史春日の地においての、神祭がなされていたとみなされる史料が
いくつかあります.
御葢山(297m)の初見史料である
『続日本紀』養老元年(717)二月壬申朔条に、
「遣唐使神祇を葢山の南に祀る」.
この時の遣唐使の一人に阿倍仲麻呂がいます。
其時20歳、36年後の753年に清河、吉備真備、鑑真らと共に4艘で、
帰国の途に就くが難破、770年長安で亡くなったのですが、
同時に帰国した鑑真は無事日本に帰りつきました。
同じ『続日本紀』の宝亀八年(778)二月戌子条にも
「遣唐使天神神祇を春日山の下に拝す」
とあり、遣唐使の発遣に際して、
航海の安寧を祈るため天神神祇を春日の地で祀ることは、
恒例の行事として行われていたと考えられます。
『万葉集』巻十九,四二四〇・四二四一に、
春日ニテ祭レ神之日、藤原太后御作歌一首。
即賜二入唐大使藤原朝臣清河一
大船に 真楫貫き この吾子を
韓国へ遣る 斎へ 神たち
大使藤原朝臣清河(皇后の甥)歌一首
春日野に 斎く三諸の 梅の花
栄えてあり待て 還り来るまで
勝宝三年(七五一)の作と思われるこの二首の歌も春日社についてではなく、
御葢山の南麓において遣唐使の無事を天神・地祇に祈った祭礼について
記したものと思われます。
春日野に しぐれふるみゆ 明日よりは
黄葉(もみじ)かざさむ 高円の山
(万葉集1571)藤原朝臣八束(やつか)
この歌で高円山を背景とする春日野は、御笠山の南麓と考えられます。
春日野に 栗蒔けりせば 鹿待ちに
継ぎて行かましを 社しうらめし
佐伯赤麻呂
(春日野で会いたくて、そこにずっと留まっていたいけど、
奥さんがいるので・・・)
この佐伯氏の氏寺佐伯院が左京5条6坊の大安寺近くに
あったことから考えると、これも南麓と考えられます。
南方から御笠山を眺めると、その姿は独立してくっきりと見えるます。
現在の春日野は平城京が出現し、興福寺が建ち、春日神社が
創建されたために、区画が限定され、春日山が西方から
仰がれることになって、春日野が西に偏ることになりましたが、
本来の春日野は南麓に延々と広がっていました。
だから今春日のはこの角度から眺めた写真がほとんどで、
これでは、御葢山は後ろの春日山に重なって良く見えません。
でも、古代の春日のはもっと南からみたものです。
ともかく、これらの記述の神は、いわゆる地の神に対してで、
春日社でないことは確かです。
『延喜式』に大和国添上郡三十七座の社のなかに、
春日神社
春日祭神四座並名神大、月並、新嘗
とあり、後者が春日大社(四神)であることは間違いありませんが、
前に書かれている「春日神社」が、おそらく春日の地主神を祀る社と
考えられます。
九世紀にいたってもなお、春日の地に、春日四神以外に地主神を
祀る信仰が続いていたことがわかります。
でも、これは直接春日社の存在を示すものではありません。
歴史学の一分野ではなく、地理学の一分野であるとの位置付け。
地理学は地表に関する諸現象を対象とするが、歴史地理学は、その地表に現れた現象の、過去。
いかにしてその現象が現在現れたかを歴史の蓄積から読み取る学問とのこと。
なんか、難しいが、要するに今観察できる、地形とか風景が過去の歴史の中でどのように、
形作られたかを、読み解いていくことらしい。
で、一日目は座学。
2日目は実地研修と言うことで、葛城市へ。
参加者は約120名、結構長い列になります。
先生に説明を熱心に聞きます。
当日は快晴、寒いけれど景色はよく見え、大和三山もくっきりと見えました。
笛吹神社へも、ここの場所が、今日、試験に出るとは・・・
そして、今日3日目のスクーリングでは筆記試験。
熱心に聞いていないと出来ない問題で、必死に取り組み今回のスクーリングは終了。
2日目には、仲間と卒論の合格祝いもしました。
明日一日休んで、あさっては卒論の話の二回目。
結構忙しいです。
古社記ですが、これは鎌倉初期の13世紀頃に成立したものです。
それより少し前、平安末期の12世紀半ばに成立した
