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今、天皇皇后両陛下が、平城遷都1300年の記念行事への列席のために御来奈されています。

そして昨日その祭典が行われ、陛下のお言葉に光仁天皇、高野新笠という言葉があり、驚くと同時に、納得をしています。

陛下が奈良に来られる時は大体聖武天皇陵を参拝されます。

今回は光仁天皇陵。

今の皇室にとって、ご先祖はまさに光仁天皇そして、その祖父天智天皇なのです。

天武天皇の存在はタブーに近いものです。

歴代の天皇の即位の詔も前に書いたように判で押したように天智天皇が定めたもうた法で始まります。

続日本紀にも天武天皇の事跡に関わる記述はほとんど無いといってよいでしょう。

言わば天武の血筋(、私に言わせれば、実は持統天皇の血筋なのですが)が代々統治した奈良時代は本音で言えば歴史から抹消したいというところでしょう。

そして、実際に天武、持統の血筋を完全に抹消したのが光仁天皇であり、その場から都を移したのが、天武とはまったく縁もゆかりも無い桓武天皇です。

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続日本紀に

  葛城寺の前なるや。豊浦寺の西なるや。 おしとど、おしとど。

  桜井に白壁しずくや。 好き壁しずくや。おしとど、おしとど。

  然して国ぞ昌揺るや。吾家らぞ昌ゆるや。おしとど、おしとど。

白壁しずくは白壁王が沈み、世に隠れている、その「好き壁」が現れたら国も我が家も栄えるのに。

ということで、即位前記にも、「井は内親王の名であり、白壁は天皇の諱である。この歌は光仁天皇が皇位につく徴であった』と書かれている。

実際、多くの諸王が称徳天皇の後継を争う中で消えて行ったわけですから、その通りなのですが、続日本紀はもともと桓武天皇に捧げられた歴史書ですから、父たる光仁天皇の悪いところは書くはずがありません。

だから、白壁王が有能でありながら、身を隠し続けたのか、誰からも担がれなかっただけなのかは、微妙です。

でも、結果天皇の座を得たのですが、前にも書いたように、称徳天皇の意をなるべく取り入れようと、苦心した吉備真備のおかげです。

称徳天皇は自分で天智天皇からの血筋が消えてしまうことはわかっていました。

だから、いっそ道鏡にもと考えたのですが、吉備真備が説得して白壁王を推薦したと考えます。

最初、天武天皇の第4皇子長親王の子である、文屋淨三(臣籍に降下していた智努王)あるいはその弟太市(大市王)を考えていたのですが、

天武の血は流れていても、脈々と受け継がれた、持統の血は消えてしまいます。

そこで、今までライバルとして言わば敵視していた、県犬養広刀自の娘であはるが、いまや唯一聖武天皇の血即ち、持統天皇の血を伝える井上内親王を妃としている白壁王に白羽の矢を立てたのです。

