忍者ブログ
アカダマブログ
[41]  [42]  [43]  [44]  [45]  [46]  [47]  [48]  [49]  [50]  [51
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

卒論自体は、まさに味もそっけもない、読めば眠たくなる代物です。

まあ、性格上これは、やむおえません。

そこで、ある程度噛み砕いて、書けなかった分も含めて、

雑談として、しばらく書いていきます。

そもそも、春日社について書こうと思ったわけは、私の住まいが、
高畑だからです。

高畑と言うのは、かっては春日の社家町でした。

江戸時代までは言わば、高畑は春日に勤める人たちの社宅の場所でした。

高畑は南郷と言われ、それに対して、野田という大体、今の公会堂
のあるあたりに北郷という社家町がありました。

古来春日の社家は、鹿島から神様のお伴として奈良へ来た、「中臣殖栗連時風、秀行」の2人がその初めと言われています。

そのことは、大東家に伝わる、「古社記」という書物に書いてあります。

大東家は、今も高畑にあります。

1200年続いている家なんですね。


先代は、春日に奉職されていて、権宮司を務め、退職後、嘱託として
春日におられ、私は大学生でしたが、その時代にお目にかかりました。

息子さんは、奈良県に勤めて居られて、図書館の館長等を歴任後
退職し、春日、勤められ、多くの著作があります。

2008年11月16日没 享年89歳
でした。

今にして思えば、もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。


 

PR
一応卒論全文を掲載しました。

2月の中旬にならないと、合否は判定されませんので、これから卒論を作成する方の参考にでもなればと、掲載しましたが、これが合格論文と言うわけでは、決してないので間違いのないように。

書き終わっての感想としては、まだまだだな、と言うのが正直な感想です。

枚数制限(50枚以内)で、書き足りない部分が一杯ありましたが、諦めざるえませんでした。

そして、その後読んだ文献から、訂正すべき点も見つかりましたが、時間、枚数と言った制限の中ではこれが精一杯ということで、ここから、本当の研究が始まると言う感じです。

年は関係なく、未熟な一学生の論文と御笑覧ください。

今朝は、朝起きると奈良は雪景色でした。

今冬二度目の積雪です。

早速散歩に行ってきましたが、いい写真は撮れませんでした。









『日本書紀』で、御食子は舒明即位前期に弥気としてみえ、

兄弟の国子は推古紀三十一年条に見え、

征新羅の大将軍に任じら、実在は確実な人物である。


孝徳朝以降に鹿島の中臣氏に関する記述が増加するのも、

代替わりした中臣氏と鹿島のその後の密接な関係を

裏付けている証左となる。


鎌足が鹿嶋の生まれであるとする大鏡・

談山神社縁起の記述も、鎌足の父祖の地が鹿嶋であることを、

数百年の年月を経て、あたかも鎌足が鹿嶋出身

であるかのごとく取り違えたと見るのが自然な解釈である。


また、大化改新に抜群の功績のあった鎌足が、

要職に就くこともなく、内臣という地位に留まり、

大織冠の冠位も藤原という姓も、

死の直前に与えられた、いわば死後贈位であるのも、

この常陸出身という出自の故であったと考えられる。


中臣氏はそれぞれ支配するところの神を氏神としている。

中臣伊香連は近江国伊香郡伊香郷にあたる地域の

伊香具神社を氏神とし、

中臣藍連は摂津国島下郡安威郷にあたる地域の

阿威神社を氏神とし、

その出自地と思われる河内では、枚岡社を氏神としており、

中臣鹿島連は鹿嶋神宮を氏神としている。


以上の事から、春日社に武甕槌神(常陸国・鹿島の神)

