又ある時、上品な老人が来られていて、後で父に聞いたら、一条院さんだということでした。
あの興福寺の門跡で、大条院と一条院の一条院さんです。
戦後、行くところがなく、興福寺では居場所がなくて、唐招提寺の森本さんがそれならうちに来なさいということで、唐招提寺におられたとのことです。
まさに歴史上の人物を見る思いでした。
又あるときは、ヘルメットをかぶって,皮ジャンと言ういでたちの老人が来られて、ヘルメットをとれば、松竹新喜劇の曾我廼家五郎八さんでした。
これも実に意外な出で立ちでした。父に因ればちょくちょく来られていたようです。
変り種では、トランペット奏者のニニ・ロッソさんが来られたことがあります。
世界で1番おししいコーヒーだと褒めてくれて、もちろん社交辞令でしょうが嬉しかったです。
東大寺の狭川長老と言っても、もう故人の方ですが、昔旧制中学時代東大寺から郡山まで歩いて通ってと言う話をされていました。
その当時奈良県には旧制中学はまだ2校しかなく、そこで郡山だったわけですが、その当時の汽車は本数が少なく、やむおえず奈良から歩いたと言う話、おかげで今からだが丈夫なんだとおっしゃっていました。
郡山と言えば、これも昔、柳沢の殿様が市長をされていて、ある時議員と一緒に旅行をして、余りの品の悪さに辟易して、同じく郡山藩の家老だった三木さんに、もう市長は辞める、お前やれと言われて、市長になったと言う話をお聞きしました。
これも昔、今西清兵衛さんが良く店にお見えになっていましたが、この方は私が実際に存じ上げている中で、本当に「旦那」という風格をお持ちでした。
まさに小説の中に出てくる、旦那を眼前に見る思いでした。
巻紙を手で持って、筆でさらさら字を書く所作。あるいは、「甲乙と」という漱石の小説しか見たことのない言葉を使われるとか、まあそういう枝葉末節ではなく風格です。
こないだBSで唐招提寺の話をやっていたので見ていたら、明治の大修理の監督、関野貞の話をしていて、その時東大の建築の助教授がお話しをされていましたが、日吉館があった頃、よくお見えになっていた方でした。
まだ院生だったかと思います。
先日は早稲田の先生がお見えになっていましたが、この方も日吉館の常連で、もう定年だとか、
同じ頃良くお見えになっていた、上越大の先生も院生でしたが、今ではかなり頭部が後退されています。
いやはや、月日のたつのは、早いものです。
いずれにしろ、その頃日吉館に良く来られていた方々が今でも時々奈良を訪れて、アカダマにも寄っていただいていますが、皆それぞれに年を取られています。
それでも奈良に来られた時は寄っていただいているのですが、もうそれも今年で最後、申し訳ないことです。
お寺のほうでは、上司海雲さん。
ともかく戦後の混沌とした時代、所謂文化人は食うに困っていました。
そこで、神社では水谷川、寺では上司さんを頼って色んな人が集まっていました。
上司さんの周りにも色んな人が集まっていたようです。
上司さんで忘れてはいけないのは、近鉄の車庫の問題です。
昨年遷都1300年で盛り上がりましたが、その場所に近鉄が車庫を作ると言うことで、決定済みであったのを、粘り強く交渉して、撤回させたのが上司さん、水谷川さんの周りに集まっていた文化人でした。
「阿保によし 奈良の田舎は」と言うタイトルの随筆は有名です。
他にも父は、薬師寺の橋本曉胤師、唐招提寺の森本孝順師、東大寺の狭川明俊師等とどういうわけか親しく、良くお見えになっていました。
東大寺の北河原公典さんは、私が店をやりだしてからも良く来ていただいて、東大寺の色んな話を聞かせていただけました。
社寺の方が多くお見えになっていたと書きましたが、印象に残る方の筆頭は春日大社の戦後初の宮司、水谷川忠麿さんです。
この水谷川さんは、もともと近衛の出で水谷川家に養子に入られたので、近衛3兄弟の一人、長男があの戦前最後の首相近衛文麿さん、次男が近衛秀麿さんです。
五摂家の筆頭の出ですから、それは高貴な方ですが、ごく気さくな方でしたが、いかんせん出が出ですから庶民のことをご存じない。
そこで父がこれからは庶民のことも良く知らないといけないと言うので、宮司さんを囲む会を作って、庶民を集めて月に1回お話を聞かせようということで、十日会と言うのを作りました。
この会は今でもありますが、もう時代も変わり本来の意味はすっかり変わって、今では当初とはまったく違った会になっています。
それはともかく、この水谷川さんも今では見なくなった、とんびを羽織って、ソフトをかぶってよくおいでになっていました。
店には水谷川さんがお描きになって額縁も手作りされた神戸の六甲山の絵が今でも掲げてあります。
とにかく血筋は争えないもので、芸術的な才能を素晴らしくお持ちでした。
息子さんは作曲家、お孫さんチェロリストとして今ご活躍です。
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