夜ライトアップされた鳥居をま近で見たのは初めて、さすがに圧倒的な大きさ、聳え立つっ
て感じがする。
このブログで私が書きたかったのは、従来奈良時代は天武の血筋。
それが光仁天皇の即位で天智の血筋が復活して、平安時代へと移行していく。
果たしてそうなのか?そこから始まりました。
というのも、あまりにも多くの天武の皇子達が滅ぼされていったからです。
そして、まさに誰もいなくなったと言う状態で光仁天皇となります。
だから、天武の血筋が奈良時代というのは間違った言い方ではないかと思ったのです。
こうして、調べ、得てみると、結局天武ではなく持統天皇の血筋を保ったのが奈良時代という結論に至りました。
そして、その最大の協力者が藤原不比等。
父が天智の寵臣、鎌足というばかりでなく、不比等が天智の子供の可能性も触れました。
そして、2人で共通の利害にたって、次々とライバルを消していきます。
天武の遺産である藤原京からの遷都も実現します。
そして、即位の詔で天智天皇の定めたという法をもちだし天武の名を消します。
不比等の子、宮子、光明子を天皇の妃とし、持統の思いの実現を自らの思いとも重ねます。
これが私の描いた奈良時代です。
思えば、百人一首巻頭の「天智、持統の歌」が奈良時代を表し、巻末の順徳院の「ももしきや ふるきのきばをしのぶにも なおあまりある むかしなりけり」のむかしは、
まさにこの「さくはなの におうがごとき」奈良の都を懐かしんでいる歌であったのかもしれません。
これにて、この私の奈良時代は終わります。
参考文献
日本書紀(岩波古典文学大系) 続日本紀(講談社学術文庫)、壬申の乱(中央公論社)、「埋もれた巨像」植山春平著岩波哲学叢書、続日本紀岩波セミナーブックス、早川庄八著、平城京全史解読 学研新書 大角修著、神々の流竄 集英社 梅原 猛、
そして1番参考にしたのは、橋本 治著「権力の日本人」「院政の日本人」講談社の2冊です。
次回からは、私が書いた小説「おん祭」を連載します。
雅楽と年末12月の春日若宮おん祭を題材として、それに携わる女子大生の話です。良かったら覗いてみてください。
こうして、元明天皇の時、藤原不比等によって、平城京への遷都が実現したわけですが、奈良時代はまさに女帝の時代と言えます。
一応7代70余年の奈良時代ですが、その前、持統天皇から始まって、元明、元正の女帝、その間にあった男帝の文武は持統上皇の庇護の下にあったわけですし、聖武天皇も元明、元正の上皇が居て、その上、昨日東大寺において1250年の法要が行われた、光明皇后という大きな後ろ盾の元の治世でした。
そして、孝謙女帝、重礎祚して称徳帝の間の淡路廃帝淳仁天皇はほとんど権力が無かったわけですから、
この間すべて女性が権力の座にあったといっていいわけです。
何故これが可能であったか?
