卒論の計画書が返されてきました。
再提出と言う評価です。要するにこれでは駄目、考え直せと言うことです。
テーマは「鹿島社の神が奈良春日社に勧請されるに至る経過についての考察」
このーテーマは思い付きではなく、前から調べてみたいテーマでした。
何故、春日の第一神が武甕槌神なのか?
でも、史料がなさすぎる、先行論文がない。難しすぎると言う評価。
今日、事務室の制止をきかず、直接教授に会いに大学まで行ってきました。
何とかこのテーマで書かせてもらえないか?
結果は同じ、難しすぎる、史料がない。
たかが通信生の卒論、熱意さえ持っていれば出来は悪くても評価してもらえるかと、淡い期待を抱いていたのですが、打ち砕かれてしまいました。
難しいのはわかっています、史料のないのもわかっています。
でもこのテーマを調べたいのです。
でも、計画書が認められなければ、卒論を書くことすらできません。
卒業なんか出来ても出来なくても、奈良大の卒業証書なんかがほしくて自分の気持ちを曲げたくなんかありません。
でも書かしてもらえないのでは、話になりません。
聞くところによると、私と同じように、すべての試験を通っていて、卒論の計画書が認められなくて、留年した人がいるそうです。
その人は翌年、泣く泣く別のテーマを出して卒業されたとのこと。
私は、そうはなりたくありません。
これからどうするか?しばらく考えます。
昨日は役員会でした。2回連続して欠席でしたので、久しぶりでした。
もうすっかりNPOに向けて進んでいました。
この事に関しては、役員をやめる私は何にも言いません。
総会も7月16日(祭)に決まっていましたが、私は奈良大学のスクーリングがあるので出席できません。
今後の会の行方に関しても、発言権はないので、もうこの話は終わりです。
今日はアカダマで、ソムリエの有志の会一応、アカダマ会という名の会でした。
初めての試みで、講師の方を読んで、記紀についての話をしていただいて、その後懇談と言う形です。
参加は15名。ちょっと、多すぎた気もしますが、まあぎりぎりです。
正直、前に友の会で古事記の輪読会をやった時に比べれば数倍面白く感じました。
若手の研究者なので気も楽でしたし、いろいろ有意義なことも聞かせてもらえました。
次回が楽しみです。
内容については、kozaさんのブログ「大和・桜井の歴史と社会。季節に合わせてゆっくり歩く」
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/koza5555/
で紹介されています。
簡潔にまとめられていますので、興味ある方は、そちらをどうぞご覧になってください。
通信学部の4月号が送られてきました。
これによると、今年も288人の入学(1年次入学が83人、3年次が205人)
昨年は281名(1年次が83人、3年次が198人)とコンスタントな数字です。
今年はなんと90代の方が1名、80代の方が8名入学されたとか。
幾つになっても向学心をお持ちの方がいらっしゃるということに感動します。
また地域別では関東が591名で群を抜いて多く、近畿の475名をはるかに上回っています。
昨年のスクーリングの自己紹介でも、奈良の人間はごくわずか。
やはり関東の方の奈良、歴史に関する興味はとても高いようです。
さて、こうしておちおち、していられません。
なんか尻に火がついたというか、試験頑張らなければ。
今回、こうやって何回か自説を披露しましたが、きっかけは武甕槌神のことを少し調べる必要から、古事記を読み返したことでした。
出雲の国譲りに登場するのが武甕槌神。
なんと海上で太刀の切っ先の上に座って大国主に国譲りを迫ります。
なんともはやアクロバティクと言うか、奇妙な姿です。
さらに読み進めると、高志のヤマタノオロチ、頭と尾が八つ、長さは八つの峰にわたり、背中に檜と杉の木、ほおずきのような赤い目、まっかにただれた腹。
ここから、どんな姿が想像できるでしょう、神話だから事実の描写ではないとしたら、なにを暗示しているのでしょう。
古事記の上巻の神話のうち、四割以上が出雲神話、日本書紀にはその四分の一しか書かれていません。
如何にに出雲神話の比率が高いか、それは何故か、疑問に思えば謎だらけです。
古事記は大和朝廷、天武が作成を命じた歴史書ということです。
それなのに、なぜ出雲の歴史をそんなに語るのでしょう?
