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春日の地に春日社が創立された時期は、社伝による神護景雲二年より時代を遡り、源初は、御葢山の「神地」と図示された場所に、春日若宮の祭礼「おん祭り」が執り行われる「御旅所」の如く、恒久的な社殿ではなく、お祀りに際して簡単な社を建て、そこへ神を、お迎えして祭礼が執り行なわれた。

祭神は、新興氏族藤原氏の守り神として、中臣氏の祖神天児屋根命、比売神に加え、藤原氏の氏神としての、鹿島・香取の、武甕槌命・経津主命を迎えた四神の遥拝社であった。

その時期は、まず藤原不比等の手によって宮地()直一氏、福山()敏男氏の推考の如く、平城遷都の時期に創設され、その後は光明皇后の紫微中台において、藤原氏の私神として祀られた。

このことは、昭和五十一年に中村春壽氏の手によって発掘された、御葢山を西方からコの字形に取り囲むように築かれた築地が、平城宮の建設と、時を同じくして造作された傾向があることからも推察()される。

『神宮雑例集』に記載のある、「元明天皇、和銅二年己酉、都在奈良京之時、近奉居春日御社也」とある春日社創建の記事がそれを指していると思われる。

そして『古社記』に言う神護景雲二年は、天平宝字八年(七六四)九月の藤原仲麻呂の乱後、一族の結集を図る必要に迫られ、その精神的紐帯として、春日祭祭文で「春日御笠下津磐根宮柱広敷立、高天原千木高知」とあるごとく、宮柱を広敷立てた殿舎創立の年であり、春日祭はその殿舎の創立祭として始められたものと考えられる。

一般の常識として、神社の創立を、祀りの初めより、神殿の建設された時、と考えても、間違いではない。

 

  • 1,上山春平 『埋もれた巨像』  (株)岩波書店 一九七七年
  • 2,前田晴人 『三輪山』学生社 二〇〇六年
  • 3,永島福太郎『神道大系』神社編 春日 神道大系編纂会 昭和六十年
  • 4,大東延和 『神道大系』 月報四十八(春日)神道大系編纂会  昭和六十年
  • 5,西田長男 『神道考古学講座』第六巻 関係特論「文献資料」 

雄山閣出版(株) 昭和四十八年

  • 6,『神祇官勘文』は正式には『神祇官勘申諸神立社幷祭祀之始及祈年祭等祭始又忌火膳御賄等始事』といい、加茂・石清水・松尾・稲荷・河合・木嶋・大倭・気比・気多等の諸名社の「立社幷祭祀之始」すなわちその創立などについて勘申したものである。したがってその中にある春日大社の「祭文」もその創立の日に奏上された祝詞であると考えられる。
  • 7,義江明子 『日本古代の氏の構造』 吉川弘文館 昭和六十一年
  • 8,黒板勝美 『国史大系』巻二十七 国史大系編集會編 一九六五年
  • 9,宮地直一 『神道論攷』第一巻 古近書院 一九四二年
  • 10,福山敏男 『日本建築史の研究』 桑名文星堂 一九四三年
  • 11,中村春壽 『春日大社奈良朝築地遺構発掘調査報告書』 春日顕彰会昭和五二年

 

 

 

 

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  3 春日社成立の文献資料

春日社の起源で、確実な文献資料としては、永仁三年(一二九五)に春日神社権預の中臣祐永が著した

春日社(参考資料3 ⑶)私記』に「天平勝宝七年官符、春日社四所、紫微中台祭、件祭入宮神例

として従来,,光明皇后が祭られていた「春日社四所」がこの年に「官神例」すなわち官社の班に加えしめられたことを布告したものがあり、ここから、これより以前に春日社が発祥していたことをうかがわせる。

また正倉院所蔵の『東大寺山堺四至図』で天平勝宝八歳(七五六)六月九日と銘記された図において「神地」と記された一画が、現在春日大社の南門を含む回廊によって囲まれた地と一致しており、この「神地」が春日大社そのものを指したものと考えられる。

この図は建物が存在すれば必ず図示しており、この「神地」には斎場のみで、神殿などの設備は存在しなかったことも知られる。

『続日本紀』天平勝宝二年(七五〇)二月に

孝謙天皇の「幸春日酒殿」と行幸の記事があり、

これを以って春日社がこの時期に既にあったという説もあるが、

酒殿は弘法太師空海のいわゆる『御手印縁起』や『御遺告』の一つの『太政官符案幷遺告』、一名『高野絵図巻』などに収載する「高野山図巻」に天野の丹生・高野両明神の山下の三谷の「国司幷国内上下捧幣所」のことを「丹生・高野酒殿」とか「三谷酒殿」と記しており斎場(祭場)の意味と考えられ、