・経津主神(下総国、香取の神)が迎えられた理由は、

鎌足・不比等に連なる藤原氏(中臣氏)は、

仏教導入を巡る争いで亡びた中臣本宗家に代わり、

鹿嶋出身の黒田に連なる中臣氏が宗業を継ぎ、

鹿嶋における氏神である鹿嶋・香取の神を奉祭したが故であり、

田村
()
氏の言葉を借りれば

「氏神だけはあざむくことはできない」ということである。


こうして、中臣氏の祖神である枚岡に座す天児屋根命・比売神、

藤原氏の氏神である鹿嶋・香取の四柱の神を迎え

四神一体の春日社が構築されたと考えるものである。

なお香取の神については、『続日本後紀』承和三年五月条に、

「下総国香取郡従三位伊波比主命」とあり、

『延喜式』
(巻八・祝詞)に「香取に坐す伊波比主命」。

『日本書紀』
(神代下・天孫降臨)の引く一書には、

「経津主神と武甕槌神が葦原中国の平定の前に

高天原の悪神の天津甕星を討った」

「このとき斎主の神は、『斎の大人』と号した。

この神は今は東国の楫取(香取)の地に存在する」と記されている。

イハイヌシは、記紀神話ではこの箇所しか登場せず、

特定の神ではなく「神事を行なう神」という意味の

一般名詞と見ることができる。

この説に従えば、香取の神の性格は鹿嶋神を奉斎する

在地性の強い神ということになる。



このような関係は、伊勢の在地の神であった豊受神(外宮の祭神)が

天照大神(内宮の祭神)を祀る伊勢神宮でも見ることができる。

とすれば香取の神は、もともと下海上国造が奉祭していた

在地の神であり、のちに天神であった鹿嶋神を祀るようになったため

「斎の大人」と呼ばれていたとも考えられる。

いずれにしろ、タケミカズチやフツヌシは国土の平定に活躍した軍神である。

タケミカズチの意味は、「タケ」は武、

「ミカ」はミイカ(御厳・雷)のことで、

「ズ}は助詞、「チ」は権威あるものであり、

武々しい雷のような権威のある神と理解されており、戦闘を象徴している。

それに対してフツヌシは、魂を振り動かす行事に使う用具の

「フツノミタマ」と関係があるといわれる。

記紀では、タケミカヅチの分身の剣を

布都御魂(フツノミタマ)と記しており、

フツヌシは刀・剣のタマ(魂)にかかわる神である。

したがって、両者が一体となってはじめて、軍神としての威力を発揮する。

春日社においても一対として藤原氏の氏神をなすものである。


  千葉県『千葉県の歴史』通史編古代2 千葉県 
                             平成十三年 

  上山春平 『埋もれた巨像』  
               (株)岩波書店 一九七七年

  永島福太郎『神道大系』神社編 春日 
                神道大系編纂会 昭和六〇年

  西田長男 『神道考古学講座』第六巻 
  関係特論「文献資料」 
雄山閣出版() 昭和四十八年

  『神祇官勘文』は正式には
『神祇官勘申諸神立社幷祭祀之始及祈年祭等祭始又
                忌火膳御賄等始事』
といい、加茂・石清水・松尾・稲荷・河合・木嶋
・大倭・気比・気多等の諸名社の「立社幷祭祀之始」
すなわちその創立などについて勘申したものである。
したがってその中にある春日大社の「祭文」も
その創立の日に奏上された祝詞であると考えられる。

