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伊勢神宮の創設に関しては種々説があります。
成立時期に関しても3世紀から7世紀。
起源も、もとは地域的な神であったとか、太陽神であるとか、
もとから天皇家の皇祖神であったと言う説から百家争鳴状態です。
しかも進歩しているというより、停滞していると言える状態です。
それというのも、伊勢神宮の創設に関する文献資料は
奈良時代以前はほとんどなく、『日本書紀』が唯一とも言えるからです
(古事記にはほとんど記述がない)。
 
垂仁天皇25年紀に天照大神を豊鋤入姫命よりは離なち祀りて、
倭姫命に託けたまふ。
 
爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、兎田の筏幡に詣る・・
 
『日本書紀』に書かれた倭姫命の巡幸伝承ですが古代においては
神が動くと言うのは異例のことです。
 
アマテラスは宮中で祀られていたが、崇神記に豊鍬入姫命という皇女により
 倭の笠縫村で祀られ、さらに垂仁紀に同じく皇女の倭姫命により、
 伊賀、近江、美濃、伊勢と巡って最後に
「この神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国、うまし国なり
」という神託でこの地に留まったといいます。
 
神は本来磐座であったりヒモロギに降りるモノであり、
動くものではないからです。
 
『日本書紀』が何故アマテラスを「移動する神」としたのかも謎です。
 
古代においては神は動かしがたいもので、土地一体化したものです。
弥生時代に至ってはおさら農業神としての性格を強め、
今に至るまで、神祀りは農業と深く結び付いています。
農業は土地との結びつきは動かしがたいもので、
したがって神もその場所で祀ることが意義あることでした。
 
一方、弥生時代にも神の依りしろとして鏡、剣等の呪具が神聖な
宝器としてあります。
但しこれらの宝器は特定の個人と係わり、継承されるのもではなかったようです。
 
従ってその個人の死があれば副葬品として一緒に埋葬されその意識は5~6世紀まで継承されていました。
 
アマテラスは天孫降臨の時。オシホミミに鏡を授け、この鏡を私と思い同じ床で祀れと言い、その後ニニギが生まれ、ニニギに託されます。

氷室神社のしだれ桜が咲き始めました。明日あさってが雨とか、もう少し持てばいいのですが・・・
 
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 先日3月24日に伊勢神宮に参拝しました。
 遷宮直後に比べれば大分人でも減ったようですが、
 まだまだ団体の人も多く、大賑わいです。

あくる日25日に、天皇皇后両陛下の参拝があり,
  警官の姿が多く目に着いたのですが、遷宮直後でもあり

こんなものかなとも思っていたのが、直前警備だった

ようです。

  バスの運転手が普段はこんなことがないのに

われわれの帰りまで待機するのに駐車場を回航させられて、

遠くまで行かされたとぼやいていたのもうなずけました。
 
前から予定していた日取りですが、1日ずれていたら

大変だったでしょう。
 
  

さて今回の両陛下の参拝には20年ぶりに、 

3種の神器も同道したとのこと、ご承知のように、

鏡、剣、勾玉ですが、その鏡はアマテラスが天孫降臨の時、

オシホミミに鏡を授け、その後ニニギに託されます。
 

その後伊勢に移され伊勢神宮の御本体となったものです。

 この鏡が本体であることが、伊勢神宮についての伝承に
  大きく影響します。

アカダマ会では次回の講師に伊勢から穂積裕昌さんをお迎えします。

穂積さんは同志社大学出身の文学博士で『古墳時代の喪葬と祭祀』

『伊勢神宮の考古学』という著書もあります。

 それもあり最近は、伊勢神宮に関しての本を読んでいます。

 伊勢神宮について、一番大きな疑問は、何故大和朝廷の祖神である天照を祀る
 神社が伊勢なのか?と言うことだと思います。

 なにせ神話の時代の話、確とした話は難しいのですが、
 少しづつ書いていこうかと思います。

 

 

  それでは靖国神社に祀られる神様は、どういう神様なのでしょうか?

