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コーヒーはその誕生がアラビア、イスラム社会であるが故に、イスラム世界において正当性を確立するまでに多くの困難に遭遇します。
そもそもアラビアには、熱い料理に息を吹きかけて食べることが禁じられていました。
息には生命の息吹が宿っており、むやみに息を吐き出すべきものではないという考えです。
湯気や煙にはそもそも悪魔がこもっているものであり、例えば
「千夜一夜物語」で煙とともに登場するのは大体悪魔です。
そこへもって、コーランには食べてよいもの、悪いものが定められており、炭は食べてならにとになっていました。
こうしたこともあり、人々がコーヒーを飲みながら礼拝することが、目障りで仕方ないと考えた為政者がいても不思議ではありません。
こうやって、必然的というか、コーヒーに対する弾圧が起こりました。
これが、「メッカ事件」です。
メッカの地方長官カイル・ベイが1511年に「コーヒー禁止令」を発布し、厳しい弾圧を行ったのがこれです。
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紅茶とコーヒーの歴史をざっと見てきましたが、コーヒーはイエーメンの聖職者、
紅茶(茶)は仏教の僧侶が修行のための眠気覚ましとして、最初に飲み始めたのは、偶然ではありますが、重大な意味を持っています。
この飲み物が、中国とアラビアという2大文明圏にその起源を持ち、
仏教とイスラムという2大宗教に大きくかかわっているからです。
この宗教、文明圏の違いがこの2つの飲み物の発展に大きく関わって行きます。
ババ・ブータンによって持ち出されたコーヒーの木ですが、もちろんそこから世界中に広がって行ったのですが、決してその道は平坦ではありませんでした。

例えばインドネシアでは最初のコーヒーは洪水などで全滅。
スリランカのコーヒー園はサビ病で全滅、といった具合です。

さて、前に書いたオランダの東インド会社がジャワにコーヒーを伝えたのは1699年。
その成長した苗木が1706年にフランスのルイ14世に献上されました。
やはり厳しい管理下にあったその苗木を1723年に海軍士官ガブリエル・ド・クリュウが苦心の末持ち出し、自分の飲み水を苗木に与えるなどの苦労の末2ヶ月の航海をへて西インド諸島のマルチニーク島へ伝えました。

また1727年にはポルトガルの海軍士官フランシスコ・パリヘタがフランス領ギニアの総督府人と恋に落ち、別れにさいしてこっそりと花束に隠してコーヒーの苗木を忍ばせてくれたという話しもあります。こうして今や世界最大のコーヒー生産国であるブラジルにコーヒーがもたらされたのです。

こうやって色んな伝説を秘めながら世界中にコーヒーが広がっていったのですが、最初にババ・ブータンがアラビアからコーヒーを持ち出したのが1600年。
ブラジルのコーヒーが初めてヨーロッパに登場したのが1818年。
実に200年以上の年月が費えています。
最初のコーヒーハウスの普及が50年足らずに比べると雲泥の差ですね。
これはひとえにコーヒーの栽培、そして収穫に長年の歳月を要するからに他かなりません。
こうして世界中にコーヒーが広まったにもかかわらず、コーヒーの供給はアラビアに限られていました。
今もコーヒーの代名詞であるモカ。
積み出し港は他にもあったが、なぜモカが、モカだけが有名なのか?
これもヨーロッパから見た歴史観といえます。
ようするに、この港だけがイギリス、オランダのヨーロッパの国に開かれていた唯一の港だからです。
さて、こうしてコーヒーの供給を独占していたアラビア、その権益を守るためにもコーヒーの種子、苗の持ち出しを厳しく管理していました。
でも、完璧に制限することは何時の時代でも不可能でしようね。
1600年ごろ、聖地メッカに巡礼にやってきたインド人のババ・ブータンという人が、秘かにコーヒーの苗木を持ち去り、南インドのマイソールの海岸で栽培し、この原木から南インド一帯、やがては西インド諸島まで広まっていきました。
ここからネコババという言葉が生まれました(本気にしないで下さいね)。
ところでこの「カーネス」というのは、本来、居酒屋、宿屋という意味です。
あれ、イスラムは禁酒じゃなかったかな?
そう、しょせん人間は禁止されても、いや禁止されるほど、手を出したくなるなんて古今東西かわりないですよね。
でも、やはり、後ろめたい、それに何時罰せられるかわからない。
でも、居酒屋に人が集うのは、飲みたいだけじゃない。
いろんな人との会話、居心地の良さ、リラックス、息抜き、噂話。
そこで、非合法的なお酒に代わって、公に飲めるコーヒー、コーヒーハウスの登場です。
其処へ、コーヒーを扱う商人たちの思惑も加わります。
要するに、コーヒーの売り込みのための手段としてのコーヒーハウスです。
こうして、瞬く間に数を増やしたコーヒーハウスの存在は西欧の国々にも知られることになります。
1645年にベニスにコーヒーハウスができたのを皮切りに、52年ロンドン、69年パリ、96年にはアメリカのニューヨークにも、あたかも燎原に火が燃え広がるようにあっという間に欧米にまで広がってゆきました。
ロンドンのコーヒーハウスがペニーユニバースティーとして人々の情報交換の場となっていたのは有名な話ですね。
あのロイド保険会社も其処から生まれたとの事です。
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