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この第2期の玉作遺跡、滑石製模造品製作遺跡が大和政権の東国進出に関連して存立したものと考えられています。

ところが霞ヶ浦、利根川を結ぶ水流の東北の地(これは鹿島神宮が所在する土地)にはこの遺跡が検出されていません。

これに対し、水流の以南、以西の地、すなわち千葉県北部、霞ヶ浦西岸の茨城県稲敷郡、筑波郡を中心とする地域にはこの祭礼遺跡が濃密に分布しています。

したがって5世紀ごろの段階では、大和政権の勢力範囲が鹿島の地に及んでいなかったと考えられます。

香取神宮の祭神は経津主神ですが、また斎主神とも言われています。

斎主は神を祀る人とも理解されます。

斎主は、戦いに際して軍団の長が神を斎い祀る。

このような祭礼の司祭者が香取の斎主神として祀られたと考えられます。

香取神宮の位置は霞ヶ浦と利根川の合流点近くに当たり、水運の交路としては、焦点となる位置です。

まさに戦略的、軍事的拠点として重要な意味を持ちます。

このように、香取の神は大和政権の東国進出における軍団の長、同時に司祭者として神祭りを司った人、すなわち斎主であると考えていいと思われます。

では、この大和政権の軍団の長となった氏族はといえば、物部氏を比定するのが妥当と考えられます。

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今朝は窓を開けてびっくりしました.

この時期に雪が積もるは近年では記憶にありません。

今日は奈良マラソン、でも道路までは積もっていないので、気温は低いですが差支えはなさfdc85885.jpeg022e4660.jpegそうです。

 

 

 

この集中している理由ですが、原材料の産出と言う点では難しい。

では立地条件、確かに「水郷」と言われるこの地域の水利は発達しています。

この意味では理由の一つとは考えられますが、それが霞ヶ浦、利根川の線を画して、茨城県の鹿島、行方郡内に及んでいない理由が説明できません。

この地域の古墳が他に比して、滑石製模造品、玉類を多量に副葬している事実もありません。

結果、この遺跡遺物が香取・鹿島の両神宮に関係していることが推察されます。

 

滑石製模造品製作の遺跡は、滑石製模造品のみの製作遺跡と、碧玉質等の玉類とともに製作を実施いる遺跡の2者に大別されます。

古墳時代を、前期、中期、後期と分けると、前期には滑石製模造品製作遺跡は検出されていません。これを第1期の玉作遺跡と呼びます。

古墳時代中期には、玉製品と滑石製模造品が認められ、これを第2期の玉作遺跡と呼びます。

一方土器に置いては、これらの遺跡から、和泉式土器、鬼高式土器、五領式土器と名ずけられる土器が関係しています。

絶対年代はまだ確定していませんが、一応五領式土器は4~5世紀。和泉式土器は五世紀中葉から六世紀初頭。

鬼高式土器は六世紀中葉から七世紀初頭ぐらいと一応想定されています。

第二期の玉作遺跡は和泉式土器が中心であり、五世紀~六世紀前半と比定されます。

ここからが大事なところですが、私自身まだ整理しきれていないので、また日を改めます。

 

今回の論文では、文献資料だけで、考古学的な史料は全く用いていません。

と言うより、そこまで目配りする余裕がないのが本当のところですが・・・

春日社の場合は、春日社ができるまでに在地の勢力が、春日の地で神祭りをしていた証拠は、文献でも、考古学的にも推定できます。

そもそも御葢山そのものが、神奈備山であり、古くより神祭りされていたことは前に書きました。

枚岡神社においても、その後ろの神津嶽が神奈備山であり、やはり山そのものが神だった可能性が高いですし、本殿がかっては湧水の池の中に建てられていたことからも、水と山を祀っていたと考えるのが妥当です。

鹿島・香取については、はっきり言って、まったくわかりません。その社史によれば、神武天皇の元年より社が立てられたということになっていますが、それは、歴史的にあり得ませんが、こういった社史を持つ場合は、やはりその歴史はかなり古いとは推定されます。

ところで、祭礼遺跡から検出される器物は、古墳時代中葉になると、独特の石製、あるいは土製の危惧が出てきます。

そのような祭礼遺物はそれぞれ材質を異にします。したがって製作技術も異なると考えられます。

したがって、例えば有る地域の技術集団が一手にその政策を引き受け、各地に分けていたとは考えにくいものです。

それぞれ個別に生産され、その祭礼の場に近いところで製作されていたはずです。

そういった遺物の中で、もっとも資料が多くかつ祭礼遺物の主体をなしているものに、滑石製模造品があります。

その製作遺跡の集中する場所として注目されているのが、利根川南岸、霞ヶ浦西南岸、印旛手賀沼周辺と千葉県北部です。

ところが、霞ヶ浦・利根川を隔てて隣接する茨城県鹿島郡、行方郡内には検出されていません。

滑石製石枕というものがあり、それは香取郡下総町、神崎町を中心に濃密に分布し、関東地方出土の大分部がこの地方出土であり、全国出土の60%が関東地方出土です。

大昔、神様は、名前もなく天然自然そのもが神様でした。

もちろん太陽、山、石、水、木。

春日の地にあっては、御葢山そのものが神でした。

神奈備山は、集落の近くにあって、円錐形のをし、樹木に覆われ、美しい山容をした山に限られます。

大和にあっては、三輪山が有名ですが、御葢山もその一つです。

そして、その山には磐座、磐境といった巨石や、列石があります。

磐座が神がお座りになるところです。神がその磐座や磐境に降臨されます。

今でもそうした石は春日の地の幾つも見られます。

春日大社本殿はその磐座の上の築かれています。

ではその岩達をお祭りしていたのはと言えば、よく分かりませんが、一応、和邇氏、あるいはその系列に連なる、小野氏、春日氏などが考えられます。

阿部氏と言う説もあります。

阿部氏は今の阿部の文殊院のあたりが勢力範囲と考えられますが、それ以前この春日の地に住み、藤原氏に春日の地を譲り渡したのは阿部氏であり、それが鹿島からこられた武甕槌命が最初に休まれたのが安倍山であるという伝説に残っているということです。

しかしこの辺のことは、記録にはありません。

ただ大和の伝説で、春日の神が、もともとの地のかみである耳の遠い神さんに、土地を3尺だけ、貸してください。

そして「いいとも良いとも」と貸してあげたら、地下3尺まですべての土地だったという話があり、この土地を譲渡した神が、今回廊の端に鎮座する榎本神社だと言う話が残されています。

要するに、もともと春日の地を支配していた勢力に、土地明け渡しを迫って、譲り受けたということです。

だから、最初この春日の地で祀られていた神と、春日大社の神は別の神様です。

それが何時のことか、どういう神かが問題です。

 

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