朝日新聞の紹介記事によると
1928年、大阪市生まれ。同志社大大学院修士課程修了。大阪府立泉大津高校教諭を経て、72~99年、同志社大教授をつとめた。
宮内庁が陵墓に指定している巨大古墳を天皇・皇族の名ではなく所在地名で呼ぶことを提唱。教科書などで堺市にある国内最大の古墳「仁徳天皇陵」が「大山(だいせん)古墳」へと書き換えられるきっかけをつくった。その一方、「考古学は地域に勇気を与える学問だ」として「東海学」「関東学」などを提唱。古代の地域文化の実証と顕彰にも尽力した。
退職後に腎臓を患ったが、人工透析を続けながら講演、執筆活動を精力的に続けた。賞は受けないことを信条としたが、2012年に第22回南方熊楠賞を「地方による賞だから」と受けた。著書に「古墳の発掘」「考古学の模索」「巨大古墳の世紀」「地域学のすすめ」などがある」
私は学部も違い、考古学研究会の顧問も丁度その前の酒詰先生との交代期に当たり、直接の接点はありません。
しかし、その後のご活躍は今さら言うまでもありませんし、同志社の考古学の評価を高めた功績は大なるものがあります。あらためてご冥福をお祈りいたします。
今回は現在、奈良文化財研究所の手で行われている、興福寺の北円堂横の西僧坊、小子房の発掘現場見学と、中金堂の再建工事の見学をさせていただきました。心配された天気も回復し、湿度も低く暑さも心配したほどでなく、絶好のコンディションでした。
発掘の方は、ほぼ今月で終了し、また埋め戻されますので、ぎりぎりのタイミングと言えます。
ただ、発掘は毎回、劇的なものが出るわけではないですから、今回は文献上の僧坊の規模と位置の考古学上の再確認と言うことで、素人には地味な成果ですが、これもまた重要な仕事です。
僧坊の柱間が東西で違うと言うことが確認されたこと。
またこの場所が砂礫層で、比較的整地も大規模でないこと等が主な成果です。
したがってトレンチも深く掘ることもなく、僧坊の基壇も既存の丘陵を削って整地したもので、その下の地層は自然のものと言うことです。
中金堂は、工事も順調に進み、大まかな仕事はほぼ終わって、後2年ぐらいで完成すると言うことで、足場を3階まで上がって大屋根の工事現場まで見せていただけました。
この再建工事は言わば、新築とも言え、参考すべき建物もなく、文献上と基壇、礎石などからの規模の確認だけで、無から有を生じるような建築であり、すべてが試行錯誤の連続と言う話をしていただきました。
ただ新築とも言える建物で有り、現在の建築基準にも合わせなければならず、また往時の建物通りの復元もせなばいけないということで、そのすり合わせが大変なようです。
いずれの現場も大変丁寧に説明いただき、大変よく理解することができました。
そう何度もある経験ではないので、貴重な体験ができました。
鎌足の二人の子に対して、『多武峰略記』『多武峰縁起』(鎌倉時代成立)では定恵を孝徳天皇の子とする説を載せています。
「鎌足が、妊娠6カ月の車持夫人を天皇から預かり、産まれた子が女なら天皇の子、男なら鎌足の子とせよ」と言われたという内容です。
不比等を天智天皇の子とする説は、『帝王編年記』『公家補任』で、いずれも生母は車持夫人です。
どうしてこのような説が流布したのかは、まず不比等が異常と言ってよいほどに早く権力に上り詰めたことがあります。
『尊卑分脈』に、不比等は「内大臣鎌足の第2子なり。一名を史。斉明天皇5年生まれる。公、避くるところの事あり、則山科の田辺史大隅の家に養はる。」とあり、出生に秘密があることが、この避くる事であり、天智の血をひく持統、元明が亡父の忘れ形見である不比等を引きたてたというわけです。
一方の定恵に関しては、まず鎌足が長男で跡取りである定恵を僧侶にしたこと、また生命の危険が大きい遣唐使に派遣したことも、不審を生みます。
さらに二人の間に同母でありながら15歳もの開きがある事も、不自然です。
同時代であっても誰の子かというのは、生母以外はわからないものですから、まして1300年の年月を経て、真実は残された記録でしか確認できません。
ですから、このことの真偽は確認しようはありませんが、火のないところに煙は立たないと言うのは時代に関らず真理で、前回の話を思い出していただきたいのですが、鎌足と女性の係わりで、鎌足は孝徳天皇の竉妃を与えられています。
また天智天皇の采女を得ています。さらに天智天皇の妃であったらしい鏡女王を妻としています。
