分

  ねんりんの部会場…奈良市中部公民館  奈良市上三条町23-4 074226-6506

   3.参加資格

       B,C級  … (B級は2段以上、C級は初段)

  D級   … (社)全日本かるた協会加盟団体に所属 している方、

または高文連かるた部会に所属している高校生」でC級を目指すもの

  E級   … 競技かるた初心者、競技かるたのルールを理解しているもの

    一般の部   … 中学生以上

    小学生の部  …「2年生以下の部」「3・4年生の部」「5・6年生の部」の3クラス

    ねんりんの部 … 55歳以上でA級、B級の登録選手以外

 

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3世紀中頃から7世紀初めまで、日本列島では前方後円墳は約5200基作られました。

その中で墳丘の長さが200mを超える巨大前方後円墳はわずか32基。

そのうち22基が大和・河内・和泉・摂津の畿内に集中しています。

100m以上にしても302基、そのうち140基がおなじく畿内に偏在しています。

それだけでなく、古墳時代を通じて最大級の古墳は常に畿内に造営されています。

王の中の王。大王墓というものが畿内に集中しているのが事実です。

こういったことから、これらがヤマト王権の盟主、王の墓であろうと考えられます。

これらのある場所は畿内の5大古墳群と呼ばれています。

天理市・桜井市にかけて展開する大和・柳本古墳群。

奈良市の佐紀古墳群。広陵町や河合町にまたがる馬見古墳群。

そして大阪府藤井寺市・羽曳野市・堺市にまたがる百舌・古市古墳群がそれです。

それらは前方後円墳であるという共通性を持ちます。

同じ墳形の採用は、同一の儀礼を伴う葬制の継承を意味します。

そしてその儀礼では首長権の継承儀礼が付随すると考えられます。

一方で王墓である前方後円墳の築造場所を王権の所在地とすることには疑問があります。

王墓は、なにより王の遺体が祀られる場であって、

その王の埋葬場所と政治的センターが同じであるかどうかは別問題とも言えます。

こう言った観点から、河内が単なる埋葬場所か、あるいは政権の中心地であったかという見解が分かれ、

そこから多くの説が展開しているわけです。

 そして、その時の権力者が何処に王宮を定め、何時どこへ移動したかを、王墓から見ていくのが、

この時代を理解する手掛かりかと思います。その王墓は巨大前方後円墳です。

もう少し、河内の古墳の意義について資料を読んでいきたいと思います。

アカダマ会

今回のアカダマ会のテーマは「河内王朝」についてです。

河内王朝説について忘れてはならないのが、
戦後間もなくと言う時期に江上波夫氏によって提唱された「騎馬民族征服説」です。

骨子はツングース系の騎馬民族が朝鮮半島を南下し百済を樹立し、
さらに海を渡り九州に達し、更には東遷して畿内に王朝を開いたということですが、
所謂万系一系の皇国史観の呪縛冷めやらぬ時期に、大胆なこの説は世間に衝撃を与え、
その後の王朝論の諸学説の誘因を為した点に大きな功績があります。

そして前回のテーマであった百舌古市古墳群の存在が、その後の多くの学説の根拠となっています。

河内王朝を巡る学説のいくつかを紹介します。

 1:水野 祐氏の三王朝交代説:大化改新以前に血統を異にする三の王朝があったと言う説です。

   古王朝 崇神王朝(三輪王朝)イリ王朝

   中王朝 仁徳王朝(河内王朝)ワケ王朝(北九州勢力が畿内を征服してうちたてた)

   新王朝 継体王朝 (近江王朝)

 2:井上光貞氏の応神新王朝説

   応神は北九州、あるいは朝鮮半島から来てナカツヒメを娶り入り婿として即位したという説。

 3:上田正昭氏の河内王朝説

   河内を基盤とした勢力が四世紀後半以降勢力を増大させ、三輪王朝滅亡後河内王朝を樹立するという

   明確な河内王朝論です。

 4:直木孝次郎・岡田精司氏の河内王朝論

   四世紀末、河内を基盤にした勢力ヤマトを制圧し王墓を本拠である河内に築いたと言う説。

 5:門脇禎二氏の河内王朝批判説

   ようするに河内には王朝はなく、ヤマトの地域国家の西方進出であり、王家の断絶はなかった。

   大和にはいくつかの地域国家があり、それぞれが独立を保ちつつヤマト王権との関係は保ったと言う説です。

 6:和田萃の大和・河内連合政権論

   百舌古市の古墳も政治権力は大和にあり、王墓が河内に移動したという、河内の勢力の評価を抑えた説。

 7白石太一郎氏の盟主権移動説。

   6の説に対して、古墳は被葬者の首長の本願地に造られる。即ち大王墓の所在地が政治の中心である。

 8:近藤義郎氏の大和連合優位説

  これも、政治の中心は一貫して奈良盆地南部であり、大王墓の造営地を河内に求めたとする説です。

 

河内王朝だけでもこれだけ諸説あるわけですが、これといった鉄論はいまだないと言ってもよいと思いますが、天野先生はどちらかといえば河内王朝に対しては疑問符ですが、もう少し私自身も、論点を整理しないとこれ以上は書けませんので、もう少し考えてみます。