  義江明子 『日本古代の氏の構造』 
             吉川弘文館 昭和六十一年

  中村春壽『春日大社奈良朝築地遺構発掘調査報告書』
              春日顕彰会
 昭和五二年

  直木孝次郎 『日本古代の氏族と天皇』 
              塙書房 一九七七年

  太田 亮 『姓氏家系大辞典』第三巻 
              角川書店 昭和五一年 

  志田諄一 『古代氏族の性格と伝承』 
                  雄山閣 平成二年

  塙保己一『群書類従』系譜部 巻第六二 中臣氏系図

            第三巻 名著普及会 昭和五二年

田村圓澄『藤原鎌足』 塙書房一九六六年

中村英重 『日本古代中世史論考』
         「中臣氏の出自と形成」
吉川弘文館 一九八七年

早川万年 『古代東国と常陸国風土記』

     「神郡・神郡司に関する基礎的考察」雄山閣一九九九年

  横田健一『日本書紀研究』第五冊 
            「中臣氏と卜部」塙書房 昭和五十一年


参考文献

青木和夫『日本古代の政治と人物』「藤原鎌足」 
                   吉川弘文館 一九七七年

青木和夫『藤原鎌足とその時代』  吉川弘文館 一九九七年

井上光貞他『日本書紀』上・下 岩波書店 昭和五一年

池田源太他『新しい大和の歴史』大和タイムス社 一九七三年

上田正昭『日本古代国家論究』「祭官の成立」
                   塙書房一九六八年

上田正昭『春日明神』 筑摩書房 一九八七年

宇治谷 孟『続日本紀』上・中・下 
                講談社 二〇一〇年

花山院親忠他『春日大社』 大阪書籍 昭和五十九年

花山院親忠『春日の神は鹿にのって』清水弘文堂 一九八七年

春日大社『春日大社のご由緒』 春日大社 平成七年

加藤謙吉『大和政権と古代氏族 吉川弘文館 一九九一年

木本好信『続日本紀研究』320号掲載
             「石上国盛と石上国守」一九九九年

笹山晴生 『奈良の都』吉川弘文館 平成四年

高木市之助他『万葉集』  岩波書店 一九七九年

谷川彰英 『奈良地名の由来を歩く』
            
KKベストセラーズ 二〇一〇年

東 実 『鹿嶋神宮』  学生社 二〇〇一年     

直木孝次郎『日本書紀研究』
             「物部連に関する二,三の考察」

中野和正 『春日』第八七号「春日の神話」
               春日大社 平成二十四年

永島福太郎『奈良 春日野』 淡交社 昭和四十三年

奈良公園史編集委員会『奈良公園史』奈良県 
      第一法規出版 一九八二年 
塙書房一九六六年

平林章仁 『七世紀の古代史 王宮・クラ・寺院』 
                 白水社 二〇〇二年

松田度 『橋本歴史研究会報』第二六五号
             ―鹽屋連鯯のことー二〇一二年


同じく中臣氏にあっても、本宗家は、勝海の代に滅び、

代わって鹿島から中臣部を代表して河内に出ていた鹿嶋の神官

の系譜に連なる黒田系中臣氏が、絶やすことのできない宮中の

祭礼を司る中臣宗家の職制を継いだと考えるものである。

『中臣氏系図』において、可多能祐は天児屋根尊二十一世、

『春日御社御本地幷御託宣記』には二十二世と書かれており、

当然代々の中臣氏を継いでいることになる。

しかるに、『中臣氏本系帳』には、可多能祐の父、常磐が、

「始賜
中臣連姓」と書かれ
中臣氏の系図はその父、黒田から

始まっている。

『春日御社御本地幷御託宣記』も同様に記述は黒田から

記されている。

このことから、本来鹿嶋の中臣部の出身である中臣が、

常盤の代に至って、中臣宗家から、宮中の祭礼に関る職制を

継ぎ、中臣連を名乗る代替わりがあったと考えられる。

黒田の代に鹿島から河内に進出した中臣氏は、その時点に

於いては畿内・河内に地盤はなく、そのままでは、

宮中の役職に就くことはかなわないが、塩屋氏と姻戚となる

