今日は春日大社で「御葢山に込められた願いとその継承」という題で、宮司さんのお話があったので聞きに行きました。
受付には奈良まほろばソムリエの受付があり、聞くと受験のための講座の1つになっているとのことで、受験者のスペースが設けられていました。
受講者はざっと100名ほど、雨にもかかわらず皆熱心なことです。
ご多分にもれず、私も含め年配の人が目立ちます。
2時間たっぷり宮司さんのお話を聞きました。さすが元教師、お若いこともあり、話に迫力があり、声も大きく聞きやすい講演でした。
内容的には、今まで勉強してきたことと、大きく違うところがなく、その意味ではいい確認になりましたが、神社の内部からもう少し裏事情的なことがお聞きできるかなと期待したのですが、それはあまりなくその点が少し残念でした。
今、本で、神奈備山について読んでいます。
もちろん、御葢山は神奈備山です。
いわゆる崇拝の対象とされる山には2つあって、1は富士山型(浅間型)、2は神奈備型(三輪山型)です。
浅間と言う言葉の語源はよく分かっていないようですが、火山性の高山で、特に頂上が円錐形にとがっている山に対するごく古い日本語らしいということです。
私は浅間は固有名詞かと思っていたのですが、逆で浅間山はそこから来た名前であるというのは初耳でした。
この浅間型の代表はもちろん富士山です。後、下野の二荒山、常陸の筑波山、東北では岩木山、安達太良山、信濃の蓼科山等など。
それらの山には神霊が鎮まり、雨を降らし雷を呼び、霧を起こし水を配給するなど、いろいろな天然現象、もちろん噴火も、が現れ、それが信仰を生むということです。
もうひととつ、神奈備型(三輪山型)は1に対して、小さい山をさし、神奈備は同じく古語で、神のこもる山と言うことです。
比較的村落の近くに存し、3角形または笠型を呈し、樹林に被われた山と言うのが共通形です。
春日神社の御葢山。日吉神社の日枝山、敢国神社の南宮山そして三輪さん。
どちらにしてもその山容は共通していて先端がとがっている点です。
御神殿ができる以前の神様は天空においでになり、民衆がお招きすると臨時にお降りになる、そこでお祀りをして願い事をするこれが神祀りの原型です。
だから古い形では、山の崇拝は遠くから遥拝するのが原則です。
山に足を踏み入れることはしません。それが後世は仏教信仰と結びつき山に踏み入り登拝する行為が盛んになり、里宮と奥宮といった、山上の社と山麓の社の区別が現れ出し、山の崇拝に変化が現れることとなります。
春日大社を例にとれば山上に本宮、山麓に春日社というわけです。
『古事記』や『日本書紀』の伝承では、和珥氏出身とする娘が、開化,応神、反正、雄略、仁賢、継体の各王者の「后妃」になったと述べています。
その和珥氏や和珥氏の娘の生んだ王子・王女に「春日」を称するものが少なくありません。
『日本書紀』の雄略天皇元年三月の条には、大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の「妃」として「春日和珥臣深目」の娘が春日大娘皇女を生むとの伝えがあります。
ここでは「春日和珥臣」と春日を冠する複氏姓となっており、生まれた王女も春日を名乗っています。
春日臣は、添上郡春日郷のあたりを本拠とした氏族で、のちに和珥氏が春日郷周辺に勢力を伸張して、「春日臣」と「和珥臣」との間には同族的繋がりが生じ、「春日和珥臣」というような複氏姓が形づくられたのであろうと考えられます。
春日臣の1部はのちに大春日を称し、天武天皇13年(684)には、大宅、栗田、小野、柿本、櫟井とならんで朝臣(アソミ)を与えられています。
春日の地域は、昔からこのように和珥氏や春日の臣等の氏族の移住地域でした。
そしてこの春日という地域はいわゆる春日山麓の春日野台地のみを指すとは限らず、率川の流れる春日野台地から、古市さらに櫟本におよぶ地域をも意味していたことが知られています。
ただ、春日野台地を中心とする地域を「春日」と限定している用例もあります。
『日本書紀』武烈天皇即位前紀の影媛の悲歌。
「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻ごもる 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち 行くも 影媛あわれ」
物部大連麁鹿火(アラカビ)の娘影媛は、平群大臣真鳥の子鮪(シビ)と結ばれていたところに、太子(ヒツギノミコ)のちの武烈天皇が横恋慕して2人の仲をさこうとして、鮪を乃楽山で殺してしまいます。
