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昨日は春日大社で、中野権禰宜の「春日の神様の旧鎮座地を探る」
と言う題で講演がありました。

会場では、ソムリエの仲間の人に2名出会い、帰り路では、
アカダマの常連客で東京から何時も来ていただいていた方に、
ひょっこり出会うと言う、やはり出歩くと人にも逢うという実感をしました。

それはさておき、『古社記』の記述にある鹿島からの遷座の経路の話ですが、
最初に安倍山へ神様が到着されます。

論文ではこの事にはあまり触れませんでした。それと言うのも、
論文では単なる伝承を取り上げるわけにはいかないという事情があります。

で、論文では春日の地は古代では、和邇氏、春日氏あるいは、

安倍氏が支配していたとのみ書きましたが、榎本神社と土地交換の伝説。

春日の神様が、土地を3尺だけ貸してくれといって、耳の遠い榎本神社の神様から、

春日の地を全部借り上げてしまったと言った昔話。

あるいは東大寺要録に書かれた、春日山にあったという安倍氏社。

また、破石の伝説で、土地の境界石として、阿部氏、藤原氏、
吉備氏の境界を表すと言った話から、色濃く春日の地における安倍氏の存在がうかがえます。

ですから、文献には現れませんが、平城京が築かれる直前の春日の地の支配者は、
おそらく安倍氏であった。

そして言わば安倍氏は立ち退かされて、平城京が造られた。

そのことが、榎本神社と土地交換の話、鹿島の神が最初に奈良の安倍山に遷座された話へと
つながると考えられます。

このことは造平城京司の長官が、阿部宿奈麻呂であることからも推察されます。

ちなみに次官に、春日臣系の小野朝臣広人、同馬飼が任命されているのも、
この春日の地にゆかりのある人を任命したのであろうことが推察されます。
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中臣氏系図では第6代、時には11代と書かれている

雷大臣は多くの子孫と称する一族を持つ人物です。
『新撰姓氏録』
中臣志斐連 天児屋根の11世孫、雷大臣命の男
中臣連      “        ” の後
中臣栗原連     “       ”
壱岐直       “       ”
神奴連       〝       “
生田首      “        ”
津島直      “        ”
呉公         13世孫   ”
三間名公 仲臣 雷大臣命の後
竹原連  新羅国阿羅々国主の弟、伊賀都君の後
このように多くの出自を雷大臣にする氏族があり、

 この雷大臣は、ただならぬ宗教性を感じ、神か人か定か

 ではありません。

 そしてこの場合、天児屋根命がむしろ、第二次的に

 雷大臣を修飾する形で扱われているとさえ思われます。
つまり、雷大臣が媒体となって天児屋根命が祖神として

 祀られるようになったのではないか、この雷大臣がこそが逆に、

 イカツオミが雷そのものであり、農耕祭祀の中心をなす天神として、

 タケミカズチという神格が生じたという説もあります。

  五世紀の允尭天皇の舎人として、おなじ中臣鳥賊津使主

 と言う人物がいます。
皇后の妹である衣通姫に允暁天皇が思いを寄せ、
  
 姉を気遣って参上しようとしない姫を説得して、

 七日間その庭に伏して頑張った熱意にほだされて、

 皇居に向かうわけですが、途中

 『倭の春日に到りて、櫟井の上に食(かれひく)ふ。

 弟姫,親ら酒を使主に賜ひて、その意を慰む』

 と『日本書紀』書かれた人物です。
中臣氏と春日との関係も表していますが、

 中臣氏が「ひめ」を詔喚し出現さす宗教的威力を持つ

 祭礼氏族として、さらには神人共食の類型ともいえます。
さらにこの「いかつおみ」が媛神信仰を生じ占める役割を果たし、

 そこに春日の第四神比売神に結び付くとい説もあります。
このことは、春日、鹿島、香取の祭礼の主体に女性祭礼が

 継承されていることに結び付くと考えられます。
仲哀天皇と允尭天皇に登場するイカツオミが同一人物とすれば、

 2百年以上生きていたことになりますから、

 別人と考えるのが常識ですが、武内宿禰と言う人は

  5代の天皇に仕えたことになっていますから、

 あながち別人と言いきれないところが、この時代です。

 
以上の中臣氏については、『日本書紀』以外の記述がなく、

 実在性を他に立証できず、こういう人物がいたという記述が

 日本書紀にあるとしか言えません。
学者の間では「到底史実とは思えない。中臣氏が大伴、三輪、

 物部等と肩を並べる旧族とは言えない。
 
 国史編纂の過程で中臣氏が諸家の伝承と調和するように

 うまく潤色したものであろう。」
といった意見が大勢です。
 

【中臣氏系図】 【始祖】天児屋根命  【出自】神別(天神系)

(1)天児屋根命(神号春日大明神)

