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この夏の第1回のスクーリングが終わりました。

卒論に向けての最後の演習と言うことで、最終日の今日は各自が10分だけ、中間発表をしました。

皆さんはそれぞれに自分の地元とかの身近なテーマを選んで、熱心に発表されていました。

中には手製の、立体地図を持ちこんでの発表もあり、その熱意には驚かされます。

私はと言えば、適当にしゃべればいいや、なんて、たかをくくって、全く準備もせずに臨んだ結果は散々でした。

これで10月の草論の提出までは、自分でやるしかありません。

今回の皆さんから受けた刺激を生かして頑張ろうと思いました。

スクーリングの初日には、世話をしてくださる方があり、通信制12名が集まって懇親会を開きました。

その会場に向かうのに、この暑い中、高の原から西大寺の駅まで、佐紀古墳群の間を通ってえんえん1時間近く歩きました。

さすがに歴史好きは体力もあります。

おかげでビールも一段とおいしくいただけましたし、有意義な飲み会でした。

次のスクーリングは8月中旬。

野外講義の日もあり暑い中大変ではありますが、楽しみでもあります。

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不比等やその兄真人、あるいは鎌足までが落胤説があるところに、今度は道鏡が志貴皇子の6男だという説もあります。

よっぽど貴人伝説と言うのがに日本人が好きなのか、はたまた真実か?

春日大社のことを調べているのに、何故道鏡かといえば、春日大社の創建には称徳天皇がかかわっているというか、その時代だからです。

ご存知のように、称徳天皇は熱心な仏教徒です。

春日大社はその称徳天皇が藤原永手に命じて創建したとあります。

しかし、仏教狂いと言っていいほどの称徳天皇が神社を作ろうとしたというのは少し不自然です。

永手が称徳天皇に願い出て、許可を得たと言うところだと思います。

何故この時期に藤原氏の守り神である春日社を作ったかと言えば、仲麻呂の変があります。

藤原4兄弟が相次いで亡くなった後、広継の乱、仲麻呂の乱と藤原氏の屋台骨を揺るがす出来事が起こります。

そこで藤原氏の結束を促すために春日社を創設したというのが今のところの私の考えです。

そして中臣氏の祖神として天児屋根命、藤原氏の氏神として武甕槌神を勧請して遥拝する社としての春日神社の創設。

ここまでは大きく異論はないと思います。

何故武甕槌音命が氏神かが難しいところです。

鎌足が鹿島の生まれであるという説にはくみしません。

中臣氏の本貫地が鹿島であるというのも少し違います。

もう少し時間が必要です。

大化の改新の前、鎌足が軽皇子(後の孝徳天皇)を訪ねた時、鎌足を歓待して、一夜の接待に寵妃阿部氏を供したという話があります。

また天智天皇に近侍した采女で美女の評判の高い安見児という才色兼備、誰もがうらやむ美女を賜与されています。

その時の歌

「われはもや 安見児得たり 皆人の得難にすとふ 安見児えたり」

 

 まさにどうだ、やったでという、すごく分かりやすい喜びの歌を残しています。

梅原猛さんによると、不比等はきっと美男だっただろうということですが、その父親鎌足も、女性には恵まれていますし、やはり美男だったかもしれません。

そして、天智天皇は鎌足にその妃、鏡王女を下げ渡しています。

なにを書きたかったかと言うと、不比等はその鏡王女の子供で、実は天智天皇の子供だという説が、大鏡に書かれています。

藤原氏の系図には不比等・真人の母は車持君与志古娘となっています。

ただ車持与志古娘の実在を確認する史料はありません。

そして、長男である真人は「性は聡明好学、大臣之を異しむ」と『家伝』には書かれ頭がよく勉学好きで、父鎌足が、わが子ながら非凡の人物と驚き珍重したと伝えています。

そして遣唐使とともに入唐し勉学修行し、内外両典に通じ、百済を経て帰国する際、詩一韻を誦したところ、百済の士人がその能を妬み、毒を盛られそのため、帰国後わずか三カ月23歳の若さで生涯を終えています。

その真人は『多武峯略記』に

「元は是れ孝徳天皇の寵妃也。賜うて夫人と為る。孕むことすでに6カ月、詔して曰く、もし男ならば臣が子と為せ。もし女ならば朕が子と為さんと。4か月にして子を産む。男なり」

ようするに、孝徳天皇の皇子であると書いてあります。

鎌足が長男であり後継者である真人を出家させて仏門に入れると言うのは、確かに不思議なこと。

 鎌足は不比等が生まれる前に、猶子として鎌足の従父弟中臣連国足の子、意美麻呂をいれています。

鎌足が45歳の時、不比等がようやく生まれています。

このことからも後継者にめぐまれていない鎌足が真人を仏門に入れた不自然さがうかがえ、この事の真実味はまします。

このように鎌足、不比等は皇族との表に出ない縁があります。

このことが、鎌足、不比等の出世に影響があったであろうことは想像できます。

中臣氏は1番古いところでは『日本書紀』の垂仁紀に中臣連氏の遠祖である大鹿島が安倍氏の遠祖、和邇氏の遠祖、物部氏の遠祖、大友氏の遠祖と共に、五大夫に任ぜられてと書いてあります。

