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コシの国にヌナカワヒメという娘がいて、美しい、賢い娘と言うことで、ヤチホコノ神(オオクニヌシ)が求婚に行って、結婚してできた子が国譲りで最後まで抵抗したという、タケミナカタであるが、その話は置いて、神武の次第2代の天皇が

カムヌナカワミミである。

カムヤマトイワレヒコ、やまとに最初に入った王、次が、カムヌナカワミミ、ヌナカワという名からしていかにも出雲ゆかりと思ってしまうのはうがちすぎであろうか。

その後、第10代崇神天皇、この天皇も神武と同じ「ハツクニシラス」と言われる天皇であるが、その御代に疫病がはやりり、大いに天皇が憂えていたとき、夢にオオクニヌシが表れて、オオタネコを用いて、大物主を祀らす話、垂仁天皇の御代子のホムチワケが物言わぬ子であったのでオオクニヌシを祀った口がら聞けるようになった話。

時代がさがって斉明天皇の時にも、祟りがあって、出雲の神を祀ったという話。

事あるごとに、出雲の神が出てくるのは、やはり祖神を祀るということである方が自然と思われる。

 

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出雲が倭へ進出して、征服したという私の仮説。

まず、出雲の祖はスサノオ。そして彼は半島から高い文化と技術を思ってやってきた。

越人(コシヒト)と言い換えてもいいかもしれません。

そして土地の有力豪族の娘と婚姻して出雲を栄えさせた。

その何代か後の子孫がオオクニヌシです。

そしてそのオオクニヌシが倭へ進出します。

これも、古事記に書いてあります。

大国主が倭へ出発しようとした時のさまです。

「大国主が支度をして、出雲より倭国に上りまさむとして、束装し立たす時に、片御手は御馬の鞍にかけ、片御足はその御鐙に踏み入れて、歌ひたまひしく」

以下スセリヒメの歌となる。

ここで、はっきりと出雲から大国主が倭を目指して出発するさまが書かれています。

が、その後のことは古事記にも日本書紀にも書かれていません。

私は、その後の行動は神武東征伝として書かれていると考えます。

出発地は宮崎です。でもその当時、奈良時代であっても、日向の国はまだ従っていない国です。

その日向から出発したことにしたのは、出雲から出たことを隠すためのみが理由です。

もちろん、太陽が向かう国、ということもあったでしょう。

それから、もう一つ、重要なことですが、現代人は国に関して誤解があります。

出雲と言い、倭といっても、国家ではもちろんありません。戦国時代の藩ほどでもありません。

たとえは悪いですが、アメリカインディアンの部族、アパッチとイロコイ族といった感じをイメージすればいいと思います。

要するに部族の争い、何万の軍勢なんて中国の話です。

東征もおそらくせいぜい数百人規模と思います。

その争いのさまを思い浮かべてください。

常に部族と部族の争いとして描かれています。

倭国と出雲国といった規模の戦いという描写はありません。

戦いで特筆すべきことは、最初の戦いは弓矢です。おそらく石器の弓矢です。

そして武甕槌神が刀を授けます。これは鉄の太刀でしょう。

ここで武器の差が出てきます。ここらは国譲りの神話も含まれるかもしれません。

こうして倭に進出した出雲はそこに根を下ろします。

カムヤマトイワレヒコ、倭に入った彦。です。

やがては大和盆地一帯にまで支配を広げ、今度は王朝と言ってよい、ヤマト王権をうちたてます。

倭とは連続性はありませんから、その後の史書には倭の歴史はほとんど書かれません。

そして祖国である出雲には大きな神社を立てます。

奈良時代を通じて、何度か危機があれば祖神である出雲が登場します。

そして奈良時代、天武の時代に古事記が成立します。

もう少し書きます。

ついでにと言っては何ですが、ヤマタノオロチの解釈ですが、これも諸説あります。

「目がほおずきのように赤く、八つの頭と、八つの尾があり、その身体には苔と檜と杉が生え、その長さは八つの谷、八つの峰に渡る。その腹は何時も真っ赤にただれている。」

一体これは、なにを表しているのか?