「春日皇代記」という書物には、最初の春日の社司の筆頭として、
時理(ときまさ)、助満(すけみつ)という名があり、
時風、秀行は登場しません。
この時理、助満は、後世の社家の系図では、時風、秀行から
4,5代目にかかれていて、この名前は平安時代11世紀の
公家の日記;「権記」や「水左記」にも書かれており、
まぎれもなく実在した人物です。
そうするとどうなるかと言えば、8世紀に時風、秀行が
実在していれば、この時理、助満は11世紀ですから、
300年で4,5代しかたっていないことになります。
(普通1代で30年ぐらい、300年たてば10代はいるはず)
ですから、古社記だけで、これが歴史的事実と断定はしにくいわけです。
この古社記は、天慶三年(940)に正預従四位下大東信清の端裏書したものを
大東延慶が自筆し、明治二十四年(1891)八月に寄進したものですが、
この信清は、永承七年(一〇五二)に亡くなっており、
天慶三年とは年は隔たっています。
(天慶3年(940)に仮に20歳とすれば、永承7年(1052年)には
112歳)
またその内容、著作年代及び著者ともども正確性、信憑性にかけます。
例えば、その創立の日についても、
「以終、神護景雲二年 申戊 十一月九日 申戊 寅時、宮柱立、御殿造了」
とありますが、11月9日は『続日本紀』によっても「己卯」で、
この年の11月には「戊申」は存在しません。
また、同じ古社記の中で、春日明神が安部山を経て、
春日山に遷座された年月日が違う記述もあります。
申の日にこだわるのは、春日祭が申祭りとも言われ、
清和(せいわ)天皇の859年(貞観1)11月9日の庚申(こうしん)
の夜執行されて以来、春2月、冬11月の上の申(さる)の日を祭日と
定められたため、申祭の名があり、ここから逆に、申の日に
合したものと考えられます。
明治以降は3月13日と決められたので、申の日とは限りません。
このように、古社記に神護景雲2年とあるから、その日で良いじゃないかと言うのは、
学問的には認められないわけです。
ただ鎌倉時代以降に書かれた書物には、広く神護景雲2年説が取り上げられ、
世間的には、一般化していました。
学問的に、受け入れがたいもう一つの理由は、それ以前に春日の地に置いて、
春日社があった可能性を示す文献があるからです。
現在春日大社について書かれた本や、ガイドブックで、その成立は、
神護景雲2年(768)と、大体書かれているはずです。
春日大社でも、その年を成立の年とし、昭和43年には御鎮座
1200年祭が執り行われています。
その1番の根拠は、『古社記』です。
『古社記』と言うのは、文暦元年(1234)の具注暦紙背に書かれた、
撰述年代が確定できる最古の春日社の由来をしめした文書です。
(具注暦(ぐちゅうれき)とは、日本の朝廷の陰陽寮が作成し
頒布していた暦で、吉凶 判断のための様々な暦注が記載されていたことから、
注が具さ(つぶさ)に記入されて いるということで、このように呼ばれる。
巻暦の体裁で、漢字のみで記される)
「宝亀11年(780)8月3日中臣殖栗連時風記之」とする
「注記」なる1章があり、天の岩戸の神話と4所明神の
3次にわたる鎮座次第、そして現在地に鎮祭時の諸々の神験譚から
構成されています。
ところが、この中に春日社に日神信仰や神鹿思想が発生する
11,12世紀頃の影響がみられる。
従ってこの注記は、そのもっとも重要な要旨である鹿嶋よりの
遷記を中軸として、断片的な記録を記録したもので、
中臣の子孫に相伝するための備忘のための記録と考えられています。
その内容が、果たして信用できるかどうかで、論争があります。
ところで、今日卒論の合格通知が届きました。
これで、今まで書きてきたことは、一応担当教授に認められたということですので、ご報告しておきます。
高畑に今も残る、社家の面影
志賀直哉邸あたり、ここらがいわゆる南郷の中心あたり。
これも、かっての社家の築地塀。名画の残欠と言われた高畑の風情。