その子、他戸親王を皇太子とし、後継者とすれば持統天皇の血は受け継がれるからです。

しかしこうして即位した白壁王は、吉備真備の真意など、まったく理解していません。

そして妃である井上内親王は、長年酒ばかり飲んで何の働きも無い白壁王を言わば馬鹿にしていました。

そもそもこの結婚は,聖武天皇が蔡王を長年務、婚期をのがした井上親王を哀れんで、白壁王に言わば押し付けたものです。

白壁王にすれば、既に妻子もあるところに上から押し付けられた嫁であるし、井上内親王にすれば文字通り降嫁してきた、格下の婿であったわけです。

ここから悲劇は始まります。

さて最後に井上皇后です。

聖武天皇と県犬養広方自の間にできた長女、前述の不破内親王の姉、安積親王の姉です。

721年に5歳で伊勢の斎王に決められ、11歳の時、基皇子の誕生と同時に出仕します。

言わば体良く追い払われたということです。

その後19年間、伊勢に奉仕。安積親王の死の日退下します。

そのとき既に28歳、その当時としてはとうに適齢期は過ぎています。

結果、いわば押し付ける形で、白壁王の嫁ぎます。

そのとき白壁王は58歳。もちろんその時既に妻も子もあります。

天智天皇の孫王ではありますが、目立たない存在でした。

そして45歳で他部親王を出産。

称徳天皇の死によって、運命が急変します。

白壁王が即位、光仁天皇となり、770年54歳で皇后となります。

ここまでは荒波に玩ばれたような不破内親王に比べればまだ普通といえる人生でしたが、皇后になってしまったことによって、晩年が狂ってしまいます。

今までは言わば夫の陰に隠れた存在だったので、具体的にどう関わったかはわかりませんが、塩焼王が亡くなった後769年には不破内親王自体が罪に問われます。

その結果、京外へ追放され、名前を「厨真人厨女」と改名させられます。要するにはした女という意味です。

息子の氷上志許志麻呂は土佐へと配流されます。

そして共謀者として県犬養県姉女が巫蠱の罪で配流の上同じく名前を犬部姉女と改名させられます。

大体称徳天皇は名前を貶めるのがお気に入りのようで、例の宇佐八幡宮の信託事件でも和気清麻呂の名を穢麻呂と改名さしています。

このように、不破内親王は寡婦となっても罪に問われるのですが、これも後に冤罪とわかりますように、やはり阿部内親王との確執も絡むと思います。

そして、称徳天皇が亡くなり、光仁天皇の代となり771年冤罪が晴れて復位します。

ここで、少し変なのは称徳帝が亡くなって光仁天皇が即位して、要するに姉の井上内親王が皇后になってすぐに許されず、井上内親王が皇后を廃された後、罪を許されている点が妙といえば奇妙です。

井上内親王いやこの時点で皇后と不破内親王の距離感が微妙です。

こうして罪を許された不破内親王ですが、なんとまた782年、息子の川継による謀反に連座して淡路に配流されてしまいます。

こうして、不破内親王の一生は終わります。なんともすさまじい人生といわざる得ません。

さてもう一人の聖武天皇の娘井上内親王はどうだったか?

なまじ聖武天皇の子として生まれ、皇后腹の阿部内親王が皇太子、天皇となったがために、持つべきでない野望を持ってしまった不幸でしょうか。

不破内親王は波乱に飛んだというか不幸な人生をあゆむことになってしまいました。

不破内親王は723年生まれ、井上内親王より6つ、孝謙女帝より5つ下です。

そして739年に16歳で塩焼王と結婚します。

塩焼王は新田部王の子、天武の孫王です。そしてあの皇太子を廃嫡された道祖王の兄です。

ところが結婚して、3年後742年に塩焼王は伊豆に流されます。

理由はよくわかりませんが、1説には紫香楽京に反対したからといわれていますが、私は続日本紀の女儒4人と一緒に拘禁されて平城の牢につながれたという記事が気になります。

女儒とは要するに、はした女、下働きの女性です。

何故女儒4人と一緒につかまったのか?

常識的に考えると、1番考えやすいのが淫らな行為をしたというやつです。

弟の道祖王も廃嫡の理由が「ひそかに待童と姦淫してうんぬん」要するに身持ちが悪いということでしたが、どうもこの兄弟はそう言う方面にだらしないということでしょうか。

さて記事には不和内親王についての記述はありません。普通この時代は家族も同罪で、一緒に配流されるものですが、もし女性関係であれば、内親王はいわば一種の被害者、無事だったかもしれません。

いずれにしろ、結婚してすぐに夫が島流しにあったわけです。

しかし、それで終わりではありません。745年に罪を許されて帰京したのですが、757年奈良麻呂の変に巻き込まれます。

この時は首謀者ではなかったし、新田部親王の血筋を残すためということで言わば処分保留で釈放されます。弟の道祖王は獄死しています。

この時、臣籍の降下して氷上真人と名前を変えています。

せっかくこの時許されたのですが、今度は仲麻呂に担がれて仲麻呂の変では斬殺されてしまいます。

まあつくづく夫運が悪いというか、あるいは不破内親王も一緒になって変に加わることを進めた可能性もあります。

こうして寡婦になった内親王ですが、これで終わりではありません。

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