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前に書きましたせいぶ市民カレッジ「奈良大学文化講座」の第5回目に行ってきました。

今回の講師は白石太一郎近つ飛鳥博物館館長。

私は昔も今もいわゆる歴史時代が好きで、古墳時代以前はあまり興味がなく、まして縄文、弥生時代はにがてです。

しかし今回、5回シリーズということで、単発であったなら、行かなかったかもしれない、今日の話、第2回の歴史以前の話を聞いて、むしろ興味のない時代の話を聞くことの方が得ることが多いことに気づかされました。

自分が興味ある時代の話は、自分で多くの本を読んでいるので、それほど感動する事もなく、むしろ物足りなさを感じることが多かったのですが、逆に興味のない時代については、自分自身の知識のなさもあり、得るところが多くありました。

第2回の「歴史以前の奈良」では縄文から、弥生に移る時期の奈良が鬱蒼とした森林地帯ではなく、苦労して水田を作ったのではなく、比較的にスムースに開拓が可能であった可能性が奈良盆地にあり、そのことがヤマト王権につながったのではないかという指摘は、何故この奈良が古代に栄えたのか以前からの疑問に思っていたことの一端が解きほぐされた感じでした。

また今回の古墳時代は、昔から苦手で、避けて来たのですが、今日の話も刺激に満ちていました。

聖俗2重王制、そして古墳の副葬品から、祭祀を司る女性と、権力、武力を手にする男性との組み合わせがあるとの指摘があり、そのことからさらに踏み込んで、オオヤマト古墳群から南の古墳が初期ヤマト王権の歴代の墳墓であると、随分大胆と思われる指摘があり、少しおどかされました。

箸墓古墳がヒミコの墓。西殿塚古墳は、トヨの墓である可能性も高い

文章に書けばいささか問題でも、こうした講演では、ここまで踏み込んだ発言を白石先生がされると言うことも新鮮な驚きで、改めて古墳時代に関する興味をかき立てられました。

そいう意味でも思い切って行って良かったと思います。

今回の5回の講演。残念ながら水野先生の回だけが都合でいけなかったのですが、実に有意義な夏を過ごせたと感謝しています。

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せいぶ市民カレッジと称して、毎年夏に奈良市の西部公民館で行われる連続講座の第1回に行ってきました。
定員300名に対して、750名の応募ということで、2倍以上と言う人気講座です。
私が是非受けたいと思ったのは、全5回の講演のうち、講師のうち2人までが私の卒論の担当教ということがあります。
その第1回は、奈良大学文化財歴史学科吉川敏子教授で、私の卒論の副主査、

「大化改新の前と後」ーいったい何が変わった?ーと言うタイトルです。
今日のお話の中で、興味が惹かれたのは、大化の改新と明治維新の類似性と言う指摘です。

大化の改新のきっかけに中国大陸、なかんずく朝鮮半島情勢という外圧があり、これは明治のアヘン戦争に共通する。
また大王中心とした中央集権国家の構築が明治の富国強兵、廃藩置県、戸籍の整備、地租改正、徴兵例といった政策がすべて、大化の改新でも行われたという指摘です。
歴史はまさに繰り返すということです。

第2回は「歴史以前の奈良」というタイトルで、奈良大名誉教授の和泉 拓良先生。
第3回は「保良宮でホラを吹くー藤原仲麻呂の遷都計画」寺崎教授、私のまさに担当教授です。
第4回は「古代刀剣の呪性ー陰陽剣の三寅剣」これは水野正好先生。
第五回は「卑弥呼と男弟ー考古学からみた聖俗二重王姓ー 白石太一郎という豪華な顔触れです。
暑い中のシリーズとなり大変ですが頑張って受講しようと思っています。
 
今年の夏は本当に暑いです。
35度なんて普通で38度を超えてようやく取り上げられるぐらい。
思えば去年の夏は、奈良大学のスクーリングに明け暮れていましたが、今年は予定はなし。
そうなると逆に何もする気が起こりません。

ここらが凡人の故、後ろから追われないと動かないと言うわけです。
今年の8月は、完全休養をきめこんでいます。

9月には、興福寺の中金堂の再建工事の見学を予定しています。

そこで、興福寺のことを少し予習しておこうと、本を開くのですが、はかどりません。

奈良市民にとっては、興福寺は奈良公園と一体化して、ほとんど寺と言う感じすら抱いていません。

一般的な本には、興福寺は藤原鎌足の夫人、鏡女王が天智8年(669)に山城国に建立した山階寺に始まり、都が飛鳥に移ると飛鳥の地に移り地名にちなんで、厩坂寺と呼ばれ、さらに都が平城京へと移るに従い、厩坂寺も都へ移り、名前も興福寺と改号されたとあります。
奈良時代から平安時代にかけて藤原氏の庇護を受け繁栄し、南都を支配する大寺院として栄えたと言うのが、解説です。