靖国神社は明治天皇が明治2年国家のために一命を捧げた人々の名を後世に伝え、

  その御霊を慰めるためと創建された「招魂社」を起源とし、

明治12年(1879)に社号が「靖国神社」と改められたものです。

靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、

近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、

明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった

歴史的に著名な幕末の志士達、

  さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・

 
大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や 戦争に際して

  国家防衛のために亡くなられた方々、さらには軍人ばかりでなく、

  戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、

 学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など軍属

 ・文官・民間の方々も含まれており、

 その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者や

 シベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、

 大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの

 2466千余柱の神霊が祀られています。

このように、靖国神社は、明治になって造られた新しい神社ではありますが、

 そこに祀られた神は、
他の近世になって造られた神社のように、

所謂皇国史観に基づいた万系一世の天皇の祖先神、

 あるいは天皇を祀った神社ではなく、

  記紀神話以降の皇室に連なる神々の系譜に基づく神々でもありません。

他の神社の有り様とは全く違った祖国のために
 身命をささげた人々の御靈を慰霊するための施設です。

 

祭神には一定の名前はなく、身分・勲功・男女の区別なく、
 祖国を守るという公務に起因して亡くなられすべての日本人(本来の国籍に関係なく)
 の尊い神霊が一律平等に靖国の大神として祀られているのです。

 

この大神という言い方は、古くからある多くの神社でも用いられています。

例えば春日大社では春日の大神。

出雲では出雲の大神。

鹿島では鹿島の大神という名で、その神社に祀られる神々を、個々の名前でなく表します。

祝詞の一節にも「産土の大神、天つ神、国つ神八百万の大神」とあるように神前で、

すべての神々を抱合した大神として拝礼するものです。

そこに含まれる個々の御靈をことさら別個に取り出してやれA級戦犯だどうだこうだと言うの

 は、
日本の神の在りように対する無知からくるものです。

一人一人が参拝にあたり心に浮かべるのが、

 それぞれの家族であったり親族友人であるのは、
それぞれが参拝にあたっての

 心の中の思いです。

東京では、何故か大正になってできた明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮に

 日本で一番多くの初詣客がありますが、日本人なら、せめて年に一度は、

 今日の日本の礎となった人々を祀る靖国神社に参拝したいものです。

まして首相ならお参りするのは当然のことですが、

 総理の靖国参拝について巷で間違った認識が流布していますので書いておきます。

靖国神社は日本国のため、その尊い命を捧げられた幕末から戦後までのすべての人を

 一律平等に靖国の大神としてお祀りする施設です。

決して第2次大戦に係わった人だけを別個に祀ったわけではありません。

その中で戦後、総理が靖国に参拝する意味は、
 
 一般人が参拝する意味とは少し違います。

戦前、国は、国民を戦地に送り込むに当たって、

死ねば国が責任を以って靖国にお祀りすると国民に対して約束をしました。

多くの人々が「靖国で会おう」と、その約束を信じてその尊い命を捧げました。

いかに体制が変わろうとも、靖国に参拝して、

その尊い犠牲に対して崇敬と感謝の念を首相が国を代表して示すのは

 首相個人の思いだからではなく国家の代表としての首相の義務であり、

 宗教以前の礼節・信義の問題です。

礼節は言うまでもなく、中国が生み、いまなお韓国で重んじられる孔子の教えにある
 五常
(仁、義、礼、智、信)の最も重要な徳目です。

むしろ参拝しない総理は日本の為政者として無責任を責められるべきものです。

それだけに中・韓という孔子の教えを知る国が靖国参拝を批判するのは

礼節を書いた行為と言わざるをえません。

戦略的な観点から靖国を取り上げる中国。その尻馬に乗っているだけの韓国は別として、

アメリカが第二次世界大戦に絡めて、同盟国である日本の宗教・

 文化に根差した日本国の日本国民に対する義務である首相の靖国参拝に対し、
 
 歴史的・宗教的意味の理解もなく口をはさむべきことではありません。

それでなくても今、世界の警察を、放棄したことを自ら表明したアメリカの威信は

 戦後最低と言っていいほど地に落ちています。

プーチンのロシアに、はっきりと見くびられ、シリア問題、ウクライナ問題でもまったく何の
 
 行動もとれません。

世界のパワーバランスが崩れようとしているこの時期に、
 
 世界で今や唯一と言っていい忠実な同盟国である日本の首相の
 
 政治的な意図の全くない国内行為に口出しし、日中間の摩擦をことさら煽り、
  
 日本のアメリカに対する信頼を損ねる愚かな行為を重ねることは、

 アメリカのみならず世界の安定と平和にとって決してプラスになることではありません。

 この稿終わり。

 

