昨年初めて鹿島・香取の地を訪れたのも4月、桜が満開の季節でした。
今年はそれからわずか4.5日違いですが、ここでも例年より大分早く桜が咲いたようで、もう季節は新緑でした。
今回は目的が卒論の報告ということで、特に連絡もせず、ただお納めすればいいと考え、東京から日帰りの計画。
で、香取は丁度御、神輿を中心に旧八ヶ町村氏子が供奉して盛大にお祭りがおこなわれる、神幸祭の当日。
祭りがおこなわれるのは午後からということで、朝11時ごろ到着してお目にかかれるかと思ったのですが、知り合いの禰宜さんは祭典中。
本殿前では獅子舞が奉納されていました。そこで卒論だけ託して早々に退散。
香取駅から電車で鹿島へ。
途中雄大な利根川の流れと、そこに広がる田園風景は、奈良では到底目にすることができません。
ところが、鹿島でも、お目当ての権宮司さんが急きょ式年遷宮の会議が入ったということで、
数分お目にかかっただけで退散。
まあ、目的が卒論の完成報告と言うことで、これで良しと言うことです。
朱印帳に、鹿島・香取をいただいて枚岡神社と合わせ後、最後に春日をいただければ完成です。
私の気持ちとしては、これで一連の行事がすべて終わり、肩の荷が下りました。
帰りはおのぼりさんで、東京スカイツリー見学と浅草寺。
中臣氏の出自を常陸と主張する大田 亮氏は、仲国造出身の多臣流中臣氏が常陸から生まれたという説です。
そして確かに中臣という名前を持つ人物が7世紀半ばには確実の常陸に存在し、鹿嶋社と関わりを持っていました。
ただ、この中臣が多氏系の中臣である証拠はありませんし、また畿内の中臣氏と関係があったかどうかもわかりません。
私の論文では中臣氏の出自は河内であると結論付けています。そしてこのことは担当教授である寺崎先生も、賛同されています。じゃそれでいいかと言うと、事はそう単純ではありません。
河内説の大きな根拠である枚岡神社が、讃良郡(サハラ)枚岡郷から移されたという説があります。
その地は、北河内郡甲可村大字砂村宮村水本村に属する燈油打上一帯の地に相当すると推定されています。(吉田東吾氏、大日本地名字書)
この地は中河内から樟葉交野星田に通じ、更に南山城や淀方面へ向かう通路に沿うていて、難波江から南山城に到る交通の要所を占め、地形から言っても平岡と言う地名ふさわしいところです。
そして、この地にも古くから平岡の神が祭られていたことが風土記に
『平岡ノ郷、土地中、農民用不レ少、有レ神号二平岡明神一、所ハ祭児屋ノ命也』
とあります。
また淀川を挟んで摂津の国嶋下郡安威郷には藤原鎌足を祀ったと思われる阿威山があり、鎌足が家業を嫌って隠棲したという、このあたりも藤原氏の所領があったことは知られています。
北河内から淀川北岸の摂津にかけて、中臣氏ゆかりの田荘が点々と連続しています。
さらに和泉国大島郡の大鳥神社の摂社の大鳥井瀬社が存する場所が泉北郡(元大鳥郡)半陀郷平岡村大明神山と言う。
大鳥神社は日本武尊伝説で有名となり、今でこそ主祭神は日本武命のようになっているが、そもそも大鳥連祖神が主祭神であり、大鳥連は祖神が天児屋根命であるから、天児屋根命を祭る事に他なりません。
京畿にある天児屋根命の後裔はほぼ2つの集団に分かたれ、1つは北河内から摂津にかけて淀川河口に猬集するものと、2つ泉北の海浜から東に向かって一直線に葛城山麓達するものです。
その両者に本末関係があったのか?どちらが有力であったのか全く分かっていなません。従って中臣氏の本貫をいずことも断定できないのが実情です。
このように、私の論文では一応河内枚岡の地を本貫とはしましたが、定説とまでは言えないのが実情です。
また、おそらく、その後中臣氏は本拠を大和藤原の地に移したと考えられますが、このことは論文では触れることができませんでした。
さらには、枚岡神社の存する出雲井はもともと豊浦郷出雲井とよばれ、この豊が或いは北九州の豊国に因みがあるやもしれません。
以前に書いた、中臣氏の出自の候補地に豊前国仲津郡があります。
今の大分県、豊後の国に景行天皇が土蜘蛛退治に赴いた時、祈った神の名が志我神・直入物部神・直入中臣神。
直入は豊後国風土記に豊前国仲津郡中臣村(和名抄では中臣郷)とあり、この地には今も中冨という姓があります。
そうなると、常陸の中臣の出自とも係わりが出てくるわけですが、これ以上は調べようがありません。
多坐弥志理都比古神社(多神社)は祭神として神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶を祀る。
社伝によると、神武天皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、…我、天神地祇を祀る…という由緒をもつ。
平安時代の『延喜式』にも名がみえる大和でも屈指の大社である。
神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られ、中世には国民である十市氏によって支えられた。
また、本神社の南には、古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。
本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。
なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。
一方、大生神社は健御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)を祭神とする元郷社で、その創祀年代は詳らかでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富族の常陸移住の際氏神として奉遷し御祀りしたのに始まるといわれている。
