「春日の神の原像」 その3
ー榎本神社とアベ氏―
奈良ソムリエのアカダマ会では、「春日の神の原像」というタイトルで3回に分けて,検討を重ねてきました。
第1回は私の論文の問題点についての検討でしたが、残念ながら私自身が入院という思いもかけぬ出来事で参加できませんでした。
第2回は、春日の神の原像 その2 「東大寺山堺四至図』を手掛かりにというタイトルで「神地」につての検討を重ねました。
今回はこのシリーズの最終回を春日大社の貴賓館という、願ってもない場所で行うことができました。
参加者は、関東から、わざわざ駆けつけてくださった会員も加え、新参加3名、所要で参加できなかった方が3名の13名。
春日大社からも中野権禰宜にも参加いただけました。
おりしも7月9日の朝日新聞夕刊で講師の大淀町教育委員会の松田さんの紹介記事が掲載されていたこともあり、この話題でも大きく盛り上がりました。
さて、 前回では、「東大寺山堺四至図」特にそこにかかれた「神地」を見ながら、そこから浮かび上がる疑問点などを検討しました。
今回は、『古社記』の記事を土台に、春日社創立の謎の核心に迫る内容となりました。
問題となるのは「古社記」に書かれた
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「同神護景雲元年12月7日大和の国磯上郡安部山の御座す。
同2年正月9日同国添上郡三笠山にみあとおわしし後、天児屋根、斎主命を始め御神の御許へ各々副之奉常陸の国のお住まいより三笠山に移りますの間、鹿を以って御馬となし、柿の木の枝を以って、鞭として御出あり。
先ず神護景雲元年6月21日伊賀の国名張郡夏身郷に来着す。・・・・
・・・そこより立ちて、同国のこものふ山に渡りおはす。数か月居御す。」
また南北朝時代の社記である『春夜神記』に記載されている「春日の神が鹿嶋から遷幸の途次、一時阿部山(櫻井)に居られた際、春日山云一帯の地主神、榎本の神に土地の交換を申し入れ交替したが、阿部山は、お詣りが少なく、再び戻って此処に永住されたという話」から、この安部山、そしてアベ氏をどう解釈するかという問題です。
この安部山については、春日大社の機関紙である『春日』第88号に中野権禰宜が詳しく掲載されています。
この安部山の西麓に三本柿という字の一町ほどの土地の中央部の一反ほどの場所を榎本という小字で称している。この地は藤原京の大極殿の眞東にあたる。
等などいろいろ興味深い報告が中野権禰宜からされた。
このような安部山をどう解釈するか?
春日という土地に古来よりは和珥氏、そして春日氏、そこから別れた大春日氏の柿本、小野と言った氏族が勢力を有していたことはほぼ間違いありません。
やがてその地にアベ氏が勢力を伸張してきたこともうかがえる資料もあります。
このアベ氏と、春日の地と桜井の安部の地との交換が古社記を初め、いろいろな伝承として語り継がれているのか否か?判断を下す材料はまだ多くありません。
私には春日の地とアベの地との交換、あるいは譲り渡しが、出雲の地とヤマトの国譲りを彷彿させてなりませんが、国譲りという概念が今一つ腑に落ちません。
またこれも私見ですが、アベの地と阿倍内親王との係わりが無視できないような気がします。
アベ氏については、もう少し次回で詳しく書きますが、いずれにしろ確定した事実は多くはありません。まだまだ研究の余地が多い課題です。
井上皇后の廃后に至る経緯は『日本書紀』宝亀3年3月2日条によれば
皇后井上内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)せられて廃せらる。
これだけの記事で、巫蠱(ふこ)誰を呪殺したのかは書かれていない。
その根拠は実行者、裳喰咋足嶋(もくいのたるしま)の自首である。
この人物は自白によって罰せられるどころか、冠位の昇進を得ている。
このことからも、冤罪、ねつ造の可能性が高い。
この井上皇后の廃后の2ヶ月後には他戸親王も廃太子の処分もある。
同じく『日本書紀』の宝亀3年5月27日の記事にはその理由が書かれている。
その言う所を要訳すれば、
「光仁天皇は妻である井上皇后が夫を呪殺したことが1度や2度でない。
だからそういう人の子供を皇太子にはしておけない。」という。
「天皇の位は私一人の私物ではない。このままにしておけば、公卿をはじめとして天下の人間たちはどう思うであろうか。それを考えると恥ずかしいし、畏れ多い」という。
どうも妻である井上皇后が何度も夫である光仁天皇を呪殺しようとするだから、皇太子も廃するということである。
光仁天皇は妻である井上皇后より8歳上であるが、天皇は天智の孫王の一人に過ぎないのに対し、皇后は格上の内親王、聖武天皇の子であり、称徳天皇の異母の姉妹。