 

こういった神様の交代が一斉に行われたわけではありません。

画期となった時期は大きく2回あります。

1回目は言うまでもなく、記紀神話が形成された時期です。

記紀は天武・持統朝のころに形作られたと考えられていますが、
 それ以前の数百年にわたって言い伝えられていた民間神話の集大成が記紀です。

そしてそこでは皇室の正統性、万系一系の皇室史観が語られています。

そして神社の神々も、その歴史観の中に組み入れられ、
  いわば民間伝承の神々は片隅に追いやられます。

中臣の大祓いの祝詞に、皇祖神が八百万の神々と議り、国中の荒振神々を払い、
  磐根、樹根立草の言問うのを止めさせたと書いてあるのがこれです。

『日本書紀』神代下

 「然も彼の地に、多に(ほたる)()(かがや)く神、及び蠅声(さばえ)す邪しき神有り。
 復草木
(ことごと)くに能く言語(ものいうこと)()り。

  故、高皇産霊尊、八十諸神を召して集へて、問ひて曰く、
  「吾、葦原中国の邪しき鬼を撥ひ平らけしむと欲ふ。・・・・」

このように、先住の神を「邪しき鬼」呼ばわりし、

「二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて 皆已に平けぬ。

 其の不服はぬ者は、惟星の神香香背男のみ。」

「邪神及び草木石の類」は神であったのに、

不服従の故をもって誅戮の対象とされ、

天つ神による国つ神の平定が語られます。

荒ぶる神、岩根、樹木、草の葉も言語うことを

やめさせられます。国つ神の零落です。

このようにして天つ神が国つ神にとって代わり神々も律令体制に組み込まれて行き、

神々にも自分らの祖先神をあてはめて名前をつけていきます。

山や石や水など自然そのものを対象としての信仰は、姿を消し、

皇祖神に連ならない八百万の神々は

言わばリストラされてしまったわけです

だからと言って消滅したわけではりません。

それぞれの地の神々が、記紀神話の神々の中へ取り入れられて行きました。

 当初単なる畏敬の対象であった太陽は「天照大神」となりました。

おそろしい雷は「武甕槌神」と名前を変えます。

 自然現象も古事記の八俣のオロチの話は、土石流、
    あるいは溶岩流の経験を語り継いだもの
と考えられます。

このように、古来語り継いでこられた、神々・伝承も、
  記紀神話に取り込んでいったのです。

2回目は江戸時代から明治にかけてです。

江戸時代中期の歌学者契沖が創始したとされる国学が江戸時代後期の平田篤胤に至って、

復古神道など宗教色を強め、やがて、賀茂真淵は、契沖と荷田春満の国学を

体系化して学問として完成させ、
 
真淵門人である本居宣長等を経て 明治維新の思想的礎となり、
 
それが明治期の国家神道へとなっていきました。

そこでさらに、神社はアマテラス、ツクヨミ、スサノヲを祀る伊勢神宮を頂点に

明治政府によって国家神道に基づく系列化がはかられ祭神の調節も行われました。

また経費節減のため、1906年の勅令によって

神社合祀政策がとられ、全国で1914年までに
  約
20万社あった神社の7万社が取り壊された結果、
 
神社の数は神社本庁所属社で7万8千余社。

推定でそれ以外を含めて12万となりました。

その中で、古代からある社として

『延喜式』記載の社3千百32座。

これは座数で社の数は2800社ぐらい。

それ以外にも4,5百社。

合わせて3千2,3百社が古くからの社です。

天皇や臣下を祀った社は

古い時代にはなかったものです。
 

例えば菅原道真を祀った天満宮は平安時代以降。

天満とは、恨みが天に満ちる怨霊思想であり、

仏教と神道の混淆によって生まれたものです。

また江戸時代には徳川家康を祀った東照宮。

明治以降にできた社では湊川神社、四条畷神社。

天皇を祭神にした、明治神宮、近江神宮、平安神宮、橿原神宮などがあります。

 神社は当初は、所謂、天神地祇、霊を祀ったものでしたが、
  やがて記紀神話の基づく神々がその主役となり、神道と呼ばれる時代には、
  天皇や忠臣、また恨みを含んだ怨霊などが祭られていきました。