会津八一の歌
旅人の 目にいたきまで みどりなる
ついじのひまの なばたけのいろ
と歌われた、崩れかけた土塀は今もなお、あちこちに残る。
もう少し、社家について書きます。
社家の最初が、鹿島からお伴をしてきた、
「中臣殖栗連」の時風と秀行と書きました。
読み方は、私は、「ときかぜ」「ひでつら」と読んでいましたが、
大東さんの著書によると、「ひでつら」は正しく、
時風は「ときふう」と書いてありますので、「ときふう」とします。
前に書い「古社記」によれば、最初、どこに住めばよいか、
神に教えを請うと、神が投げられた榊の枝の落ちたところに
住むようにと指図があった。
で、その落ちた場所が現在の杏町。
そこには、辰市神社があります。
そしてその近く、西九条町に「時風神社」と言うのが末社としてあります。
一方、「秀行神社」というのが、長浜市大東町にあります。
なんか、ここまで来ると出来すぎ感があって、逆にほんまかいな?と言う感じです。
おそらく、どちらも後世、伝承から逆に作られたと私は思います。
どちらも、春日の神領があった場所で、そこに管理のため住みついた春日の人間が、
荘園の鎮守社として、祖先崇拝の意味も兼ねてお祭りしたと思えます。
それにしても、最初に住んだ場所が、春日社からはるか離れた
場所であったという伝承は、なにを示すのでしょうか?
神護景雲という時代が、本当であれば、奈良時代も後期、
街中にはもう適当な場所がなかったのか、
或いは、神官が冷遇されていたのか?
さて、鹿島からついてきた神官は、中臣。
大東だ、辰市だって?
この由来も実際は、よくわかりません。
とにかく、この時風、秀行の二人が始まりで、その両家を大東、
辰市と呼ぶようになったのは、鎌倉時代ぐらいから。
多分、その辰市郷に住むようになったから、辰市。
大東は、東から派生したと考えられます。
東とは、鹿島の神主の名です。
鹿島側の文献には、時風、秀行は「東 時風」、「東 秀行」と書かれています。
私が、鹿島神宮に参拝し、その時鹿島神宮の権宮司にお会いして、
話を聞かせていただきましたが、その権宮司さんが東さんです。
なんと、ここでも千数百年前の名前が生きています。
と言うことで、その東(とう)から、大東と呼ばれるようになったと思われます。
春日の社家とは、この、大東、辰市の両家に平安時代末期に創設された、若宮社の神主、
千鳥家の三家とその別れのみを言う。
江戸時代には17軒。明治の社家廃止時で19軒だった。
それでは、高畑が社家町と言うのは何時のことかというと、
大体鎌倉時代ぐらいらしい。
高畑は春日参道から南に当たるから、南郷。
当初は中臣系の社家や禰宜家が住みついた。
そして、野田(現在の公会堂当たり)は参道から北で北郷。
大中臣系の社家が住んだと言われるが、のちには、ほとんど高畑に替わったようである。
大中臣というのは、最初は春日祭に、天皇の宣命を奏上する役目として、
春日祭の都度、勅使と共に、神祇官から派遣されていたが、正歴3年(992)
神祇官の大中臣為基が春日常勤の神主に任命され、
春日の神主となったのが始めで、のちに中東と名乗る。
これも、高畑に居を移した時、先に住んでいた大東家に対し、中東と呼ばれたのであろう。
千鳥家は若宮社が長承4年(1156)に創建され、最初中臣祐房、
その後、その3男祐重が任命され、その後世襲され代々有名な歌人を輩出し、
「玉葉集」に入選した
和歌の浦に 跡つけながら 浜千鳥
名にあらわれぬ 音をのみぞ鳴く
から千鳥と呼ばれたという。
後、それぞれに社家の分家で、その場所から
「今西、奥、西、向井、中、南、北、上、辰巳」といった名前が付けられたとある。
それから、各家に通字があり、
辰市、千鳥家では「祐」
大東家では「延」としている。
先年亡くなった大東さんは「延和」である。
禰宜は社家以外の春日の神人を言う。
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