  


結局、今年の名人戦・クイーン戦はどちらも現名人岸田 諭の2連覇・クイーン楠木早紀の10連覇の防衛という結果に終わりました。

やはり新人がこの大舞台で現名人・クイーンを打ち破るのは至難の事です。
   それにしてもクイーンは中学生でクイーンになってからの10連覇、すごいとしか言いようがありません。

奈良県かるた協会は、今から20数年前に創立されたのですがその時,奈良県にかるた会を,と奔走指導者として競技かるたの指導にあたったのが北野夫妻で、奥さんはその時クイーンでした。

奈良県かるた協会は以来20数年を数えるのですが、昨日近江神宮で行われた高松宮杯のかるた大会
には、なんとC,D級だけで40人を超える出場者がありました。
 当初全会員で20人ほどだった会としては隔世の感を覚えます。

これも当初から日本で最高レベルの指導者を得た幸運からスタートできたこと大きいと思います 。

ただ昨今の会の隆盛は漫画「ちはやふる」によるかるたブームの影響が大です。
  単なる一時のブームに終わらずこの勢いを継続させたいものです。

  奈良県かるた協会が主催するかるた競技の全国大会はA 級の部は終わりましたが、B級以下の部は2月の15日に奈良市中央第2武道場で行われます。

私は昨日はその近江神宮へ行ってきましたが、それは名人戦・クイーン戦のあくる日に行われる近江神宮の「かるた開きの儀」に参加するためでした。

前に書きましたように、正月3日に八坂神社で行われるかるた会は、日本かるた院という競技かるたの会とは別個の団体のものです。

昨日の「かるた開きの儀」は全日本かるた協会の協力で行われます。

式に出場する取り姫もすべてかるた協会の会員で、全員4段以上の実力者の中から近畿のかるた会に所 属する大学生から選ばれます。私は読み手としての参加でした。
そしてその儀式後には高松宮記念杯の全国歌かるた大会が行われました。

  

藤原氏の出生については、九州や鹿嶋は根拠に乏しいとして、河内を1番の有力地であるとするのが学界で大かたの認めるところです。

そして鎌足の生誕地も飛鳥の藤原の地、小原であるとし、中臣氏は河内から飛鳥に6世紀に移ったと、和田 翠氏も述べています。

いずれにしても中臣氏にゆかりの地はまず河内、そして飛鳥です。

そして鎌足の墓地は延喜諸陵式、あるいは三代実録等に多武峰とあります。

民俗学の見地から水野氏は飛鳥では今も墓を多武峰に祀る風習が残ることを紹介されていました。

また藤原氏家伝には墓所は山城国山階精舎とあり、その地に後に山階寺が営まれ、飛鳥に移って厩坂寺、それが奈良に移って興福寺とあります。

このように墓所については、飛鳥と山科の地があげられていて、この阿武山は文献上には出てきません。

ただ日本書紀に鎌足が家職を嫌って三島にこもったという記述があり、鎌足にとって三島は第2の故郷と言える地であったことをうかがわせます。

この三島の地が藤原氏とどういう係わりがあるかが話題に上る事を期待して今回、高槻まで行ったのですが、まったく触れられることがありませんでした。

中臣氏河内出生説の根拠の有力な手掛かりとして、枚岡神社が挙げられます。

ところが、生駒山を回って奈良、そして高安渋川若江から北方の交野枚方一帯にかけては、物部氏旧縁の地が多く、中臣氏の勢力はむしろ孤立している感があるという指摘もあります。

そして、肝心の枚岡神社も讃良郡枚岡の郷から現在の地に移されたという説もあります。

さらに和泉国大鳥郡大鳥神社の摂社の一つ井瀬社が平岡というところにあります。

詳しい話は、はぶきますが、北河内から淀川北岸の摂津にかけて中臣氏ゆかりの田荘が点々と連続しており、枚岡の地はこれらの地から大和へ通ずる要衡の地であることは疑いえません。
重要なことは中臣氏は意外と水軍とかかわりがあると言うことです。

のちに鎌足は近江に都が移るに当たって、宇治で水軍の訓練を行なっていた記述があります。

三島の地は古代淀川水運の要衡の地であり、継体天皇はこの淀川流域の勢力を頼みとして国造りしていたことが指摘されています。

ここからいろんなことが推定されます。

継体帝と中臣氏、物部氏。あるいは氏族の発生について。

そして春日の神と、阿部氏について、ちなみに阿武山の被葬者の一人に想定されている人物が「阿倍湟渠曾倍臣」。

阿威山⇒阿武山⇒安部山といった山名変転も挙げられています。

いずれにしろ、この三島に地に鎌足が祀られているとすると、そこからいろんなことが浮かび上がるわけですが、今回のシンポジウムでは残念ながら、被葬者の議論のみに終わってそれ以上のふかまりがありませんでした。それ以上は自分で勉強せよということでしょうか。

 
来年も当分この課題から離れられそうにありません。

 

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