これこそ、不比等の偉大なところです。
律令の整備それにつきます。
法による統治が可能となって権力者が統治しやすい体制が整えられたわけです。
聖武天皇の彷徨と言えるような時でも、今流行の粛々と政治が行われたのは律令のおかげです。
こうして奈良時代は女性の時代であったわけですが、同時に何度も言うように持統天皇の直系の子孫の時代でもあったわけです。
そして、最後の称徳天皇の出現によって必然的にその系譜が途絶えようとしたわけです。
そこから、僧道鏡への譲位まで称徳天皇が考えたわけですが、最後、吉備真備の努力によっていわば宿敵であった県犬養広刀自の娘である井上内親王を妻とする光仁天皇への譲位によって、その子他戸親王が皇太子となって血筋が保たれると言う、いわばウルトラCが考え出されました。
ところが、聖武天皇から押し付けられた形の井上内親王は、白壁王には、ことあるごとに身分の差を見せつけ、酒びたりの白壁王を罵倒し、叱咤激励する井上内親王は言わば目の上のたんこぶと言った感じでした。
そして、光仁天皇として即位した後、後継者である吉備真備が引退し、もう一人の後継者藤原永手が死んだ機会を捉え、ついに井上内親王を廃后し、あまつさえ実の息子である他戸親王も皇太子を廃嫡するだけでなく、2人を殺してしまうと言う挙にでました。
こうして、渡来人の血である山部王を皇太子とし、ここに完全に持統天皇の血筋は消滅してしまいます。
だから、私の奈良時代は井上内親王,他戸親王の死をもって終わりとするのです。
自分の妻子を殺すという挙にでた光仁天皇、さらには実の弟を死に追いやった桓武天皇、ここから怨霊が跋扈する平安時代へと移っていきます。
最初ここまで書き続けるとは思いませんでしたが、結局奈良時代全史を天皇を中心として書いてしまいました。
奈良時代は710年の遷都から始まります。そして天皇は元明天皇。
では元明天皇はどういう人かというところから始まって、天智天皇に行き着きます。
天智天皇の子であり、天武天皇の皇后であった持統天皇が奈良時代の根本でした。
持統天皇が我が子草壁皇子に皇位を譲ろうとしてかなわなかったことから始まります。
やむおえずその子、孫である軽皇子に皇位を継がそうとして、自ら天皇となり軽皇子の成長をまちます。
まだそれほど天皇の権威が強くなかった当時それは容易なことではなかったのですが、ようやく軽皇子の文武天皇が即位します。
ところが病弱であった文武天皇は25歳で亡くなります。
ここから、なんとしても我が血筋に皇位を受け継がせたい持統天皇の執念のリレーが藤原不比等の協力の下
始まります。
不比等は言うまでも無く天智天皇と共に大化の改新をしとげた鎌足の息子です。
壬申の乱でその天智の子、大友皇子の即位を言わば横取りした天武は不比等にとっては不倶戴天の敵でした。
そこで天智の子である持統天皇と、天武の血筋ではなく持統天皇の血筋を守ることによって、利害の一致があって協力関係が生まれます。
こうして、かってない文武天皇から母である元明天皇への譲位が行われました。
そこで天智天皇の不改常典という言葉が登場します。
この言葉によって、天武の即位の不当性が暗に打ち出され、いわば不比等の目的が半ば達成されたのです。
そして、天武が計画した藤原京から、不比等が立案した平城京への遷都が元明天皇によって実現します。
言わば押し付けられた井上皇后、光仁天皇はよっぽど嫌いだったのかもしれません。
でも、子供はできてるのですが・・・
さて、光仁天皇即位の年、右大臣吉備真備は辞職を願い出ます。
はなはだ疲れたということです。
そして翌年、左大臣藤原永手が亡くなります。
称徳天皇から、光仁天皇への言わば引継ぎに功のあった、大臣が2人とも朝廷からいなくなったのです。
そしてその翌年宝亀3年(772)待っていたように、井上皇后を巫蠱の罪により皇后を廃します。
およそ、この巫蠱の罪ははなはだ真偽も怪しくしかも何年も前の話という。
しかも自首してきた裳咋足嶋はむしろ官位を従七位から従五位下にあげられています。
格段の出世と言っていいでしょう。要するによく誣告したと褒められたわけです。
そして5月には他戸親王の皇太子を廃します。その上で先日平成天皇の1300年祭の、お言葉に出てきた高野新笠の子供、山部親王を皇太子とします。
それだけでは、不安だったのでしょうか、光仁天皇の姉難波内親王が没したことも、罪状にあげ2人は殺します。
もちろん、殺したなどとは書いていませんが、幽閉した2人が「並び卒しぬ』と言う記述です
宝亀6年4月27日、母子が同時に死んだということです。いかにも不自然で自殺かあるいは暗殺と考えるのが妥当です。
こうして、吉備真備が苦心して守ろうとした聖武天皇、持統天皇の血筋はここに完全に抹消されます。
私の奈良時代の記述はこれで終わりです。
理由は次回。
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