716年に光明子と首皇子が結婚したあくる年、広刀自が井上内親王を出産します。
下種な表現で言えば新婚のその年、他の女と寝て子供を作ったわけです。
光明子が阿部内親王を産むのはそのあくる年718年。
元明天皇に大切にせよと言われたから、律儀に光明子とも寝た、あるいはお腹が大きいから,やむ終えずなのか、その辺はまあ、わかりませんが、まだ続きがあります。
727年に光明子が其皇子を出産します。そしてまだ1歳の其皇子の立太子という前代未聞のことがあったのですが、728年にその其皇子は亡くなってしまいます。
その年、安積皇子を広刀自が出産します。悲しみにくれる光明子を尻目に、男子が生まれたというわけです。
まあ、これだけ重なると、普通でも意識はしますよね。
光明子は女の意地もあって、これまた前代未聞の女性の皇太子として、我が子、阿部内親王を立てます。
そして、広刀自腹の井上内親王をわずか5歳で伊勢の斎王と決め、11歳で其皇子が生まれた年に伊勢に送ります。
こうなると、どろどろした女の意地という感じがしないでもありませんが、結果、その2人だけでなく、憎しみは子供達にも引き継がれてしまいます。
安積親王は744年、17歳で亡くなります。仲麻呂がその死に関与したとの説もありますが、その辺は謎です。
そして、次の世代として、井上内親王、不破内親王(井上内親王の妹)対、孝謙天皇とい対立が始まります。
ここで少し時代が戻ります。
光明皇后が聖武天皇の妃として迎えられた時、時の元明天皇が、かの不比等の娘であるからくれぐれも粗略にせぬようと首皇子に念を押します。
これは文字通りの功臣不比等の娘だから大切にせよと言う意味ともうひとつ、元明天皇に危惧がったからです。
というのは、県犬養広刀自の存在です。
広刀自は名前から言って三千代の一族です。
当然首皇子の後宮にはいるには三千代の推薦があったというより、一族から選んで後宮に送り込んだと考えられます。
でもそれは多分身の回りを世話する女官としてで、その女官に手をつけたのは首皇子の意思であったとお思います。
広方自がその時、幾つであったかはわかりませんが多分首皇子よりは少し上であった思います。
大体男というものは30代、40代になれば違いますが、思春期特に特に10代であれば、年上の綺麗なお姉さんにあこがれるのは昔も今も変わりないとお思います。
そこで、首皇子がその身近にいた魅力的な女官に惹かれ手をつけた、というのが話の筋だとお思います。
これは三千代にとっては意図したことではなかったはずです。
自らの子、光明子を首皇子嫁あわすのは既定の路線です、にもかかわらず、一族の女をそれより先に送り込むのは不自然です。
というわけで、ここから誤算が始まって後々数々の問題が生じてくるのです。
もっか皇太子がいない、従って次の天皇になるべき人が決まっていない事態です。
しかも称徳天皇は法華寺に籠もって亡くなるまでの100日、太政官の誰とも会おうともしない。
言わば強い男性不信の陥っています。
そこで、側近の吉備由利が真備とのつなぎの役を果たしたと考えられます。
こうして、神護景雲4年(770)53歳の女帝は孤独のうちに世を去ります。
後継者は吉備真備がリ-ダーシップをとって決めたと考えます。
白壁王(709~781)、天智天皇の子施其皇子の子、要するに天智の孫です。
奈良時代はずっと言い続けているように、天武の子ではなく、持統天皇の血筋を守ってきた時代です。
そのために、持統、元明、元正、称徳と女帝が産み続けられました。
そして最後の女帝は、子無きがために、この皇統は堪えることが運命付けられていました。
しかし、ここで真備は最後の手段として、白壁王を選びました。
何故最後の手段化といえば、やむにやまれぬ方法だからです。
そもそも、阿部内親王が女性でありながら初めての皇太子についたのは、光明皇后の聖武天皇に対する意地でした。
