何故いわば傍流、本来皇位の望みの全くなかった白壁王が天皇になったか?
もちろん、天武天皇の皇子達がこの時点ではほとんどいなくなった、さらに天智天皇も基本的に男児が少なかったという事情があります。
これは皇位の継承を、男系でのみ見た場合です。
しかし、この男系相続もけっして古来から伝統ではありません。
あの継体天皇は、任賢天皇が亡くなった後、男系の皇統が途絶えそうになったことから実現しました。
そこで皇嗣を探して仲哀天皇5世の孫という倭彦王を探し出しますがうまくいかず、次いで応神天皇5世王の子である男大迹王を迎えようとします。
5世の孫でも皇族と言えるかどうか微妙なところですが、他に人がいないのだから仕方なく擁立するわけですが、そこで出てきたのが確かな皇嗣を得るため仁賢天皇の娘である手白香皇女を后として迎えることを条件とすることです。
産まれた子は継体天皇の子であるより、任賢天皇の子である手白香皇女の子であることにより、仁賢天皇の孫として皇統は守られるわけです。つまり男系の女子⇒女系の男子と言う継承が成立します。
白壁王の即位について書くため長々と書いてきたわけですがそこで白壁王の即位のケースが出てきます。
さて、話は換わりますが、志貴の皇子とは天智天皇の孫王で、その子白壁王は62歳という年齢で即位し、光仁天皇となります。
773年山部親王が皇太子につき781年、山部親王が即位し、桓武天皇となります。
784年にはその桓武天皇が長岡京に遷都。794年には平安京への遷都となります。
何もここで、歴史のおさらいをするわけではありませんが、こういったことから要するに一般的には、天武系の血統が途絶え、平安時代は天智系に移り、奈良時代は天武系と言われます。
こう云った言い方は、私はかねてそれは少し違うと前から思っています。
なるほど表面的には確かに奈良時代は天武系血筋が次々皇位についたようにも見えます。
しかし、天武天皇の長男は高市の皇子です。
しかも高市皇子は壬申の乱の時19歳。草壁皇子は11歳、大津皇子は10歳、要するに父天武を助けられるのは高市皇子だけでした。
そして高市皇子は勇敢でした。戦いの中にあっては、父天武を助け励ましさえしています。
その人柄、能力も周知の事実です。
のちには太政大臣となりその実力は死後「後皇子命」と言う尊号を奉られていることからもうかがい知れます。
ただ、高市皇子の母が尼子娘(尼子の郎女)胸方君徳善の娘と言う地方豪族の出であり、それ故、皇位に着く可能性は低かったことは事実です。
ですから長男である高市皇子が皇太子とならなかったからと言って、これはこれで納得はできます。
しかし大津の皇子は違います。文武両道に秀で人望もすこぶる高かったと言われています。母は天智天皇の娘大田皇女。妹が鵜野讃良皇女、後の持統天皇です。
その持統天皇が生んだ草壁皇子より1歳年長、誰が見ても天武の血筋を継ぐという意味では大津皇子に分があります。
しかし結果はご存知の通り、悲劇的な運命です。
要するに持統天皇が我が子に皇位を継がせたいという執念の前に、滅ばざるを得なかったわけですが、これでおわかりのように、決して天武の血筋と言うわけでなく、持統の血筋が優先されたわけです。
その草壁皇子が若くして亡くなった後、持統天皇が即位します。その後は草壁皇子の子でもである文武天皇の即位。言うまでもなく持統の血筋を守るためです。
その後も続きます。その文武がなくなった後は女帝をはさんで、その子である聖武天皇にいわば無理やり引き継がれていきます。
ひたすら持統天皇の血筋へと皇統はは受け継がれます。決して天武の血筋が優先されたわけではありません。
ところがこうして必死に受け継いだ持統の血筋が、聖武天皇で途絶えてしまいます。
男子が生まれなかったあるいは早くに亡くなった結果、あろうことか聖武天皇の子阿倍内親王が独身のまま女性として初めて皇太子となります。未婚ですから、当然子が生まれる可能性は全くありません。
これでまさにジエンドです。持統天皇の願いがこの考謙女帝の即位で断ち切らてしまいます。
奈良時代が天武系の時代であるという言い方に私が異を唱える理由はお分かり頂けると思います。
天武系ではなく持統系の時代であるという言い方が正しいと考える次第です。
これを書くと長くなるので、もうくだくだ書きませんが持統天皇の血筋だけでなく藤原氏の血筋もこの皇位の継承には、関わります。
一応これで終わりですがが、ここでまだ少し続きがあります。
何故いわば傍流、本来皇位の望みの全くなかった白壁王が天皇になったか?