その結婚も既に妻子があるにもかかわらず、いわば譲位した聖武天皇が実際は光明皇后より愛していた節がある広刀自の子であり、光明皇后により伊勢へ追い出されたわが子をあわれに思い、斎宮を降り、やや婚期を逃した独身の娘の身を案じて白壁王に押し付けた嫁であった。
そいう意味で皇后には遠慮もあり、皇后自身もその意識があったと思える。つまり見下していたわけである。
言うなれば夫より私の方が、あるいは、息子である他戸親王のほうが天皇にふさわしい。と考えていた節がある。したがって夫の死を願う動機が十分にある。
夫もそれを感じていたが故の巫蠱(ふこ)の坐(つみ)であり冤罪である。
そして井上皇后は、廃皇され、子の他戸親王は廃太子となり、幽閉され、母子は同時に死ぬ。おそらく毒殺であろう。
その井上皇后の妹に不破内親王がいる。
時期は不明であるが、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚している。一時、内親王の身位を剥奪されたことがあったというが、具体的な時期や事情はわかっていない。
天平宝字8年(764年)9月、夫塩焼が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されているが、不破と息子氷上志計志麻呂は連坐を免れている。
神護景雲3年(769年)1月、県犬養姉女・忍坂女王・石田女王と共謀して称徳天皇を呪詛し、志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、再び内親王の身位を廃され、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名させられたうえ、平城京内の居住を禁じられた。志計志麻呂は土佐国に配流されている。
宝亀3年(772年)12月、呪詛事件は誣告による冤罪であったとして、内親王に復帰している。
延暦元年(782年)閏正月、息子の氷上川継が謀反を起こそうとしたとして伊豆国に配流されたのに連坐して、娘たちとともに淡路国に配流された。延暦14年(795年)12月、和泉国に移された。以後の消息は不明である。
こうした出来事を見てもこの妹もやはり、自分の境遇に強い不満を抱いていたようである。
ずいぶん長い話になってしまったが、こうして、聖武天皇の血筋である2人の姉妹を以って持統天皇の血筋は、完全に消滅し、それと同時に奈良時代は終わり、時代は平安へと移る。
一方その持統天皇の血筋を守るため影で懸命に支えっていた藤原不比等とその子孫である藤原氏は、持統天皇の血筋が絶え奈良時代が終わっても権力の中枢から決して没落することなく、その後千年にわたって、天皇を支え続ける。
それというのも不比等が築き上げた律令制度は最早天皇が親政を行なう必要性をなくし、権威と権力を分離させていたからである。
そしてその藤原氏の氏神である春日大社も都が京へと変わった後も藤原氏の篤い信仰を受け今に至っているという話である。
昨年から引き続き、卒論のテーマである春日大社について調べていく上で、奈良時代と言う時代について、いろいろ考えたところを、書いてきましたが、この稿は今回で終わりです。
前回まで聖武天皇を間に、その正妻である光明皇后、側室である広刀自。
そしてそれぞれの子、光明皇后と井上皇后の争いに至る背景を説明してきました。
阿倍内親王の未婚の女性として異例の皇太子即位という事態で、この争いはいちおう終わります。いや終わったはずでした。
ところが、ここで、歴史の皮肉というか、「禍福はあざなえる縄のごとし」という事態になります。未婚の女性が皇太子となり、考謙天皇となった事態で、こうなるのはわかっていましたが、後継者がなかなか決まりません。
聖武天皇が崩じるにあたって、皇位継承を、天武天皇の子新田部親王の子、道祖王(フナド)を指名し「朕が子阿倍内親王と道祖親王との2人もて天の下を治めしめんと欲す。いかに」とたずねたと言います。
しかし考謙天皇は道祖王をその地位から追います。
そして藤原仲麻呂の子真依の妻であった粟田諸姉(アワタノモロネ)を妻とし現に仲麻呂の屋敷に暮らしていた大炊王を後継者とします。淳仁天皇です。当然仲麻呂の傀儡といえます。その仲麻呂は天平宝字四年(760)恵美押勝という名を賜り、この時期の太政大臣の名である大師となり権力を握りますが、光明皇后の死、そして道鏡の出現もあり、最後は反乱をおこし、斬殺されます。
こうして前述しました光仁天皇の即位に到ります。その背景については繰り返しになりますので、ここでは書きません。
ただ、同じ聖武天皇の妃でありながら、藤原不比等の子として元明天皇から大事にするようにと送り込まれ、ついには臣下出身で初めての皇后となった光明皇后と、その子であり、未婚のまま初めての皇太子となり、ついには天皇となった考謙天皇。
その陰で県犬飼広刀自の子として、未婚のまま伊勢に斎宮として出仕し、
28歳でその任を解かれ、いわば行き所がなく止む負えずぱっとしない皇族である白壁に嫁します。