ことにより、畿内・河内における血縁・地縁を築いたとおもわれる。

宗家の滅亡と、反蘇我氏であった磐余に代わって、兄弟で当初は、

中臣塩屋連と復姓を名乗っていたと思われる常盤が、中臣宗家を継ぎ

中臣連を名乗り、その時点で塩屋姓は捨てる。

塩屋氏側に於いては、引き続き中臣塩屋連の複姓を名乗っている。


皇極二年
(六四三)『上宮聖徳太子伝補闕記』に、山背大兄皇子を攻める

主要メンバーとして登場する中臣塩屋枚夫がこれである。 

『日本書紀』孝徳天皇大化二年に恩賞を受け、そして有馬皇子

の政変で鎌足と敵対し、斬殺された塩屋連鯯魚は

この中臣塩屋連枚夫の子であり、

この代で中臣氏を捨て塩屋連を名乗っていたと考えられる。

この鯯魚は『姓氏家系大辞典』の記載では「東国の人なり」

とあり,恩賞記事の内容から見ても東国の国司であったと思われ、

このことからも鹿島中臣氏との係わりがうかがわれる。

この場合の本宗という言葉は、単に氏の中心という意味を

便宜的に本宗という言葉を用いる。

したがって後の養老令、大宝令の規定に由るような

厳密な相続ではなく、中臣氏にあっては、その祭礼氏族としての

職制を引き継いだことを意味する。

鎌足の父である御食子という名前も、神の神餞にかかわった名前であろう。

後に鎌足が、その宗業を嫌ったとされる話も、祭礼を司る中臣氏の職制を

嫌ったことを意味する。

従って中臣氏系図において、中臣常盤が「始賜中臣連姓

と書かれているのは、本来鹿嶋の中臣部の出身である中臣氏が、

常盤の代に至って、職制を継ぎ、中臣連を名乗ったということに

他ならない。

以後 中臣黒田―常盤―可多能祜―御食子―鎌足と続き、

鎌足に至って藤原姓を名乗ることとなるのである。


5 中臣氏と祭神についてのまとめ 

中臣氏の名義について、地名説は、その根拠となる史料がなく、断定するには問題を残す。

中臣氏は祭儀という職分によって、宮中における地歩を築いたことが、

古くからの伝承のありようからみて有力と思われ、職名説が妥当と思われる。

出自については、河内と推察されるが、常陸にも、古くから中臣氏の存在の証左があり、

孝徳朝以降に於いては特に中央の中臣氏との結びつきが顕著である。

 中臣氏と鹿嶋の神との結びつきについては、田村氏は鎌足が常陸で産まれ、

少年の頃、宮廷の斎礼をあずかる中臣氏に身を寄せたとする。

氏の説は畿内の中臣氏、常陸の中臣氏という二元説の立場をとるものであり、

二元説については同意見であるが、先述したように、

鎌足の代に常陸から中央へ進出したという考えには賛同できない。

太田氏も鹿嶋の中臣氏が勝海系にとってかわったという二元説という点では、

同意見であるが、多系中臣氏とすれば、春日社で天児屋根命を祀る説明ができない。

横田氏は鹿嶋中臣氏出身であることを、中臣氏の前身が卜部だということで説明されているが、

中村氏の指摘通り卜部氏との係わりには賛同できない。

中臣氏と鹿嶋・香取との確実な文献上の関係として、

養老三年(七一九)七月に安房・上総・下総の三国を管する按察使に任じられ、

同時に常陸守でもあった宇合は、神亀元年(七二四)に再度、

陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍として常陸に赴任し、

その際鹿嶋・香取神の分霊を従軍神として帯同しこれを平定したのである。

このことから宇合が、鹿嶋神並びに香取神に接しその認識・評価を高め

春日社に両神を勧請するに至ったと説く説も(⒅)あるが、

氏神は一人の人間の考え、まして氏の長者でもない宇合によって

容易に導入される性質のもではない。むしろ鹿島出身の中臣氏であるが故、

鹿島・香取の神を奉じて、戦ったと考えるべきであろう。

また年代的に平城遷都の時期、あるいは神護景雲二年の、いずれの年とも隔たりがあり

賛成しがたい。

考古学的な研究で、五世紀頃、香取に大和政権にかかわる祭礼遺跡が多出しており、

東国進出における拠点が置かれた可能性から、物部氏の存在をあげ、