この春日酒殿も臨時の施設である可能性が高い。

『日本書紀』崇神天皇六年に、大和の笠縫邑に天照大神を祀ったが、そのときヒモロギ(神籬)をたてたとある。

笠縫邑は檜原神社に比定されているが、今も檜原神社には拝殿も本殿もなく、三ツ鳥居だけがあり、三輪山が御神体となっている。

古代に於いては、その鳥居さへ不要であり、ヒモロギは、神が降臨する場所を常緑樹で囲うだけで、祭りが終わると即刻、取り壊すのが常例であった。

後に祭場に仮小屋を建てるようになったが、それも祭りの直後には取り壊したが、やがて仮小屋をそのまま残しておくようになった。

それがヤシロの原型である。

「やしろ」は屋代。社屋の代わりの意から出発してきたもので、おりおりの祭りに当たって神は来臨・影向せられるものであり、

春日社は本来の社号は『延喜式神名帳』にいう「春日神(四座)」であって、それは影祀・遥祀、

ようするに遥配所であり、祀りの執行にあたって鹿島・香取・枚岡・相殿の四所明神の降臨・影向を乞うたものである。

『東大寺山堺四至図』にある神地は、まさに「やしろ」の場であり、神祀りをする空地である可能性()が高い。

このように社伝にある神護景雲二年以前に、春日社の存在がうかがわれるが、それでは『古社記』に言う神護景雲二年は何を示すのであろうか。

『三代実録』元慶八年(八八四)八月二六日申寅の条に、

「新造神箏二面、奉春日神社。以神護景雲二年十一月九日所充破損也」

とある春日大社の祭器として奉納された神琴二面が破損したので、この元慶八年八月二六日に新たに製造して奉納したという記事は、少なくとも神護景雲二年十一月九日に祭が執り行われていたことを示す確実な証拠であるが、そればかりでなく春日祭の執り行われた最初を意味するものと考えられる。

この「神琴二面」は、春日祭には必ず使用されなければいけない大切な神具・祭具であり、容易に取り換えてはならないものである。

およそ神社の祭礼のうち、何が一番重要であるかと言えば、むろん、例大祭であり、例大祭は、一般に、当該神社の創立の日を記念・慶祝して催される。そして春日社の例大祭は春日祭である()。このことから時風の記文にある。

「神護景雲二年 申戊 十一月九日 申戊  寅時」の、この吉き年の吉き月の吉き日の吉き時を以って、称徳天皇が託宣を蒙り、「山本南向」に「地形相」し「以終、宮柱立、御殿造了」と社殿が新築落成せられ、以前より斎場あるいは臨時の施設としての仮神殿に対して、永久的建造物としての神殿が新築落成され、これが春日社においての創立の時とされたと解釈するのが妥当である。

 

春日祭において奏上される『延喜式』巻八、祝詞式にみえる「春日(資料4 ⑸)祭祝詞」が神護景雲二年十一月九日の日付を持つ『神祇官()勘文』の「春日御社(資料5 ⑸)祭文」と細部の異同はあるもののほとんど同一であることも、春日祭が創立祭であることを現わしている。

これに対し義江明子氏は、その語句の詳細な検討の結果、「祭文」が神護景雲二年当時のものでなく、平安期の策命・告文の知識に基づいて、全体の体裁を『延喜式』所載の他の祝詞に合わせ整えている可能性を指摘し、また『春日社古社記』の「時風記」が真の奈良期の所伝ではありえないとし、この「祭文」が社家で後世に作られたものと指摘し、その上で春日社の成立を奈良末~平安初期に擬して()いる。

しかし、字句の違いは書写の過程での変遷であり、その時代の、筆者の知識によって文章が加筆訂正されることは自然なことであり、『時風記』においては特に、春日社内部の社記の類であり、代々社家によって、加筆修正をくわえていることは前述の通りである。

よって、それを持って後世の作であるというのは当たらない。

およそ社寺の創立の時期に於いて、鹿嶋・香取の両神宮の創設が神武期であるとするように、できるだけ古く表記するのが常であり、春日社に於いてのみ、その創立を、あえて神護景雲二年にまで引き下げるべき特段の理由はない。

また『三代実録』元慶八年(八八四)八月二六日申寅の条の記事を疑うべき理由も見当たらない。

新抄格勅符抄の大同元年(八〇六)牒のうちに、「春日神 廿戸 常陸(  天平)(神護)鹿島(元年)社奉寄」とあり、天平神護元年(七六五)に鹿嶋神宮が封戸を春日神社にさいたことが書かれているが、これも春日社社殿の建設に合わせたものと考えられる。