 このように、神社に祀られる神は、長い年月の間、時代とともにその性質を変えてきました。

最初は山や石や水など自然そのものを対象とした神でした。

古墳時代には、首長の霊も神として祀られるようになりました。

これらは国つ神と言えます。

そして、律令体制の整備とともに、記紀神話に登場する神々が天つ神として登場します。

そして江戸時代の国学から明治以降神道と変わる過程で、
 皇祖神、天皇が神に加わって行きます。

神社と神様と靖国3
 

神社には当然、神様が祀られていると皆考えていますが、正確に言うと、
 そうではありません。

神社は「カミのヤシロ」と読めます。

ヤは屋であり建物です。シロは依りしろであり、神そのものではなく、
  影向の松のように神さまが下りてこられるための「依りしろ」です。

古代に於いては、ヤシロは神が降臨する場所を常緑樹で囲うだけで、
  祭りが終わると即刻、取り壊すのが常例でした。


    後に祭場に仮小屋を建てるようになりましたが、
    それも祭りの直後には取り壊していました。

  やがて仮小屋を、そのまま残しておくようになったのがヤシロの原型で、
    時代を経るに従って
仏教寺院の影響もあり
    次第に永久的建造物としての神殿の建造が求められるようになって
    神社となったと考えられます。

いずれにしろ、神社は「千の風」で歌われたのと同じで、
  神は常住されているのではなく、呼びかけに対して降りてこられる場所というわけです。


      「大神宮御祭日よめる」という西行法師の歌があります。


 何事のおはしますをば しらねども

     かたじけなさの なみだこぼるる

西行法師ほどの方が、伊勢に祀られている神について知らなかったわけはありませんが、
  この歌でよく解るように、その実像は良く解らないけれど、
  有り難いものだと言うのが、神社とそこに祀られた神への
 普通の理解であるということを示しています。

このように、古来日本人にとっては、神社は、そこに祀られている神様の名前はさほど重要でなく、それぞれの心になかで思い浮かぶ神様を拝礼する時に念じながら拝む場所と言う理解で良いと思います。

 最初それぞれの神社には特定の名前を持った祭神が祭られていたわけではありません。

「出雲風土記」によれば、神祇官社184の中25、
 非神祇官社215の中3しか祭神が記されていません。
「延喜式」の神名帳では、およそ64%が祭神不明なのです。

今、神社に行けば、必ずと言っていいほど、祭神が書かれています。

その神々の名前は、ほとんどが皇統に繋がる記紀神話に登場する神々です。

例えば、代表が伊勢神宮の天照大神。

熱田神宮は、神話に登場する草薙ぎの剱。

出雲大社は、皇統ではないですが、神話の大国主命。

そして、かっては違う神が祭神であったと思える神社でも,
 記紀に登場する神に代えられています。

例えば、富士山にある本宮浅間大社、浅間は固有名詞ではなく、
形の秀麗な高い神の宿る山を浅間といって、各地に浅間山があります。

この場合、山自体が神様です。ですから本来名前はありませんでした。

ところが、今では祭神があります。

木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の奥さんです。

奈良市の柳生の天岩立神社の本来の神さまは岩神(いわがみ)です。

 岩自体が神様です。ですからやはり、本来名前はありませんでした。

 でも今は名前がつけられています。

前立磐は豊磐牖命(とよいわまどのみこと)
後立磐は
櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)
前伏磐は天岩戸別命(あまのいわとわけのみこと)

こう云った名前は古事記の神話に出てくる神々で、
 この岩も、天之岩戸が飛んできたものとか言われて、
 記紀神話に結び付けられています。

このように、神社に祀られている神様は時代につれて替わっています。

 

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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