その鮪の死を悼んで詠んだ歌がこれです。
石上の布留(天理市布留)から大宅(高円山の西麓、奈良市百毫寺の西あたり)そして、春日、小佐保(奈良市佐保川町あたり)がよまれています。
この歌では「春日」は大宅と小佐保の間、春日山麓の春日野台地の狭義の春日を示しています。
前者は葛城地方から東北に春日山を望んだあたりであり、後者は奈良山あたりから葛城地方を望んで歌った望郷の歌と、視点の違いが指摘されています。
春日の地に大和王権のとかかわりのある春日県があったことは、『日本書紀』の綏靖天皇二年正月の条の別伝に、
皇后五十鈴依媛が春日県主大日諸(オオヒモロ)の女糸織媛であることが記されていることにも反映されています。
その春日県がやがて発展して、春日の国と称されるようになったと思われますが、この春日の地域に和珥氏の勢力が伸張していたことは『古事記』の雄略天皇の段で、大長谷若建命(雄略天皇)が丸邇(和珥)佐都紀臣の娘の袁桙杼比売を妻どいして「春日に幸行」した説話からも推察されます。
『日本書紀』継体天皇七年九月の条の古歌謡
「八島国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗し女を ありと聞き手 宜し女を ありと聴きて・・・・」
この歌は勾大兄皇子(のちの安閑天皇)が春日皇女を妃に迎えた折の歌として位置付けられています。
この和邇氏の本拠地は今の天理市和邇町、櫟本あたりです。
そしてそこには今も和邇下神社があります。
和邇氏は古代大和の有力豪族でありながら、政治的活躍はあまりなく、目だたない存在です。
それでいながら先に書いたように多くの后妃をだし、その数は他の氏族をはるかにしのいでいます。
そして16の氏族と同族となっており、これは武内宿禰の同族しか対比できる氏族がない数です。
この和邇氏が春日社ができる以前の春日の地を支配しており、その地で神祀りをしていると考えられます。
卒論は枚数制限があり、実は提出した論文の前にもう1章ありました。
ざっと10枚程度ですが、50枚の制限いっぱいに書いたものですから、この章はカットしました。
それは、春日社ができる以前の春日の地についてです。
文献資料に春日と言う地名が最初にあらわれるのは、『古事記』の開化天皇の段の「春日の伊邪河宮」、
『日本書紀』の開化天皇元年十月の条に「春日の地」の「率川宮」
同六十年十月の条に「春日の率川の坂本陵」とあります。
開化天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)「稚日本根子彦大日日天皇」は第9代天皇で、春日の率川に宮があったとされています。
ただ初代の神武天皇に次ぐ2代綏靖天皇からこの開化天皇までは記述がほとんどなく、所謂欠史8代と言われ、その実在性が疑われています。
この開化天皇の名前にふくまれるヤマトネコは、7代孝霊天皇(オオヤマトネコヒコフトニ)、8代孝元(オオヤマトネコヒコクニクルノ)、と共通です。
ネは根、コは子で大地に伸びる樹木を支える意から、国の中心となって国を支えるという意味を込めていると考えられていて、記紀編纂時に加わったと考えられています。
又8代は父子相続で一貫していますが、実在の確かな5世紀以降の皇位継承は傍系相続をあわせており、父子相続が現れるのは持統天皇以降で、これらのことからも後世の造作の疑いを持たれています。
ただ私は、記紀の記述を後世の挿入であるとか、改変であるとかいう説には賛成しません。
もちろん100%真実とは言いませんが、大体は史実に基づいていると考えています。
御陵が3条通りのフジタホテルの横にあり、春日率川坂上陵第9代開化天皇の陵とされ前方後円墳で全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。
ただグーグルで上空から見ても、くびれも見えず、随分メリハリのない形で、本当に前方後円墳なのかなとは思いますが、まあとりあえずこれが現在宮内庁が認めている開化天皇陵です。
日本書紀では、亡くなった年が115歳、孝元22年、16歳で立太子から計算すれば111歳、記では63歳。
皇后が伊香色謎命(イカシコメノミコト)崇神天皇・御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリビコイニイノ)天皇を生みます。
この天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と言われ、この天皇から帝記的記事に旧辞的記事が加わり、記述も詳細になるので、この天皇を事実上の初代とする説もあります。