同じく新抄格勅符抄(資料6 ⑻)収、延暦二十年(八〇一)九月の官符において、「件神封物、割充如前」、「自余雑物一同前符」とこの処置が前例の踏襲であることと同時に、天平神護元年の封二十戸の廃止を載せていることからも、天平神護元年より引続づいた処置であることを示している。

神護景雲二年という時期には、天平宝字八年(七六四)の藤原仲麻呂の死、

天平神護元年の和気王の死、淡路廃帝の死、道鏡の太政大臣禅師への任命、また孝謙天皇に後継者がなく、藤原氏の血統が絶える可能性等の、その時期に於いて、新興の氏族である藤原氏として、氏族の結集を図る必要に迫られる出来事が多く、その精神的紐帯として、最後の藤家の血を引く称徳天皇の勅命により、氏の長者である永手によって、氏神社を祀るべき十分な理由が存在する。

そのことは義江()氏の指摘の如く、春日祭祝詞が、春日の神の加護によって、藤原氏及びその血を引く諸王が朝廷における高位を保持し、藤原氏を発展させていくようにという祈願が込められていることからも理解される。

また、平城京からの長岡京への遷都にあたっては大野原神社。平安京に移っては、吉田神社が作られ、平安時代に入って藤原氏があえて、奈良の地に氏神社を創建しなければならない理由は存在しない。

興福寺との関係でいえば、後の神仏習合時代ほど、強い結びつきはなく、氏寺は各氏族に唯一のものでないことは、中臣氏にしても氏寺は国足の法光寺、大島発願の栗原寺あり、二章でのべる蘇我氏の例でも明らかであり、それが理由とは考えられない。

 

 2 春日社の創建
       (神護景雲二年説について)

春日社は社伝によれば、奈良時代、称徳天皇の神護景雲二年(七六八)十一月九日に創建されたとある。

例えば『春日社御本地幷御託宣記(参考資料1 ⑶)』(春日大社蔵・平安後期成立・執行正預兼若宮神主中臣連大東延遠記)には

「或る皇代記裏書きに云ふ、神護景雲二年十一月九日戊申、左大臣藤原永手、春日大明神を三笠山に移し奉る云々」

としるされ、『大鏡裏書』にも神護景雲二年十一月の記載がある。

その創設に関する一番の根拠は「宝亀十一年(七八〇)八月三日、中臣殖栗連時風記之」とある記文から発している。

この出典は春日社社家大東家に伝来した文暦元年(一二三四)の具注暦紙背に書かれた『古社記(参考資料2 ⑶)』によるもので、天慶三年(九四〇)に正預従四位下大東信清の端裏書したものを大東延慶が自筆し、明治二十四年(一八九一)八月に寄進したものである。

この信清は、永承七年(一〇五二)に亡くなっており、天慶三年とは年は隔たっている。またその内容、著作年代及び著者ともども正確性、信憑性にかける。

 

その創立の日についても、 

「以終、神護景雲二年戊申十一月九日戊申 寅時、宮柱立、御殿造了」

とあるが、十一月九日は『続日本紀』によっても「己卯」であり、この年の十一月には「戊申」は存在しない。

また同じ『古社記』の文中に於いても、春日明神が安部山(参考資料2 ⑶)を経て、春日山に遷座された年月日が違う。

 

この『古社記』は、春日社()に日神信仰や神鹿思想が発生する十一,二世紀の頃、その最も重要な要旨である鹿嶋より遷祀なったとする古伝を中軸とし、社家によって追加、編纂、記録され

「右為後代記置之状如件」

とあるように、家伝を一子相伝する上で必要な備忘のための記録であり、この文献資料を以って、ただちに春日社創設の日を神護景雲二年とするには、いささか問題があり、もう少し検討の必要がある。

 

はじめに」

春日社は社伝によれば、奈良時代、称徳天皇の神護景雲二年(七六八年)十一月九日に創建されたとある。

祭神には東国から武甕槌神(常陸国・鹿島の神)・経津主神(下総国・香取の神)を迎え、これに天児屋根神(河内国・枚岡の神)・同比売神を配して四神殿一体の春日神社が構築された。鹿嶋・香取の神は一対のものであり、天児屋根神と比売神も一対で、春日社における四神はそれぞれ、藤原氏と中臣氏の二本立て()体制を示していると考えられる。