可能性として、いずれかの女性が天皇の子種を孕んでいたとすれば、今見て来たようなことがありうるわけですが、定恵、不比等は車持夫人の子であることははっきりしています。
ですから、どちらも可能性はゼロではないけれど、真実ではなさそうです。
いわばよくある庶民の貴種伝説が作った物語と言えますが、ただ、同母でありながらの定恵と不比等の15歳の年齢差は確かに不自然です。
限られた史料の中だけで考えるのは性急だと思いますが、そこから一つの推論が生まれます。
鎌足の正室は鏡王女らしい。
らしいというのは、天皇なら皇后と妃と使い分けますが、一般豪族は正室とそれ以外というのは、この時代にどういう区分があったのかよくわかりません。
平安時代は、一般に一夫多妻制であったと考えられていますが、『平安時代の結婚制度と文学』工藤重矩著によればそれは誤解で、平安時代も一夫一妻であったと言います。
ただ正妻以外の権妻について、人数の規定はありません。
書くと長くなりますので、その手続き云々は書きませんが、正妻というのは簡単に言うと正式の手続きにのっとって娶った妻で、それ以外は権妻(妾)で、例えば源氏物語で、世間的に妻と見られていた紫の上は権妻で、正妻は葵の上と、その死後、後から来た女三の宮ということになります。
で、ともかく鎌足の正妻は鏡王女で、権妻は車持夫人です。鏡王女には子がなく、車持夫人には定恵と不比等という二人の子がいます。
興福寺の創建に関して少し調べていると、鎌足と女性に関して、日本書紀や、万葉集にいくつか書かれたことが目につきました。
『日本書紀』に、鎌足が神祇伯を固辞して、三島に籠っていた時に、足を患って、自宅にこもっていた軽皇子(孝徳天皇)を訪ねた時、輕皇子が鎌足の人となりに感じ入って、鎌足に竉妃阿倍氏(小足媛左大臣阿倍倉梯麻呂の娘)を賜うという記事があります。
でも結局は鎌足は軽皇子を見限って、中大兄皇子につくのですが、その話は置いておいて、この時、後の孝徳天皇の竉妃を与えられています。
この小足媛は後に有馬皇子を産んでいます。
そして、次に『万葉集』巻2に内大臣藤原卿、宇根采女を娶きし時作る歌として
われはもや 安見児得たり
皆人の得難にすという 安見児得たり
こんな歌が載っています。
意味は正にその通りで、美女の噂高い安見児という采女、皆がほしいと思いながらかなわない安見児を、手にして喜んでいるという歌です。
なんともはや、鎌足のイメージとは少し違う歌ですが、この歌の背景は、私は知りません。
解釈もその通りでいいのか、違う解釈があるのかも知りませんが、采女というのは地方豪族が天皇にささげた天皇の身辺を世話する女性です。
本来臣下が手を出すのは憚られるわけですから、普通に考えると、天皇の許しがなければ得たということになりませんから、ここでも与えられたと解釈してもいいと思います。
先には孝徳天皇の竉妃を貸し与えられ、ここでは天智天皇の身辺を世話する女性を、与えられたということになります。
そしてこの歌の前に、内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ(よばう)時の贈答歌というのが載っています。
玉くしげ覆ふを安み開けて行かば 君が名はあれど
わが名し 惜しも
玉くしげみむろの山のさなかずら
寝ずはつひにありかつましじ
この歌はいわば言葉の遊びという説もありますが、実際はわかりませんが、書かれたことをそのまま取れば、鎌足が鏡王女に、ちょっかいを出しているということになります。
この歌の前に鏡王女と天智天皇の贈答歌が載っていますので、天智天皇と関係のある女性ということになります。
鎌足は『藤氏家伝』によれば、
「為人(ひととなり) 偉(たたは)しく 雅(みやび)かにて風姿(かたち)特(こと)に秀(すぐ)れたり」
まあ要するに、かっこいい男性ということになります。
その子不比等も梅原猛さんによれば、美男子であったろうということですが、日本書紀や万葉集にこのように関係ある女性が何人か載っているのは、そうある事ではないと思います。
何故こんなことを書くかと言えば、前に書きましたが、興福寺の前身である山階寺の創建に鏡王女がかかわっているからです。
前に中途半端で終わっているので、もう少し次回書いてみます。
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