この垂仁紀と言うのは、まあよく分からないのですが、四世紀ぐらいでしょう。

大鹿島というのは、なにか意味深です、ひょっとしたら、鹿島神宮と何か関係がありそうな名です。

鹿島の記録から言えば、実在で天児屋根命系でも武甕槌命系でも名前が出てきます。

まあ実際のところ検証のしようがないというところです。

私はおそらく、日本書紀編纂の過程で、中臣氏が挿入したのではないかと疑っていますが、あくまでも想像です。

後仲哀紀でも四大夫として、中臣鳥賊津連と言う人が出てきます。イカツと読みます。ひょっとしてこれも雷臣と関係があるかもしれません。

そして雷といえば、武甕槌命。なにやらますます意味深です。

でも今日はこの辺で、この事はやめておきます。

今日書きたかったことは、不比等に至る中臣氏のことです。

で、日本書紀ですがその後しばらく、中臣氏の名前はほとんど出ません。

そして六世紀に三名名前が出ます。

中臣連鎌子、これは鎌足ではありません。それから、勝海、それからもう一人が磐余。

この三人はそろって蘇我氏に対抗して、仏教の導入に反対した人物です。

ただ不思議なことに、この三名の名前は中臣氏の系図には出てきません。そして系図の方には黒田、常盤と言う名前がありますが、逆にこちらは日本書紀、古事記には名前が出てきません。

物部戦争と言うのをご存知でしょうか?

要するに仏教の導入をめぐって、蘇我氏と物部氏が対立し崇仏派の馬子が勝利し、物部守屋についた中臣勝海も殺されたという出来事です。

ここで、中臣氏はいうなれば滅亡します。でも一族全部が滅びたわけではありません。

例えば後の大化の改新でもすべての蘇我氏が滅亡したわけでなく、蘇我石川麻呂の一族は栄えます。あるいは物部氏も、石上と名前を変え一族は残ります。

さて、これで、私の卒論の道筋が見えてくるわけです。

でも、まだ書きません。ちょっと時期早尚ということで、少しもったいをつけます。

中臣氏は、れいの壬申の乱でも大友皇子側について負けています。

映画ではないですが、中臣氏は2度死んでいます。

そこから不死鳥のように行き帰りついには千年の貴族となったわけですが、その話は別です。

話は最初の方に戻って、黒田とか常盤と言う名前が系図にあって、記紀にはでてこない。

これがポイントです。というわけで、ここまで。

 

不比等が最初に記録に登場した時の官位「直広肆」ですが、たしかに大宝律令の従5位下相当の位階で、授爵者の最低官位です。

だから、不比等は出世が遅かったと言う人がいます。

しかし、この時授爵した人数は総勢で34名。

そのうち20名が直広肆、同階より上は14名です。

言うなれば、序列は15番目と言っていいわけです。

藤原の氏の長者である大島の年齢は不比等より相当上で、直大肆と、わずか一階上にすぎません。

そして記録には現れていませんが、重要なことは、不比等は草壁の皇子の側近だっと思われることです。

何故わかるかと言えば、草壁皇子常用の懸佩刀を、おそらく皇子薨去の際、皇子から賜ったという事実です。

古来、刀はその持ち主の命ともいわれます。

その太刀を不比等が授与されたことは、いかに皇子が不比等を信頼していたかの証となります。

この佩刀は後に

 草壁皇子→不比等→文武天皇→不比等→聖武天皇と伝来されて行き、皇位の象徴とも見られています。

草壁皇子の母持統天皇も、皇子の妃阿閉皇女も母は蘇我臣石川麻呂の娘。

不比等の妻は石川麻呂の弟、蘇我臣連子の娘で従父姉妹の間柄。

その上不比等は功臣鎌足の子、母の持統天皇、妃の阿閉皇女の信頼も厚く、不比等と草壁皇子は4歳違い、言わば親戚の頼りになるお兄さんだったわけです。

その草壁皇子の薨去の後、不比等はずんずん頭角を表します。

先の直広肆だった持統3年の7年後不比等39歳の時には直広弐と四階進み、かって66歳の丹比真人(時の右大臣)の位階に達します。政界第5位の位置です。

その3年前、持統7年、氏上であった藤原朝臣大嶋が世を去り、後を意美麻呂が継いでいます。

そして持統天皇の後、文武天皇が即位します。

その文武天皇が後に慶雲4年(707)詔で不比等の功業をたたえて「藤原朝臣の仕え奉る状は今のみにあらず、かけまくもかしこき天皇の御世御世に仕え奉りて」と不比等が文武のみならず、天武、持統両朝においても忠勤を励んだとほめたたえています。

その文武天皇2年(698)「藤原朝臣(鎌足)賜るところの姓、よろしくその子不比等をして之を承けしむべし、ただし意美麻呂らは神事に供するによって、よろしく旧姓に復すべし」と言う詔がだされ、ここに藤原朝臣は不比等の子孫のみに限られることになったのです。

以上、不比等について長々と書いたのは、この藤原姓が不比等の子の限られるにいたった経過を書くためでした。

さて、だから春日がどうだということですが、今はまだ霧の中、でもおぼろげに姿が見えてきたところです。

1時藤原朝臣を名乗った中臣意美麻呂、この人が鎌足の養子であったこと。

この事に私は少し関心があります。

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