本論では、まず創建とされる神護景雲二年の根拠についての考察をし、次いで祖神たる天児屋根命・比売神は当然として、何故常陸国より鹿島大神、下総より香取大神を祭神として請来し、藤原氏の氏神として春日大社が成立するに至ったかについて、中臣氏という氏族を通じて考察を進めていく。

 

 

一、春日社成立の時期について

 

1 春日社創建の前史

春日と言う地名が文献に登場する早い例は、『古事記』の開化天皇の段に「春日伊邪河宮」と見え、『日本書紀』の開化天皇元年十月の条に「春日之地」の「率川宮」、同六十年十月の条に「春日率川坂本陵」とみえる。

ついで『日本書紀』の景行天皇五十五年二月の条には「春日穴咋邑」、『日本書紀』允恭天皇七年十二月の条には大和の「春日」の櫟井とある。  

これらのことから、『古事記』、『日本書紀』における春日の地域は、いわゆる春日山麓の春日野台地のみを指すとは限らず、率川の流れる春日野台地から、古市さらに櫟本におよぶ地域をも意味していたことが知られる。

ただ、春日野台地を中心とする地域を「春日」と限定している用例もある。『日本書紀』武烈天皇即位前紀の影媛の悲歌。

 「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち 行くも 影媛あわれ」

この歌では「春日」は春日山麓の春日野台地の狭義の春日を示す。

春日の地に大和王権とかかわりのある春日県があったことは、『日本書紀』の綏靖天皇二年正月の条の別伝に、「春日県主大日諸女糸織媛也」と記されていることにも反映されている。

その春日県がやがて発展して、春日の国と称されるようになったと思われるが、この春日の地域に和珥氏の勢力が伸張していたことは『古事記』の雄略天皇の段で、

大長谷若建命(雄略天皇)が丸邇(和珥)佐都紀臣の娘の袁桙杼比売を妻どいして「春日に幸行」した説話からも推察される。

『日本書紀』継体天皇七年九月の条の古歌謡

「八島国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗し女を ありと聞き手 宜し女を ありと聴きて・・・・」

この歌は勾大兄皇子(のちの安閑天皇)が春日皇女を妃に迎えた折の歌として位置付けられている。

『日本書紀』の歌に「春日国」が読み込まれていることが注目される。

『古事記』や『日本書紀』の伝承では、和珥氏出身とする娘が、開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体の各王者の「后妃」になったことを述べているが、その和珥氏や和珥氏の娘の生んだ王子・王女に「春日」を称するものが少なくない。     

『日本書紀』の雄略天皇元年三月の条には、大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の「妃」として「春日和珥臣深目」の娘が春日大娘皇女を生むとの伝えがある。

ここでは「春日和珥臣」と春日を冠する複氏姓となっており、生まれた王女も春日を名乗っている。

春日臣は、添上郡春日郷のあたりを本拠とした氏族で、のちに和珥氏が春日郷周辺に勢力を伸張して、「春日臣」と「和珥臣」との間には同族的繋がりが生じ、「春日和珥臣」というような複氏姓が形づくられたのであろう。

春日の地域には、和珥氏や春日臣の他、和珥氏から派生した小野氏の勢力も挙げられる。

さらには、アベ(安部、安倍、阿倍、阿部)氏の存在を指摘し、春日の地が、アベ氏から中臣(藤原)氏に委譲されたとする()もある。

また渡来系の人々もあった。

『日本書紀』の欽明天皇元年二月の条には、「百済人己知部投化。置倭國添上郡山村。」と記す。

この「山村」は『和名類聚抄』の山村郷あたりで、奈良市山村町とその周辺である。

そして『日本書紀』は「今山村己知部之先也。」と述べている。

「今」とは書紀編纂の段階を指し、七世紀後半から八世紀の前半のころにも、百済系の「山村己知部」の存在したことがわかる。このように、いわゆる春日の地には藤原氏によって春日社が祀られる以前に、和珥氏、春日氏、安部氏のほか、渡来系の氏族などの居住が確認されている。

春日社成立以前の祭祀遺跡は、調査の手が加えられたものはまだ少ないので、必ずしもその具体的な内容はわからないが、磐座に属するものが大部分を占め、大小さまざまである。

春日社の本殿楼門前にある「赤童子出現石」と言われるものも小規模な磐座であり、御葢山の山頂付近や山麓にも巨石が散在しており、これらも磐座と考えられる。

例えば、山麓の巨石群の中で北端にあるものは石荒神社と呼ばれている。

水谷神社の本殿直下には、漆喰で塗り込められた巨石群がある。また御葢山の東半部中腹に、帯状に連なる列石があり、御葢山の東半分にめぐらされていることから、山頂を区画したもののようであり、これも広い意味での磐境と解釈している。