今まで、こういう解説を目にしても、何の疑問も感ぜず、そのままスルーしていましたが、アカダマ会で色々勉強するうち、この説明にも少し疑問を感じるようになりました。

まず、興福寺は藤原氏の氏寺という位置づけです。官寺ではありません。

それにも関わらずあまりにも一等場所を占めすぎているのが疑問です。

そもそも、興福寺のある場所は外京とよばれ、平城京から言わばはみ出した場所です。

おそらく、寺をそこに集める意図があったと言われています。

その中でも興福寺は一段高い、平城宮を遥かに見降ろす場所にあり、他の寺でらを睥睨する位置にあります。

どうして1私の寺である興福寺がそこまで優遇されているのでしょう?

もちろん平城京の総合プロデュウサーは藤原不比等であるとされます。

だから自分の氏寺を第1等の場所に置く。自然なようで、果たしてそれでいいのかが疑問です。

次に鏡女王というのが謎です。

直木孝次郎氏によれば、鎌足がいかに有力者であっても王女を妻にできるかは、はなはだ疑問とされます。

だいたい、その鏡女王と言う人も謎の人物です。父も母もはっきりしません。額田王の姉だと言われていますが確証はありません。父とされる鏡王もあまりよく分からない人物です。

鎌足の妻は車持君国子の女与志古娘で、長男である定恵と不比等の母です。

もし鏡女王がほんとに王族であるならば、すでに妻がいても、後から来た鏡女王が正妻になることは、ありうることですが、これもはっきりしません。

どうも。いきなりわからないことだらけで、興福寺の勉強は、早くも行き止まり状態です。

「吉野一隅」という本があります。

 大淀町在住の元高校教諭の男性が自分の住む村の伝承や歴史について、一つ一丹念に、そのいわれの興った理由や、事象について、まさにコツコツ積み上げた「極微私的」な雑記です。

大変おもしろく、かつ有意義な本と思いましたので紹介させていただきます。

例えば「ゲンベ坂」といわれる坂がある。この坂には安定寺のゲンベさんが夜な夜なエンショウジに通ったという伝承が残されている。

著者はまず、そのエンショウジという寺について調べる。


その場所に行き表面採集をすると、江戸期の土器の破片や瓶の破片等を取得する。その土地の言い伝えも聞き取り調査をする。その結果この地区には本長寺、安養寺、安定寺の他にもう一つ浄土真宗の寺があったことをつきとめる。そしてついには東京の立川の国文学研究所資料館の古文書の中から、「源兵衛」の名前を見つけ出す。


当初はその源兵衛さんが、女の元へ通った艶聞として面白おかしく伝わった話が、信心深い源兵衛さんが、毎夜信仰のために通った坂であったことをつきとめる。

まさに、ここに、この本の真骨頂が凝縮されている。

ちょっとした坂の名前から、伝承を探り、現場を訪れ、ついには東京まで出かけ古文書からその名のいわれの人物を浮かび上がらせ事実を検証する。

まさに、足が地についた研究とも言えよう。


7月10日の朝日新聞の夕刊には、著者がそういった日々の努力の中から、古代遺跡の発見まで至ったことを紹介しているのであるが、その時、専門家の立場から手助けをしたのが、われわれアカダマ会の、講師である大淀町教育委員会の松田度 氏であることを紹介している。


内容を要約すれば、「著者が田んぼの中から土器片を拾い出し、それを、松田氏に見てもらった結果、古墳時代まで遡る須恵器であることが判明する。

それで終わらずに、それ以降、雨で田の中から土器片が浮かび上がるので,雨が降ると田を歩き回り土器片の収集を続け、その数、3年余で1,100点以上。そして拾い集めた土器を松田さんに持ち込んで鑑定してもらうと言うことを、丁寧に続ける。