神武天皇が本当に日向の国からやってきたのであれば、日向の国の歴史を語るべき、いや語るのが当たり前。
大体日向の国は7,8世紀になってもヤマトに従わぬ未開の国。なぜそこが古里なのでしょう?
奈良大学の科目で言語伝承論と言う科目があります。
そこで古事記の国生み神話は海上からの視点で書かれているという指摘を目にしました。
確かに、内陸のことは何も書かれず、国生みと言いながら出来るのは島ばかり。
ふと、これは神武の東征の下敷きではないかと考えました。
淡路から出発して、瀬戸内を九州へ、関門海峡から日本海に出て、日本海上の島々と九州そして本州南西部の中国・北陸あたりを日本海側から望み、その後また淡路島に至る。
これを逆と考えれば、何故淡路島が国生みの最初か合点がいきます。
瀬戸内を東行すれば、いやでも淡路島が大きく立ちはだかります。
インパクトは非常に大きいはずです。だから最初の国生みが淡路島。
孔子の論語に「学んで思うわざれば則クラシ、思うて学ばざれば則アヤウシ」という言葉があります。
やはり、まず疑問に思えることは何故か考えることが大事なのではないでしょうか。
今回私が書いたことは単なる推論ばかりです、検証はまだ全くできていません。
でも、こうやって推論して考えることは必要だと思います。
しかし、寄り道をしすぎました。
本題と関係ないことにこれ以上かかわる余裕はないので、この話はここまでにしておきます。
余裕ができたら、また続きを考えたいと思います。
大体の歴史書にはヤマト王権は4世紀前半までにほぼ国内を統一したという点で一致している。
前に、kozaさんのコメントで出雲が何時、倭に入ったかと質問を受けたが、私は3世紀だと考える。
ヤマトの南部に最初足場を築き、序々に北まで勢力を広げ、4世紀には国内を統一。
ここからは、従来の学説と同じで、要するに出雲を大和が滅ぼしたか、倭を出雲が滅ぼしたかである。
さて、半島から進出したスサノヲを始祖とする出雲が、何故古事記ではそれを隠して、あたかも出雲をヤマトが滅ぼしたように記述したかは、国際情勢だと書きました。
古事記の編さんは、8世紀、天武のころと言うのは、その序が何時書かれたかは別としてもそう間違いはありません。
では何のためにということも、中国を意識して、律令制国家を目指し、律令の編纂、都城の築造、国の歴史書を編さんという3つの事業の完成を目指したことも間違いありません。
で、その当時の国際情勢と言えば、618年に唐が隋に替わり、660年には新羅が倭と親密な関係を保ってきた百済を滅ぼし、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで倭と百済の連合軍が大敗。
朝鮮半島は新羅によって統一され、その新羅は唐の勢力を背景に、日本に対してこれまでの従属的態度を捨てる。
こうした国際情勢が、遷都や律令、国の歴史書の作成へと日本を駆り立てたわけですが、古事記は言わば正書の作成に先立って作られたもの。
原案と言っていいかもしれません。そこで出雲神話の作成も図られた。
今、中国・朝鮮を意識して言わば国威の発揚のために作る史書の根幹の、国作りが朝鮮半島出身のスサノオと言うのはいかにも、具合が悪い。
そこで、すり替えが企てられ、それでもあまりに出雲の記述が多すぎると言うことで修正して正式に国史となったのが日本書紀というわけです。
出雲の時代は3世紀、この古事記が作られたのは8世紀。500年の隔たりがあります。
まして無文字時代の歴史、言わば語り部によって伝えられてきた物語も、もはや現実感もない大昔の話です。
すり替えに対してもさほどの抵抗はなかったと思われますが、多少の後ろめたさが出雲の重視というわけです。
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