本殿は天正18年(1590年)の建立と伝えられる三間社流造り茅葺で、当地方における最古社でその時代の特徴を良く示しており貴重な存在である。
(潮来町教育委員会 境内掲示板の抜粋要約)
当神社に残されている古文書は幾つかあるのだが、複雑になってしまうので簡略化してポイントを記述してみる。
①本社蔵棟札:神護景雲二年(768年)和州城上郡春日の里に御遷幸、大同元年(806年)藤原氏東征御護として此里に御遷還。(明治7年11月)
②羽田氏書留由緒:大同元年東夷退治のため藤原棟梁下向。大明神同心し下着。嶋崎大生宮帝勅有りて宮造る。今之鹿島は大同二年御遷。(天正廿三年とある,鹿島神宮家東氏蔵)
③ものいみ書留:大同元年東夷退治のため左大将関東下向、この時大明神加護のため春日社鹿島へ遷幸、大生村にて宮作り大明神大生社は御遷座。大同二年極月廿七日に大生宮より今のかしまの本社に御遷座。(鹿島神宮家東氏蔵)
④鹿嶋大明神御斎宮神系代々:大生宮者南部自大生邑大明神遷座。勅自大生宮遷座干鹿嶋大谷郷~大生神印当当宮神璽因。(禰宜家系譜、常元の項にあり。文明5年7月25日中臣連家長、鹿島神宮家東氏蔵)
以上4点の記述が残されている。
④の南都自大生邑大明神は、大和国十市郡飫富郷の多坐弥志理都比古神社(オオニマスミシリツヒコ:多神社)である。
つまり多氏の祖神を祀る大生邑大明神が茨城県潮来市大生の地に、そして現在の鹿島神宮へ移ったとしているのである。
そして大生神社の鎮座地の茨城県潮来市大生台地に大生東部古墳群・西部古墳群・大賀古墳群・釜谷古墳群など100基以上の古墳が存在している。
その中でも最大規模の大生西1号墳は全長約70m余りの前方後円墳で、筑波系絹雲母片岩の箱式石棺を有し、円筒埴輪や形象埴輪、人骨・大刀その他が出土している。築造年代は6世紀中頃から7世紀と推定されている。
大生西1号墳では埋葬施設が通常とは異なり古墳に付出し部分(テラス)を設けて埋葬している、いわゆる常総型古墳である。
市毛薫氏の「変則的古墳覚書]の中でその特色を以下のように整理している。
①内部施設が墳丘裾部に位置すること。
②内部施設は通常扁平な板石を用いた箱式石棺であること。
③合葬(追葬)を普通とすること。
④群集墳を形成していること。
⑤東関東中央部に分布すること。
としている。
この常総型古墳の分布域は現利根川下流域を中心として南限は千葉県市原市村田川、北限は福島県相馬郡に及んでいる。
またこの常総型古墳の分布域には下総型埴輪及び常総型石枕の分布も重なるともいわれる。
大生古墳群の報告書である「常陸大生古墳群」(茨城県行方郡潮来町教育委員会)によれば、「大生神社の鎮座地が旧仲国造の治域内にあってオフの地名を負っていることは当然オフ一族の居住地であったことを示しており(中略)かくのごとく地名と墳墓とが立派な傍証となっているので、その背景の中に鎮座される大生神社の創始はオフ一族の移住に伴って起こったとするのが妥当である。」としている。
つまり大生神社との縁起と古墳群とを兼ね合わせた状況から、多氏が大和方面から移住し多野弥志理都比古神社を勧請、それを鹿島の神として遷座するに到ったとする。
大生神社の地であるかつての行方郡は、白雉2年(653)茨城郡と那珂郡を分割合併して誕生した。
その初代那珂国造は、常陸風土記注釈に「那珂国造の初祖なり」とある神八井耳命の後裔、建借間命(タケカシマノミコト)である。
天平18年(746)、鹿島の中臣部、占部が中臣鹿島連を賜る(続日本紀)とあり、
それ以前に風土記記載の香島郡に中臣国子と中臣部兎子が大化5年(649)請願して香島郡が成立したとしている。
この頃には常陸に中臣氏と部民である中臣部がいて鹿島の地で相応の力を保持していたことになる。
この中臣とは前述の建借間命の後裔で仲臣(那珂臣)と関連があって、 元々鹿島の中臣氏は多氏系であったのかもしれない。
しかし多氏が衰退し、畿内から中臣氏が進出し(同族であったのか別として)、鹿島の実権を掌握したのかもしれない。
では、結論としてどうなるかということですが、はっきり言って良く解らない、
であるから以上の事は、枚数に制限のある論文では触れることはできないし
また、すべてが推測でしか書きようがない以上、論文には取り上げえなかった。
畿内の天児屋根命の末と言う中臣氏と、神八井耳命の末と言う、鹿島の中臣氏とをどう結び付くのかは、次に書きます。
もうほとんど引退ですが、総会と言うことで出席。
その後引き続き奈良県協の春の大会でした。
参加者は60名あまり、少ない時は20名ぐらいでしたから、随分と増えました。
でも言わばバブル。
漫画「ちはやふる」の影響で各地のかるた大会も参加者が急増していますが、これはブーム。
いつかは終わると思わなければなりません。
小、中学生も随分増えましたが、なかなか定着はしていません。
まあ、そうであっても、今賑やかなことは、活気があって大変結構です。
明日、あさってが春の嵐との予報で、急きょ思い立って吉野にいってきました。
予想以上に暑く、予想以上に満開の桜に出会いました。
3月はちらほら立った桜が、今日は桜吹雪。
人でも3月とは比べ物になりません。
行きの吉野行き特急には立ち席。
でも行って良かった。
はたして春の嵐がどうなるかですが、来週では少し遅いかもしれません。
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