御葢山の列石のような壮大な規模の構築物の存在は、かなり大きな勢力を持っていた豪族が春日の地を祀りの場としていたことを間違いなく示すが、それが何時のことか、誰によって行われたかは残念ながら確認できない。

また平城遷都後も、春日の地において、神祀がなされていたとみなしうる史料がいくつかある。

御葢山の初見史料である『続日本紀』養老元年二月壬申朔条に、

「遣唐使祀神祇於葢山之南」、

同じ『続日本紀』の宝亀八年二月戌子条にも

「遣唐使拝天神・地祇於春日山下。」とあり、遣唐使の発遣に際して、航海の安寧を祈るため天神・地祇を春日の地で祀ることは、恒例の行事として行われていたと考えられる。

『万葉集』の巻三のなかに収められている佐伯宿祢赤麻呂と、ある娘子との間に交わされた問答歌に

 ちはやぶる 神の社の無かりせば

    春日の野辺に 栗まかましを(四〇四)

  春日野に 栗蒔けりせば 鹿待ちに

     継ぎて行かましを 社し留むる(四〇五)

 この歌からも春日野にすでに神を祀る社があったことがうかがえる。このように古くから春日野に於いては神祀りが行われていたのは間違いないが、これが直ちに春日社と結びつくものではない。

『万葉集』巻十九,四二四〇・四二四一に、

春日ニテ神之日、藤原太后御作歌一首。即賜入唐大使藤原朝臣清河

大船に 真楫貫き この吾子を 韓国へ遣る 斎へ 神たち

大使藤原朝臣清河歌一首

  春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで

勝宝三年(七五一)の作と思われるこの二首の歌も春日社についてではなく、御葢山の南麓において遣唐使の無事を天神・地祇に祈った祭礼について記したものと思われる。

『延喜式』に大和国添上郡三十七座の社のなかに、

  春日神社

  春日祭神四座並名神大、月並、新嘗

とあり、後者が春日大社(四神)であることは間違いないが、前に書かれている「春日神社」は。おそらく春日の地主神を祀る社と考えられる。九世紀にいたってもなお、春日の地に、春日四神以外に地主神を祀る信仰が続いていたことがわかる。

04eea882.jpeg卒論を無事提出し終えたので、お礼の意味で、春日本宮に参拝してきました。

本宮は御葢山の頂上。

普段は足を踏み入れることのできない、禁足地です。

春日大社では年に4回、春日山練成会と称して、本宮への参拝をしています。

そして、正月9日の登拝は嘉例ノ本宮参拝と称します。

当日は正午集合。

早目に昼食を済ませて、春日大社へ。

なんせ初めてのことなので、事情がわからず、少し緊張。

なんと参加者は69名。それでもいつもの練成会の中では、平日でもあり、多い方ではないそうです。

顔触れは、まさに老若男女取り混ぜて多彩です。

まず説明の後、摂社水谷神社へ参拝、ついで、本殿、若宮、大黒社と順次参拝を済ませ、いよいよ本宮へ。

本社から若宮へのお問い道の途中にある本宮神社遥拝鳥居を通って、まさに道なき道を、まっすぐに頂上目指して登ります。

 

途中前後の神職の人と山伏の人の先導で、六根清浄と唱えながら山道を30分。

ようやく山頂に到着して、そこで祝詞奏上後、全員で大祓祝詞を唱えます。

その後同行した山伏の方と一緒に、般若心経。

春日に伝わる鎌倉時代の『古社記』によれば、神護景雲2年正月9日に鹿島より武甕槌命が、この御葢山(浮雲峯)に降臨されたとか。

以来毎年この正月9日に御葢山山頂にて中臣祓いを奏上されてきた。

当初はおそらく、社殿はなかった。

2f8a068d.jpeg

 

その時の磐境がこの写真の10メートル四方を自然石で囲んだ場所と考えられています。
 
その後社殿が立てられ、今の社殿は中世のもの。
 
0c58a30b.jpeg
 
傍らには経塚と思われる石も。
 
3099bdc7.jpeg
 
祭典が終わって、下山、その後、景昌殿にて中臣祓い(大祓)を15度、この日は都合何度か数えていませんが、20回以上大声で、大祓を唱えたので、今日は声がかれています。
 
その後は直会。
 
昔から知っている、東京のソムリエのFさんがたまたま、ご一緒だったので、初参加ではありましたが1日、楽しく過ごすことが出き、ほんとうにありがたかったです。
 
今日は、春日大社に卒論の製本したものを、納めてきました。
 
これにてすべて終了。
 
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