()天押雲命― ()天種子命 ―()宇佐津臣命―()大御食津臣命―
()伊香津臣命(一云、雷大臣命・鳥賊津連) 
14代仲哀天皇9年の記事、四大夫 神功皇后の審神者の記事。
19代允恭天皇にも伊賀津使主、同一人物か?大鹿嶋の後という説も。
()梨迹臣命 ―()神聞勝命(鹿島宮への奉幣)― ()久志宇賀主命―
(1)國摩大鹿嶋命(探湯主命
  (クニウズ・クニナズ オオカシマ)
    11代垂仁天皇25年の記事。伊勢神宮祭主。五大夫の一人。
     一書により,同じ25年探湯主卜占の記事があることから
     同一人物か?。
 (1)臣狭山命(倭武天皇)― (ここに雷大臣命を置く系図もある)
(1)跨耳命― (1)大小橋命―  (1)阿麻毘舎卿 ―
(1)音穂臣 阿毘古大連―(1)眞人大連

(
17)賀麻大夫(鎌子)
欽明天皇記 ―
(18)勝海 (仏教導入を巡る争いの中で死亡) 
黒田― (19)常磐 (中臣連始)― 
 阿礼波(磐余・伊禮波)
              仏教導入の争いの中で没落か?
(20)加多能祐 -(21)御食子(弥気)― (22) 鎌足 
 國子(征新羅大将軍)―国足
糠手子―金  
(23)意美麻呂 (国足の子) 鎌足の婿養子となり一時藤原姓を継ぐも、
後に不比等が藤原姓を継ぎ、中臣姓に戻り、
子の清麿が大中臣姓を賜る。  
 
以上が中臣氏の系図です。

これが事実であるかどうかなどは、あまり問題ではなく、

こういう風になっていると言うことです。

要するに、中臣氏の始まりは、天児屋根命である。

この中で一応10代となっている、國摩大鹿嶋命(探湯主命)が
『日本書紀』に初めて登場する、中臣氏です。

この大鹿島は伊勢国風土記のも登場して、
伊勢神宮の祭官となり、以降中臣氏が祭官を務めます。

同じ年(垂仁天皇25年)別伝には中臣連祖探湯主と言う人物が
登場して、卜占をしたという記事があります。

だからこの2人は同一人物だと言う説と、別人だと言う説が
あります。

仲哀天皇の9年には中臣鳥賊津連と言う人物が登場します。

この系図では第6代になっているので、時代が合いません。

したがって、大鹿島の後と言う系図もあります。

臣狭山命の後、狭山彦命と同じ時代の雷大臣として、
登場するのがこの鳥賊津連だというわけです。

この雷大臣は多くの子孫と称する一族を持つ人物です。

そして、五世紀の允尭天皇の舎人として、おなじ
中臣鳥賊津使主と言う人物があります。

同一人物とすれば、2百年以上生きていたことになりますから、
別人と考えるのが常識ですが、武内宿禰と言う人は5代の天皇に
仕えたことになっていますから、あながち別人と言いきれない
ところが、この時代です。

以上の中臣氏については、『日本書紀』以外の記述がなく、
実在性を他に立証できず、今見てきたように、
やや理解不能な存在です。

一応卒業論文が完成したことを報告に、枚岡神社に参拝しました。

前回は、本殿のみだったので、今回は念願の本宮、神津嶽参拝です。

丁度枚岡梅林の梅も見頃でした。

本宮には、梅林から入ります。

初めてなので、距離とかがわかりませんでしたが、春日本宮の参拝もすませたので、
是非にと言うことです。

結構上りがきつく、今日の気候では汗をかきましたが、途中保育園児とであったり、
多くの人と行き違いました。


本宮までの展望台からは、大阪の街が一望できます。

青空でしたが、遠方は霞んでいて、春霞なら良いんですけど、PM25ですか、
それだったら嫌ですね。ハルカスが見えるのがお分かりでしょうか?

帰りには石切で途中下車して千手寺へ、ご住職はかって私が大学時代に
今の元興寺の研究所の前身でアルバイトをしていた時お世話になった方で、
奈良大学でも教鞭をとっておられる方です。
卒論にあたって、中臣氏の資料を紹介いただいたので報告です。

これで、奈良ではお世話になった方々への報告はひとまず終了。
次には、鹿島、香取です。

今日から、本業に入りますが、今晩はあいにくの雨のスタート。

今まで春を呼ぶ行事としてのお水取りのイメージでしたが、2年前のあの大地震から、

お水取りは、あの地震を改めて思い出す行事ともなりました。

2年たっても、東北の復興は遅々として進んでいません。

あの時、日本人が皆、東北頑張れ!と心を一つにして東北の応援を誓ったはずですが、

現実は、汚染もされていない瓦礫の受け入れを拒む自治体と言うか、

関係のない同情はするが、少しでも自分に危険が及ぶ可能性があれば、

絶対反対を叫ぶ人たちの声によって、瓦礫処理は一向に進んでいません。

今の日本は、自己主張ばかりを声高に叫ぶ人、いじめ、体罰、挙句は子殺し、親殺し。

まさに末世の様相です。

このお水取りで、絶対の大慈悲観世音菩薩に懺悔し悔過法要を営むことの意味が、

今だから一層重要ではないかと思えてきます。

2月堂の下で、さだ まさしさん奉納のたいまつの竹を、見つけました。

さだ まさしさんは何度も東北へ入って、歌を届けています。

このたいまつにも、祈東北復興と書かれていました。


             

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