忍者ブログ
アカダマブログ
[30]  [31]  [32]  [33]  [34]  [35]  [36]  [37]  [38]  [39]  [40
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

1222日(日)には高槻市まで、「中臣鎌足と阿武山古墳」と名ずけられたシンポジウムに行ってきました。

なんと朝9時開場で945分開始。そして終了が1645分という長丁場です。

奈良からざっと2時間、9時に行こうと思えば7時前に家を出なければならず、前日が忘年会ということもあり、私は朝の講演は残念ながら見送り、午後からの参加でした。

基調講演とシンポジウムに顔ぶれは、高槻市立今城塚古代歴史館の今西康宏氏、森田克行氏、日本染織史が専門の河上茂樹氏、元奈文研の猪熊兼勝氏、近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏、難波宮研究の中尾芳治氏、そして古代史の和田翠氏、朝日放送の牟田口氏、司会役でおなじみの水野正好氏と各界の第一人者をそろえたそうそうたる顔触れでした。

観客はざっと500人、なんと朝から通しで聞いている人がほとんどで、結局最後まで帰る人はほとんどなく、考古学というか、歴史好きの人の熱心さには頭が下がりました。

この1日懸りのシンポジウムの中身について、簡単にはまとめられませんが、事実認定の難しさを改めて認識しました。

 昭和9年に京大の地震観測所の工事に伴って偶然発見されたこの古墳から未盗掘の古墳が発見されたことが発端です。

その後、考古学と理学部の間での主導権争い、私の記憶ではその過程で自殺者もでるような大問題となったのですが、そこへ戦前の不敬という考えも立ちはだかり、調査が不十分のまま埋め戻されると言う結果から、未解明の部分が多く残ったことが問題を複雑にしました。

 副葬品の豪華さや、古墳の形態から、被葬者は鎌足ではないかという推論はほぼ、衆目の一致するところですが、決定的な事実はなく、土器の編年や、文献資料はからは多くの疑義が生じ、いまだ決定はなされていない状態です。

従ってシンポジウムも考古学や、副葬品の研究、あるいは文献史学の立場から問題点の指摘があり、結論はもちろん出るものではなく、喧々諤々の議論に終わったということです。

幸い、今日朝日テレビでこの特集が夕方放映されるようで、興味のある方はぜひご覧ください。

ただ私としては、何故この地に鎌足の墓が築かれたとか?いう根本問題についてあまり議論が深まらなかったのが不満でした。
この事についてはいろいろ書きたいことがあるので、もう少しまとめてから次回にでも書きます。























PR

「百舌・古市古墳群について」

今日はアカダマ会の例会でした。

今回は藤井寺市の教育委員会・関西学院大学講師の天野末吉先生においでいただいて、2時間たっぷり少人数でお話を聞かせていただきました。

私たち奈良まほろばソムリエの人間は、どうしても奈良県内の遺跡に目が向き、なかなか他府県の社寺、遺跡までに目が行きとどかないもので、今回はそういう意味でも貴重な体験でした。

「百舌・古市古墳」の特徴として大きく6項目が挙げられます。

1は言うまでもなく、巨大な古墳(全国的に見てベスト10の半分)がこの地域に集中していることです。

いわゆる仁徳陵に比定される大仙陵は全長が486mで第1位。応神陵(誉田御廟山)が425mで第2位。後3位の履中陵、8位の土師ニサンザイ古墳、9位の仲姫陵(ナカツヒメ)等です。

ただ現在カウウント総数は百舌で108基、古市で127基ですが、墳丘が現存しているのは、百舌で43基、古市で44基に過ぎず、このまま放置すればその数はもっと減っていくことが考えられ、其の意味でも世界文化遺産への登録がいそがれるわけです。

第2として、それらの古墳が入念に設計・施行されたものであるという特徴を有しています。

一見大きく違う外形を持つ古墳同士が若干のマイナーチエンジで造られ、円形と2等辺三角形の組み合わせを設計の基本に使い円形への3角形の取り着き度合いを変えることによって印象を変えているのです。

そしてその担い手は、土師氏という土木技術者集団の主導で行われていたであろう事。

3として、巨大で多彩な埴輪の存在が挙げられます。

此の埴輪の生産も土師氏による大量生産にむいた窖窯(あながま)の導入が確認されています。

第4として、実に大量の鉄製品が埋納されていたことも大きな特徴です。

この時代鉄はすべての原材料が輸入品であり鉄製品は貴重品です。

それが惜しげもなく埋納されていた事実は、この勢力が他に隔絶した力を持っていた証左です。

ただそれが雄略大王の活躍したと思われる時代、5世紀の第四四半期を最後に行われなくなっていきます。

おそらくそれは、ことさら鉄製品を誇示する必要性が薄れていった結果と考えられます。

第5番目として、国際色豊かな副葬品

 安閑陵古墳出土のガラス椀は、ウリ2つのガラス椀が正倉院御物に存在する事から、逆に古墳の副葬品であることが疑われる見解がありましたが、近年イランや中国からの出土が報告され5~6世紀の製作であることが明らかになったぐらいの逸品で、正倉院御物と大きさや切子の数まで一致し、同じ型を使って製作されたと推測されます。