それが六世紀中葉に消失したことから、物部氏の没落、

そして鹿嶋に中臣氏により新しい基地の設立が行われた可能性を指摘する

寺村光晴(⒇)氏の考察がある。

氏族の名前については推論の域を出ないが、香取神宮、鹿嶋神宮の創建、

鹿島の中臣氏の存在を六世紀まで引き下げる上で、大いに注目される見解である。

六世紀における仏教導入をめぐる争いに、中臣氏が大きな役割を果たした記事がある。

欽明天皇十三年(五五二)十月、中臣連鎌子が敏達十四年には、その子である中臣勝海が、

疫病が流行した時、物部連守屋とともに仏教信仰を絶つべきことを奏し、

用明天皇二年にも、天皇の仏教信仰に異を唱えている。

この勝海は、中臣氏のその時の宗家であると考えられる。

一方、同じ敏達十四年に中臣磐余と言う人物が、物部、大三輪氏と共に

大臣蘇我馬子に仏教受容に対して反対したとして登場する。

  同じ年に、中臣の氏姓を名乗る二人の人物が書かれていることに関して、

二人が同一人であるという考えもあるが、磐余は『日本書紀』には名前がなく、

「中臣氏系図」に記載のある黒田の子伊禮波と思われ

であるとすれば、中臣氏の傍系氏族である可能性が高い。

中臣の傍系である磐余が、中臣氏宗家の勝海と時期を同じく崇仏の争いに、

物部、大三輪氏という畿内の有力氏族に伍して名を連ねているのは、

三輪氏は太田田根子を始祖とし、その太田田根子は、古事記の崇神記の段で,

建甕槌命の子とされる。

建甕槌は武甕槌、 建御雷と同じで武甕槌であろう。

また物部氏は天神の子とされる饟早日命を祖先とし、志田諄一氏はこの饟早日神は甕速日神、

煐早日神、武甕槌神から構想された神であるとする。

中臣氏が武甕槌神を奉じるのは、鹿嶋の神としてであり、排仏の論争の時期に、

中臣の傍系である磐余が、中臣宗家の勝海と時期を同じくして、この中に加わっているのは、

磐余が武甕槌神と深い関係にある鹿島出身の中臣氏であるが故、武甕槌神を通じて、

この三者の結びつきに加わったと考えられる。

古代においては葛城、物部氏のように畿内に領地、居住地を持つ豪族と違って、

宗像氏や出雲氏のような遠隔地の豪族は、出先機関を畿内におき、

その族人を宮廷に出仕させていたと考えられる。

 中央にいた中臣宗家の勝海と、鹿嶋中臣部の族人として河内に出て来たと思われる

黒田系の中臣氏が、敏達朝にあって併存していたと考える。

やがて中臣勝海は仏教導入を巡る争いの中で、用明天皇二年、迹見赤檮によって切り殺される。

同じ年、物部守屋が蘇我馬子によって滅ぼされ、物部氏は滅亡する。

こうして蘇我氏に敵対した物部氏の宗家と中臣氏の宗家は亡び、

物部氏にあっては石上氏が後を継ぐ。

この石上氏は物部の後裔氏族であるが直木氏は「正当な血統上の本家かどうかは不明であり、

本来は傍流であって、河内國渋川郡を中心とした物部連本宗家とは別に

石上に幡踞していた滅亡を免れた一族ではなかったかと思う」

とされているが、石上地方に幡踞していた物部氏の一氏族が本宗家の滅亡以後、

石上神宮の祭礼権やまた収蔵していた武器類を本宗家に代わって掌握し、

勢力を伸ばし、この一族から石上氏の始祖である石上(物部)麻呂が登場してきた。

カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[04/21 あき]
[12/09 宮前 英明]
[06/28 大石孝]
[11/08 千鳥祐宣]
[08/10 こちずふぁん]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
マスター
性別:
男性
趣味:
歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
バーコード
ブログ内検索
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog
Graphics by 写真素材Kun * Material by Gingham * Template by Kaie
忍者ブログ [PR]