今回のテーマは「東大寺山堺四至図」を見ながら、そこから浮かび上がる疑問点などについて、講師の松田さんより最初にお話がありました。
資料としては奈良女子大学所蔵、摸本。奈良市史掲載の釈文、「春日野の神地と氷池」大宮守友『奈良氷室』NO。5等を参考にしました。
この会は一方的な講演では決してなく、何時も徹底した質疑応答に時間をとり、話を進めていくのが大きな特徴です。
今回の中心はここに記載された「神地」の解釈についてです。
たたき台としては。私の卒業論文「春日社成立の諸事情」でとりあげた神地の解釈。
春日社の社殿成立前の、原春日社。がそこにあった。
こう云ったことを討議しました。
ようするに現在、春日若宮おん祭りのお旅所に見られるように、区切られた神域があり、祭儀にあたって社が作られ、それが終わればまた取り壊されるような、神聖な区画の空地(建物はない)であろう。
あるいは。氷室神社宮司の大宮守人さんの説で氷室神社の旧社地とも。
昭和52年に春日顕彰会より発行された『春日大社奈良朝築地遺構発掘調査報告書』記載の築地はそれを取り囲む築地であろうということの解釈を巡ってです。
松田先生からは、志貴の皇子が追贈された称号春日宮天皇に注目して、この皇子の皇子宮の可能性についての提案がありました。現在の白毫寺がその場所か
もうひとつ聖武天皇の高円離宮(万葉集巻20-4506~4510)の歌謡に読まれている。と言った可能性について。解明にはまだまだ調査が必要である。
この稿続く
この会は、「奈良まほろばソムリエ検定」のソムリエ合格者で古代史について語り合うための任意の親睦と交流の集いです。
ですから、会則と言った類の規則も何もありません。
NPO法人の「奈良まほろばソムリエの会」とは何の関係もありません。
そもそも、古代史というのは、歴史的資料が乏しく、ある以上の事は仮説を建てて進む以外方法がない場合が多いものです。
だからこそ、例えば邪馬台国論争のように、あれだけ多くの人々の間で喧々諤々の論争が未だに繰り広げられているのです。
それぞれが自分なりに考え、資料を集め仮説をたて自説を展開する。しかし結論は出ない。
それが逆に古代史の魅力かもしれません。
そういった人たちが集い議論をし、時には講師を招き知識を吸収する。
それがアカダマ会です。早いもので、もう始まって2年以上続いています。
私の場合、この古代史に興味を持ったのは、梅原猛氏の著作を通じてです。
法隆寺創立の謎に迫る「隠された十字架」。
柿本人麻呂論の「水底の歌」「万葉を考える」で万葉集について、
「神々の流竄」で、神話に登場する神々について、歴史は確定した事実を学ぶだけのものと考えていた私の考えを根底から覆し、歴史と言うものは見方を変えればこんなにも面白いものだと教えてくれた著作の数々です。
もう一人名前をあげれば橋本治氏の「院政の日本人」「権力の日本人」これらの本も改めて歴史は個々の人対の葛藤の月匡根であることを認識させる上で、私に多大の影響を与えたものです。
前置きが長くなりましたが、私と同じように歴史の魅力に取りつかれた人が、奈良まほろばソムリエの中に多くいます。そうした人たちがお互いの歴史に対する認識をぶつけ合い時には議論する機会としてのアカダマ会が昨日もありました。
私にとっては入院後初めての外出でしたが、やはり共通の土台を持った人々との語らいは実に楽しい時間でした。
内容については、日を改めますが、春日大社の歴史についてのシリーズの第2回目で、次会でとりあえず終了です。
それでは結局、中臣氏の出自は、どこかという話ですが、出自と言う時点を何処にするかも問題です。
私の姓の出自は京都府の綾部市です。そこには同姓が今もたくさんいます。
ですから、出自は綾部でいいかと言うと綾部にいるのは、祖先が戦国時代の少し前からそこに居を構え本拠とし、大阪の夏冬の陣で豊臣方につき、負けた結果武士を捨て土着した結果です。
それ以前は菅原姓で、朝廷につかえていましたから京にいました。
その菅原は、今も奈良に地名がある菅原村が出自のようです。そのまた以前はと言えば土師氏から別れています。
土師氏と言えば野見宿禰を祖とします。その宿禰は出雲出身と言われています。
このように、私の家一つをとってもその出自を何処というのは、何を基準とするかで変わります。
中臣氏の場合も同じで、豊国にもそのルーツらしきものがあり、河内にもあり、常陸にもあります。
ただ藤原氏で言えば、ルーツは飛鳥、大原と言えます。
そもそも藤原と言う姓は、飛鳥・大原の地が藤井ヶ原と呼ばれていたことに由来します。
『大和志』高市郡の項に 「大原 大原村一名藤原。又名藤井原」とあります。
橘 守部の『万葉集檜嬬手』に
「往古藤井と云う名水あり。清水の上に松栢掩ひたるに、大なる藤はひかかりて日の影を見ざりければ、水無月の望にも歯にしむばかりなりき。其の藤の古株、鷺栖ノ杜の傍に近来までも遺りてありと云々」
ここに書かれた「鷺栖ノ杜」は、「飛鳥座神社」のある鳥形山の東隣にあった
鷺栖神社で、現在は茶畑と稲田になっているが、かっては飛鳥座神社の社地とほぼ同じくらいであったといいます。
そしてその鷺栖神社の社地の東端に鎌足誕生堂(大原神社)に接して藤の木があって、その側に「藤井」と称せられる名水があったところから、この地を「藤井ヶ原」略して「藤原」と呼んだということです。現在も野井戸があるとのことです。
中臣鎌足はその地で産まれ、天智天皇に死の直前、天智8年(669)10月、「大職冠」と「大臣」の称号とともに、地名に基づき藤原と言う姓を与えられます。
ただ木の又から出てきたわけではないですから、その親はと言えば、おそらく河内出身で、中臣氏系図にある、最初の中臣黒田は河内から身をおこしたのでしょう。
但し、「おそらく常陸から河内にでてきたのであろう。」と言うのが、私が導き出した結論です。
それ以前の中臣氏が何処から来たのかは、現時点では不明です。そして何より、中臣氏と言う氏族がどれぐらい遡れるかも確定できません。
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