もう一人の妻、県犬養広刀自の子に安積親王に皇位が行くことを防ぎたかったからです。
しかし今、持統天皇の思いを伝えるためには、白壁王を皇位に就けるしか道が残されていません。
白壁王は天智の孫だから選ばれたのではなく、井上内親王、聖武の血引く娘を妻としているから選ばれたのです。
この、ブログの最初のほうで、皇位には母系と言う考え方もあると紹介しました。
継体天皇が即位する条件は手白香皇女を妻とする条件がありました。
生まれた子、欽明天皇はようするに継体の子というより、手白香皇女の子、そのことによって正統な天皇となるわけです。
同じことが、今回も求められました、白壁王の妻は聖武天皇の子、井上内親王、2人の間の子は聖武天皇の血を引いた、持統天皇の血筋に繋がると言うことです。
しかし、この苦肉の策はひっくり返されてしまいます。
何故女帝が道鏡に皇位まで譲ろうとしたのか?種々理由はあろうかと思いますが、和気王の叛乱が決め手になった気がします。
奈良麻呂の変、仲麻呂の変で多くの天武の血をひく王達が連座しました。
安宿王、黄文王、道祖王、塩焼王、船親王、池田王そして淳仁帝の大炊王。
そして最後に皇太子にと密かに考えていた和気王の叛乱です。
これで天武、持統の血脈は完全にたたれました。
もちろん称徳帝は子を設けることはできません。
称徳帝は事あるごとに持統天皇から聖武帝に至るまでの繋がりを詔で触れています。
その血が堪えてしまった今、いっそ関係の無い道鏡を帝位に就けてもかまわないと考えたのでしょうか。
道鏡と言う人が実際どれだけ能力があったかわかりません。
しかし統治者となるには決してしてはならないことをしています。このことだけで上に立つ資格がありません。
それは身内の重用です。
弟の弓削清人を大納言。一族から五位以上を10人も取り立てます。
基真と言う親族は法参議大律師に取り立てられ、その行いのあまりに横暴なため流罪になっています。
このように身内でさえあれば能力に関係なく取り立てると言うような行いは最も慎むべき所業ですが、それができない時点で道鏡の程がわかります。
かくしてすべてに絶望した称徳帝は最後にはすべての男性を身の回りから遠ざけます。
その時身の回りを世話したのが、吉備由利という女性です。
吉備真備の娘です。
吉備真備は70歳でようやく中央政界に復帰して右大臣。
地方の豪族から出世して右大臣にまで至ったのは菅原道真とこの真備の2人のみです。
称徳帝の信頼する真備ですがその復帰はあまりにも遅すぎたと言わざる得ないでしょう。
結局、称徳帝の幕引き役を引き受けることになります。
ここで少し年代を整理しておきましょう。
749年 聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位(32歳)。
756年 聖武天皇死亡。(56歳)
757年 橘諸兄死亡(74歳)
橘奈良麻呂の変
758年 光明皇后看護のため孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
760年 光明皇后死亡(60歳)
762年 孝謙上皇が淳仁天皇を非難、政治を2分する。上皇は出家。
764年 仲麻呂(恵美押勝)の乱。仲麻呂死亡(59歳)淳仁天皇淡路へ。この年吉備真備がようやく造東大
寺長官として中央へ復帰(70歳)
765年 和気王謀反死亡。淡路廃帝(淳仁天皇) 逃亡捕らえられて翌日死亡。
道鏡太政大臣禅師に任命
766年 道鏡法王となる。
そして769年宇佐八幡の信託、770年孝謙天皇の病気、死亡。白壁王の皇太子即位と続きます。
孝謙天皇の実質支配は764年の仲麻呂の死から770年までわずか5年余りのことでした。
実際に権力を握り、道鏡を用いて国を治めようとして挫折するまで5年余りだったと言うことです。
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