私は火砕流だと考えます。

谷を走り降りる真っ赤に燃えた火砕流、檜や杉の大木を一気に飲み込み押し流すさま、と考えるのが自然な解釈ではないでしょうか?

こしのヤマタノオロチの意味は、越はやってくるという意味です。

半島からやってくる恐ろしい敵も、越地方からやってくる敵も、やってくるから越。

外から、あるいは山からでも、押し寄せるものは皆、コシものです。

半島から来たものは、モロコシかもしれません。

出雲から見て何時も収穫時に押し寄せる敵がコシだったかもしれません。

スサノオがその大蛇を退治して取り出した、太刀とは。

私は、ドロドロに溶けた溶鉱、銅か、鉄かその溶けた真っ赤な溶鉱から、太刀を作り出す、摩訶不思議な技を目の当たりにした古代人の率直な驚きのさま、と解釈します。

で、その半島からやってきたスサノオが土地の娘と結婚して出雲に腰を落ち着け、先進的な文化と武器を持つ出雲は栄えます。

その当時、結構幅はあります。紀元前二,三世紀から紀元一,二世紀まででしょう。

日本列島の文化圏は、北部九州、ヤマトを中心とする瀬戸内海文化、出雲を中心とする日本海文化の三つに分かれています。

時には交流し、時には抗争する関係だったでしょう。

しかし、世界中の歴史を見ても、農作が盛んになれば、必ず抗争が起こります。

紀元前二世紀ぐらいから、日本列島でも、環濠集落が武装を始めます。

そして最初は小さな集落同士だった争いがだんだんに大きな集落にのみ込まれていきます。

しかしまだ、国家と言えるようなものではありません。

 

スサノオが半島から来たということは、実は日本書紀に書いてあります。

スサノオが高天原から追われて、まず最初にその子イタケルと共に新羅の「ソシリモ」というところに降り立ったということです。

スサノオの時代には新羅はまだありません。「ソシリオ」は辰韓のどこかの国としましょう。

スサノオはそこから船に乗って出雲に至り、簸の川をさかのぼり、そして目的地である「鳥上峯」にたどり着きます。

現在の島根県仁多郡船通山とされています。そこから日本書紀の1書ではヤマタノオロチの話へと続きます。

またスサノオがヤマタノオロチを斬った刀は「韓鋤の剣」であると書かれています。

韓国から伝来した刀です。

その韓鋤の剣でヤマタノオロチを斬ったスサノオは韓国から来たと考えるのが自然です。

また出雲王朝が最も尊んだ祭器は銅鐸ですが、この銅鐸の源は馬の首にかけた朝鮮の馬鈴であると、佐原真氏は言っています。

ここでも出雲王朝は朝鮮の影を色濃く出しています。

実は出雲の国譲りは、裏返しで、出雲がヤマトに国譲りを迫った。

古事記はその間の事情を記した出雲側の言い伝えを、ヤマトを主にして、後に書き改めたもの。

神武東征も、出雲がヤマトに出てくる経路を記述したもの。

武甕槌の国譲りは、鉄の剣を持ったスサノヲがヤマトに国譲りを迫った話の焼き直し。

三輪の神は、本来の出雲の神を動座したもの。

もちろん、出雲神話は出雲の神話、ヤマトの先祖の話である。

では、国譲りを迫った相手は?

倭である。

出雲のヤマトが倭に国譲りを迫ったのである。

こうして奈良に大和王権が誕生し、それ以前の倭の歴史は葬られた。

だから、古事記にも、日本書紀にも邪馬台国の記述はない。

なぜなら、自分らの先祖の話ではないから。

古事記はその間の事情を記憶した「ふることの記」、しかし、そのまま書くわけにはいかなかったから、脚色された。

では何故か?

その当時の国際情勢である。

白村江の戦いから間もない国際情勢が、真実を書くことをためらわせたからである。

ではその真実は。

スサノヲが渡来人であるから。

誤解してはいけないのは、これは人種偏見とか、朝鮮蔑視とはまったく違って、国際情勢のためである。

大体朝鮮民族蔑視等は高々、100年足らず前の、明治以降、それも日清、日露戦争以降の話である。

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