その土器片からやがて、「扶桑略記」にある、宇多上皇が吉野離宮に通う途中で宿泊した、「吉野郡院」の推定地にまで研究を進めるに至るという話である。」



『吉野一隅』という本にはこうした、話が散りばめられている。

 この本の希望者は1冊500円(郵送料こみ、切手でも可)を同封し、

〒630・3122、大淀町中増476番地、山本昭緒さん方まで郵送すれば返送されます。

この本から、研究というのはこういった積み重ねであることが改めて、実感され、私としては自分を省みて大いに刺激を受けるとともに、反省させられました。

このように、自分の周りにある些細なことを見過ごさず、地味な努力を続けることが大切であることに気づかされ、自戒の念を強く感じさせられた本です。

 

アベ氏について」

平城京遷都について

 造平城京司の職員の長は阿倍宿奈麻呂,多治比池守、 次官には春日氏系の従5位下小野朝臣広人、同馬養。そして中臣人足とこの春日の地に関係のある氏族が勢ぞろいしている感があります。

春日の地については、古代よりまず和珥氏、つづいて春日氏が支配してきたことは書いてきました。

アベ氏は阿倍、安部、阿倍とも書き、朝廷に酒食を献ずる饗(あえ)がその起源だとされています。7世紀前半には蘇我氏と密接な関係を持っていたようですが、

そのため、アベ本宗家は蘇我氏、滅亡の時に滅びてしまい、その後、アベ氏のいくつかの家系の勢力が消長を繰り返しながら、現在の桜井の阿倍の地に本拠を構えたとの見方があります。

『東大寺要録』には和銅元年(708)、行基が「御葢山安部氏社之北高山半中」に建立した天地院という堂舎のことが書かれているが、このアベ氏もその1傍系であるかもしれない。

松田氏は、安部氏の引田氏と布施氏が奈良盆地の南北にそれぞれの私領を持ち、互いにこの春日の地を巡って対立していたと見ています。

引田氏の本拠地としては桜井氏東田(ひがいだ)が挙げられます。奈良市内の菅原の北方、疋田(ひきた)もその候補地のひとつです。

布施氏については、明日香村平田アベ山所在のキトラ古墳の被葬者に阿倍(布施)御主人を想定する意見もあります。

この御葢山に所領をもっていた榎本神を奉斉するアベ氏が神護景雲2年前後に鹿嶋神を奉ずる中臣氏にその地を譲り、アベ山周辺へ遷った。

その後、引田氏と布施氏の争いが落ち着き(アベ宗家の交代)、承平5年(935)に春日の地へと戻る。一方布施氏の本拠である安部山周辺で榎本神が祀らていたが、神護景雲の前後に安部氏と中臣氏とで、神地の交換があり、このことがアベ山の伝承の下敷きとなっているという見解が述べられました。

アベ山周辺は7世紀前半の谷首古墳を嚆矢とし、巨石を用いた横穴式石室を持つ古墳が築造されており、また、7世紀中頃にはアベ寺も造立されており、この時期にはアベ氏がこの地に勢力を持っていたことは事実としてまちがいありません。

アベ氏と春日の地、櫻井の安部、古社記の伝承。すべてが推定の域を出ませんが、何か濃厚なつながりは感じられます。

もうひとつ、平城遷都にあたって和銅元年(708)9月14日元明天皇が添下郡菅原に行幸し、20日に平城を巡幸、22日山背国相楽郡の岡田離宮に行き、27日に春日離宮に至り、28日に後藤原宮に帰ったと言う記述があります。

ここで、アベ氏引田氏の本拠の候補である菅原の地、そして春日離宮の名前が挙がっていることが注目されます。もう一つ加えれば元明天皇は安閇皇女と呼ばれていました。

アベ氏といえば、もうひとつ東国との係わりが無視できません。アベ氏の引田臣比羅夫による斉明朝(7世紀後半)の蝦夷遠征です。この時比羅夫が軍神としてタケミカヅチをかかげ、東北各地にこのタケミカヅチの伝承が多く残されています。

これ緒を受け継いだのが不比等の子宇合で養老3年(719)安房・上総・下総の三国を管する按察使に任じられ同時に常陸守でもあった宇合は陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍としてタケミカヅチの神を従軍神として帯同しこれを平定したとあります。これにより東国各地に鹿嶋香取の神が多く祭られることとなります。

以上のように、また話は春日社に戻りますが、こうしてアベ氏を媒介して、

アベ氏と春日の地、そしてタケミカヅチの神。春日大社に関るすべてが結び付くわけですが、決め手はありません。前に書きましたが、春日大社を創建したとされる称徳天皇は阿倍内親王と呼ばれていました。新たな課題も浮かび上がりましたが、これで、アカダマ会における春日社に関する話は終わります。

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