また『古事記』ではこの開化天皇の子供、和珥の臣の祖先日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間にできた子、日子坐王で初めて、記紀ともに「王」の字を用いています。
ここから、今まで皇子は『命』と表記されていたのが「王」という表記が始まっています。
このように、開化天皇からは何かが変わったという感じを受けます。
ともかく、開化天皇に至って、ヤマト王権が奈良県北部に地歩を築いた事はほぼ間違いありません。
そして皇后が和邇氏の出であることも重要です。
春日の地を当初支配していたのが、この和邇氏です。
先日のアカダマ会で少し話題に上がった天照神についてよく分からなかったので少し調べてみました。
結論は、やはりよく分かりません。
が、それでは話にもならないので、理解できる範囲で書きますと、まず尾張氏の祖神が「火明命」。
『新撰姓氏録』では天孫の部に入っています。
ようするに、中臣氏や物部氏の天神の部と対照して、皇室との関係性が強いようです。
で、この神は天火明命とも、天照国照彦天火明命、また天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とも単に饒速日命と呼ばれているとのこと。
ただし、物部氏に祖神である饒速日とは違うと言われています。
この神が天照神と同一神で、皇室の祖神天照大神の原型の一つとしての太陽霊格であろうと。
しかし、伊勢の天照大神とは別の日神で。
①男性神格と考えられている。
②海人族ゆかりのある霊格である。
③その中の別格として、対馬系の日神・天日神命(アメノヒノミタマノミコト)がある。
(対馬は天道信仰など古くから太陽信仰が行われ、日光受胎譚等も語られている。日神として下県郡の阿麻衰氐留神社があり、これは後世与良郡小舟越村にあって照日権現となずけられ、これが対馬県主等の祖「天日神命」である)
④それ以外の天照御魂神の多くが、尾張氏及びその同族と伝えられる畿内の諸豪族の奉載する神である。
⑤これらの氏族の共通の祖先とされる火明命の名が『日本書紀』『旧事本記』では、天照国照彦火明命と呼ばれ、
「天地を照らす光輝」すなわち太陽の光を人格化した名であるらしいこと。
⑥そして天照神社・天照御魂神社の祭神としては、天孫、火明命を祀ると伝えていることが多い。
以上のように、いわゆる皇室神天照大神とは違う天照神が存在している。
ただ天照大神と天照神は全く違うかと言うと、これは微妙で、伊勢大神が古くはアマテル神と呼ばれていたことは、神楽歌
「いかばかり よきわざしてか 天(あま)てるや、ひるめの神をしばしとどめむ」とあったり。
皇大神宮鎮座の伊勢度会郡にある神路山の一名を天照山(アマテルヤマ)といっており、アマテラスはアマテルに敬語をつけた形に他ならない。
そして天照大神が男性太陽神であった形跡すらある。
女性化したのは神妻として仕える斎宮の印象が強大となり、神格に投影したからという可能性も指摘される。
以上、天照大神と天照神は違う扱いであることは確かではあるが、別物と言い切るのは難しい。
とにかく天照神は尾張氏の祖神である。
そしてその尾張氏は葛城氏と深い関係があり、尾張氏、葛城氏は皇室と深いつながりがある。
とにかく、神様は難しいというのが私の率直な感想です。
参考文献 『日本書紀研究』第5冊「尾張氏の系譜と天照御魂神」 松前 健
朝堂院前広場の整備を巡っていま少し騒がしくなっています。
この整備について、市民団体「平城宮跡を守る会」というのが4,595人の反対の署名を集め、工事の中止を求めています。
地下遺跡に対する悪影響を懸念してのことです。
ほんらいこの遺跡を守る立場の文化庁が問題なしとしているのですから、素人としては大丈夫なんだろうと考えますが、なにせ、あの原発事故以来、役所の信頼が地に落ちていると言っていい状態です。
文化庁が許可した工事、本来なら専門家が大丈夫と言っているのだから、問題ないだろうで済むはずが、どうしても疑いの目で見てしまいます。
平城遷都以来1300年、言わば放置された状態で奇跡的に守られてきた地下遺構、やってみて「大丈夫と思ったのですが・・・」ではすみません。
安保世代の私としては、こういった運動にはどうしても引けてしまい、ただちに反対運動にくみする気はありませんが、慎重の上にも慎重に対処していただきたいものです。
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