その他金銅製竜紋透彫金具2組がよくしられています。

このような国際色豊かな副葬品は時の大王が国際交流を重ねていたことを示します。

第6番目として、築造年代ですが、中心的年代は5世紀であり、この時代は宋書による倭の5王の時代であり、この王達の墳墓の可能性は認められているところです。

以上のように概略ですが、百舌・古市古墳群の重要性は日本史のみならず世界史的に見ても貴重なものであることは明らかです。

今回の話は、以上の内容について逐一詳しく話していただきましたが、なかなかに時間が足らず、この百舌・古市古墳群とヤマト王権との係わりについては話が及びませんでした。

機会があれば是非ともそのあたりのことをもう少し掘り下げて話を聞かせていただきたいものです。

 

本日は、世界遺産の国宝元興寺禅室で、「第23回全国かるた競技奈良大会」が行われました。
全国で数多くの大会がある中で、国宝建造物で行われる大会は唯一この奈良大会のみです。
今日はA級のみ。A級と言うのは全日本かるた協会の4段以上の選手を指します。

かるた競技の段位と言うのは、基本的にはこういった各地で行われる全国大会に出場して、まずはD級から、そこで3位以内の入賞すれば、初段、次にC級で出場して同じく3位以内で2段。
次にはB級で3位以内で3段と、順次段位を上げていくものです。

本日のA級はB級で優勝するか準優勝2回以上のものが初めて4段をもらえ。その4段以上の者のみが出場するという大会です。

こう書けば以下に今日の大会に出場するまでのハードルが高いか一端は理解いただけたかと思います。


こうしたA級選手のみの大会ですから、その服装も男女とも和装が原則とされます。

きょうも朝10時に試合が始まり、7時ごろまで延々と試合が勝ち抜き戦で行われます。

まさに体力と、知力を尽くした大会です。

B級以下の試合は年が変わって来年2月に別途行われ、合計で300名を越る出場者となります。
したがって、会場も武道場の500畳を超す広い会場で熱戦が繰り広げられ、下は幼稚園児から上は70才超える老若男女が参加して行われます。

漫画「ちはやふる」の影響で近年出場者はうなぎ上りに増え、各地で会場の確保に追われています。
縁のないものには知られていない、熱い闘いです。機会があればぜひ1度見学においでください。

「奈良学」の提唱者である青山 茂さんが、お亡くなりになりました。

帝塚山短期大学名誉教授 青山 茂(あおやま・しげる)氏が116日(水)午前9時55分、肺炎のため、逝去されましたので、お知らせします。
大正131924)年59日生、 享年89歳でした。

個人的には、毎日新聞奈良支局在任中、毎日のように、アカダマに顔を出し、当時小学生だった私のキャッチボールの相手をしていただいていたのがついこの間のように感じられます。御冥福をお祈りいたします。

 旧制郡山中学、旧制松山高等学校文科を経て、昭和23年京都大学法学部卒業。
昭和25年 毎日新聞社奈良支局美術文化担当記者、大阪本社学芸部副部長、編集局部長を経て退社、昭和51年 帝塚山短期大学教授、平成7年 帝塚山短期大学名誉教授。
専門分野: 日本文化史
主要著書:
「斑鳩の匠 宮大工三代」(徳間書店)、「大和歴史散策」1~4(保育社)、
「正倉院の匠たち」(草思社)、「奈良の街道筋」(草思社)、
「『奈良学』あるいは『大和学』についての序説」(帝塚山大学奈良学総合文化研究所) 他 多数

通夜、葬儀および告別式の日程は、次のとおりです(仏式)。

通夜:118日(金)19時~
葬儀および告別式:119日(土)11時~
場所:ならやま会館(奈良市佐保台1 丁目3574-4 TEL0742-71-4200
喪主:青山 哲也 様(続柄:故人の長男)




同志社墓地は若王子神社を通って、山頂にある同志社関係者の墓地です。
そこには新島穣を始め、八重、山本覚馬、徳蘇峰等が眠っています。
テレビドラマの「八重の桜」が放映されて以来、訪れる人が増えています。
私も恥ずかしながら、在校時にはお参りせず、ようやく卒業以来50年近くたって初めて参拝しました。場所は南禅寺の近くで、このあたりには、ほかに幕末会津藩主、松平容保が本陣を置いた寺、金戒光明寺、その横には会津墓地があり、八重の弟三郎を始め戊辰戦争で戦死した会津藩士の名を刻んだ墓碑が並んでいます。
今回、大学のサークルのOB会が催され、この機会にようやく参拝を果たしました。 1962年入学組から、1976年入学のOBの他現役生も2名参加してくれて、総勢40名ほど、それにしても大学時代の仲間と言うのは、本当に良いものです。何十年ぶりに会っても、すぐ気分は学生時代に戻ります。愉快な1日でした。あくる日は新島穣の旧邸見学、テレビで目下放映中の同志社英学校の舞台でもあります
PR
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[04/21 あき]
[12/09 宮前 英明]
[06/28 大石孝]
[11/08 千鳥祐宣]
[08/10 こちずふぁん]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
マスター
性別:
男性
趣味:
歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
バーコード
ブログ内検索
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog
Graphics by 写真素材Kun * Material by Gingham * Template by Kaie
忍者ブログ [PR]