その白壁王と言えば、横禍を恐れ、酒におぼれ、酒狂いのまねをしていたと言われ政争から一歩身を引いました。
そのころ次のような童謡が伝えられています。
葛城の前なるや。豊浦寺の西なるや。おしとど おしとど。
桜井に白壁しずくや。好き壁しずくや。おしとどおしとど。
然しては国ぞさかゆるや。 吾家らぞさかゆるや。おしとど、おしとど。
おしトド、おしトドというのは、ハヤシ言葉。「白壁しずく」は白壁王が沈み、世を隠れている意味。
その「好(よ)き壁」が現れたら国も我が家も栄えるのにという意味。
桜井とは飛鳥の葛城寺の前、豊浦寺の西にあるという井戸で、こらは白壁王の妃井上内親王を暗示しているといわている。
このような白壁王でしたが、思いもかけず即位して光仁天皇となり、その結果、思いもかけずずっと影の存在であった井上内親王が陽のあたる皇后へと、躍り出ます。運命の皮肉といえます。
果たしてこれが幸いであったのか不幸を招くことになったのか。
さて、聖武天皇は喜びの余りでしょうか、安積皇子の他にも皇位継承の資格を持つ皇子はいたにもかかわらず、生後1カ月のこの基王を皇太子とします。
何度も言うように、奈良時代が天武天皇の血を引く天皇の時代だと言う言い方が、ここでも違うことがわかります。
例えば、天武天皇の長男であり、太政大臣を務めた高市皇子の皇子で母親も天智天皇の子である御名部内親王という、申し分のない血筋である長屋王は、全く名さえ上がりません。そして御承知のように、光明皇后即位の妨げということで、排除されます。そして長屋王と、妃である吉備内親王、子の膳夫王は自殺。
ところが、その長屋王の妻であり、藤原不比等の娘の長娥子の子である黄文王、山背王、安宿王は、命が助かります。
ここでも藤原氏の意向がうかがえますが、ともかく、こうして、天武天智の孫王は他にもいるにも関わらず、無理やり生後一か月の基王が皇太子となります。
ここには藤原氏の意向とともに光明皇后の意向が強く働いたのは明らかです。
そして聖武天皇のもう一人の妃、県犬飼広刀自には、神亀5年(728)すでに男児が生まれています。安積親王です。しかしながら、安積親王は、やはり無視されます。
ところがその基皇太子は生後1年で亡くなります。死因は不明ですが、皇位継承権のある長屋王の呪殺といううわさが立ちます。
これが、後の長屋王の変に繋がります。目の上のたんこぶと言える長屋王がなくなると待っていたように、光明子が臣下の娘としては異例な皇后となります。
これらの事を推進してきた藤原氏に、長屋王の祟りと言われる出来事が起こります。御承知のように,藤原4兄弟が次々と疱瘡で亡くなっていきます。
この時空白となった官位に任用されるのが、無位の白壁王、道祖王、橘諸兄も大納言となります。
あくる天平10年、この時点で唯一の皇位継承男子である安積親王が皇太子となり、藤原氏の血統が皇位から消えるのを恐れた藤原氏は、皇后でもない未婚の安部内親王を皇太子という異例の措置を取ります。これは光明皇后の意志でもあります。
ただ反対の声にも配慮して、安積親王の皇位継承権は保障すると言う複雑な妥協案を取ります。
広刀自の娘である井上内親王は、5歳で伊勢の斎宮へと出されてしまいます。
神亀4年(727)の事です。弟である安積親王の死によりその職を辞したのは28歳の時です。そしてすでに、40過ぎの白壁王に嫁します。
ここまで、井上皇后誕生に至るまでの経緯を振り返ってきましたが、聖武天皇と、光明皇后、犬飼広刀自そして、それぞれの子である、阿倍内親王、井上内親王、そしてまだあまり出てきませんが、広刀自のもう一人の子、不破内親王との関係がお分かりいただけたでしょうか?
簡単に言えば、聖武天皇を間に、その正妻である光明皇后、側室である広刀自。
そしてその子たちの争いに至る背景が以上です。続日本紀には、こんな話も載っています。
聖武天皇が同じ年の(16歳)安宿媛を妻とする時、祖母である元明天皇が、「彼女の父親は、あの忠勤を尽くしている大臣不比等なのです。女だから皆同じと考えなさるな。大切にしなさい。」と言う意味の言葉を特に授けたということです。
この言葉を勘ぐれば、元明天皇がこの結婚に危惧を抱いていることの裏返しとも考えられます。
その時すでに聖武天皇には妻がいます。それが井上内親王の母、県犬飼広刀自です。その姓から、おそらく聖武天皇の母県犬飼三千代と何らかの関係のある女と考えられます。
そして、その結婚のあくる年、その広刀自は井上内親王を出産。そのまた次の年、
光明皇后は阿倍内親王を産みます。
光明皇后と、県の犬飼広刀自。そしてそのそれぞれの子である、阿部内親王と井上内親王。この2人は生まれた時から、いやその母親同士からライバル関係にあったと言えます。そして事実、お互いにライバルであることを十分に意識していたようです。
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