4、常陸と中央の中臣氏について
中臣の出自が河内であるとすれば、常陸鹿嶋と中臣氏については
いかなる係わりがあるのであろうか、
常陸国風土記香島郡の条、「美麻貴天皇」(崇神天皇)の代として、
大中臣神聞勝命の鹿島宮への奉幣、「倭武天皇」の代に中臣狭山命の話を
載せているが、史実としての立証は難しい。
同じく常陸国風土記冒頭に、孝徳天皇の代に高向臣・中臣幡織田連ら
を派遣して、坂東八国を定め、そのひとつが常陸国であると述べている。
行方郡の条では、やはり孝徳朝に中臣幡織田の「大夫」らに請うて
七百余戸を割いて別に「郡家」を置いた、
己酉年(六四九)に中臣□子・中臣部兎子らが請うて「神郡」をおいた。
さらに久慈郡の条には、天智天皇の代に藤原内大臣(鎌足)の
封戸を検るために軽直里麻呂が派遣されて、
堤を築き池を作ったとする伝承などが書かれている。
こうした孝徳朝以降の記事は、ほぼ信頼が置けると思われる故、
少なくとも孝徳朝までには、中臣部が常陸に置かれていた。
中央の中臣氏と鹿嶋に住んでいた中臣氏の結びつきが、
いかなる事情によるものかは、推測に依るほかないが、
一つの傍証として神郡の存在がある。
神郡とは、特定の神社との結びつきを前提とした郡であって、
伊勢に於いては伊勢神宮,安房においては安房坐神社、
筑前では宗像神社、常陸・下総ではそれぞれ鹿島・香取両社、
紀伊では日前、国縣神社、出雲は熊野坐神社(あるいは杵築大社)の祭祀に関る。
律令には神郡の規定はなく、持統紀六年三月の条、
同年閏五月丁未条に「神郡」の用語が見えるので、
この時期に名称はすでに在ったようであるが、
いずれにしてもその地域の特例処置であったようで、これらの郡においては、
郡司三等以上親の連任が認められている。
鹿島でも鹿嶋郡の郡司に中臣を名乗る人物が任じられている。
すなわち「応修理鹿島神宮寺事」とする天安三年二月一六日官符には、
案内を検ずるに、去る天平勝宝年中に始めて件の寺を建つ。
(中略)国司就きて旧記を検するに、件の寺は元、
宮司従五位下中臣鹿島連大宗、大領中臣連千徳ら、
修行僧満願と建立するところなり。
とあり、天平勝宝年間、中臣連が鹿島郡の大領に
任じられていたことがわかる。
さらに天平勝宝四年(七五二)十月には、鹿島郡司擬少領として、
無位の中臣鹿島連浪足の名がしられている。
したがって、わずかな例ではあるものの、風土記の建郡記事に対応して、
実際にその地の中臣を名乗る氏族が郡司の地位を占めていたことは
疑いないであろう。
しかも天安三年二月一六日官符から、神宮司と郡司はおそらく同族であり,
中臣鹿島連氏がほぼ同時期に郡司と宮司の双方の地位についていると判断できる。
この天安三年二月一六日官符には、右に続けて
「今あるところの禰宜祝等はこれ大宗の後なり,
累代任ずるところの宮司もまた同氏なり」とあって、
この氏族が鹿島神宮の奉斎者として、
安定した地位を占めていた事実を示している。
中臣鹿島連大宗は。
『続日本紀』宝亀十一年十月丁酉条に
「常陸鹿嶋神社の祝、正六位上中臣鹿島連大宗に外従五位下を授く」と見え、
天平勝宝年中からこの頃まで鹿島社の祀官であった。そして、この中臣鹿島連は、
『続日本紀』天平一八年三月丙子条に、
「常陸国鹿島郡の中臣部二十烟と占部五烟とに中臣鹿島連を賜う。」
とあって、もとは風土記に見られる建郡申請者と同じ姓であった。
とすれば、鹿島郡においては、その建郡以来、同族の者が
神宮司と郡司の地位に就いていた可能性が高い。
以上のように、鹿島の場合、同族関係にあった郡司と神宮司が
鹿島社への貢納、奉仕を前提とした「神郡」支配を進めていたと思われるが、
これは一面で国司の地域支配と軋轢を生じるものであるが、
鹿島では鹿島社の神宮司が、中央の神祇官、ひいては藤原氏と結び付き、
国司を介さない中央との結びつきが存していたことを示す。
遅くとも七世紀半ばには、中臣氏の積極的な関与が常陸に見られ、
その後、中央の中臣(藤原)氏側も、それをかなり意識していた事実は疑えない。
次に、常陸を中臣氏の出自地とする考え方について検証する。
中臣氏の出自を常陸であると主張するのは、
大田亮氏、田村圓澄氏があげられる。
太田氏は地名説に基づき、仲(那賀)国造出身の多臣流中臣氏が常陸より生まれ、
用明二年(五八七)の蘇我・物部両氏による崇仏抗争で、
物部氏側に立った豊前出自の中臣勝海系が亡び、
その後常陸出自の常盤系が本宗の位置についたと説く。
田村氏は、鎌足が常陸で産まれ少年の頃、
宮廷の斎礼をあずかる中臣氏に身を寄せたとする。
両氏の説は中臣氏二元説の立場をとるものである。
しかしながら常陸の中臣氏と畿内の中臣氏が
同族的あるいは血縁関係があったという史料的な裏付けは存在しない。
大鏡、多武峯縁起の記述の鎌足常陸生誕説は、
その父御食子が前奏事官という役職を持つことが『日本書紀』に書かれており、
その役職は天皇に近侍し、宮廷の祭礼を司るものである以上、
常陸在住ということはあり得ない。
また、大鏡は中村英重氏によれば、
同書は応徳三年(一〇八六)前後の成立とされ、はるか後代のものであり、
その記述内容と共に信憑性に欠ける。
なお中臣氏が『尊卑分脈』の中臣氏系図の常盤大連の記述で
「始而賜二中臣連姓一卜部也」との細注を根拠に、
卜部の出自とする説もあるが、中村氏の指摘のようにこれは吉田卜部氏の追筆と考える。
3、中臣氏の出自について
中臣氏の出自に関しては目下のところ河内説が有力である。
その根拠として、枚岡神社の存在がその大きな理由の一つである。
枚岡神社は中臣氏の祖神天児屋根命・比売神を祭神とし、
中臣氏の氏神社であることは異論のないところである。
氏神社は、各氏族の本拠地や出自地に創設されるのが
一般的であり、氏神は各氏族の守護神であると同時に、
農耕神の性格も具有している。
それ故に、氏神は所在の地域に豊穣をもたらす地域神であり、
所在地やその周辺地域と緊密な関係にあり他所への移動を拒むものである。
また『新撰姓氏録』で河内国に中臣朝臣の前姓である中臣連が二氏、
中臣が一氏おり、この三氏は中央に出仕することもなく、
高次のカバネを賜与されることもなく、
在地に残っていることが一つの支証であるとする。
また「中臣寿詞」で二上山が舞台となった話で、
中臣氏と二上山の伝承上の結びつきがみられ、
二上山を仰ぐ位置に出自地を有していた一証とする。
志田氏は「中臣氏系図」において、初期の黒田・常盤の代には、
河内の小豪族(塩屋連・物部来津首)と婚姻関係を持っていることも、
中臣氏がやはり河内在住の中小氏族であったことが推定されるとする。
しかしこのことについては私には別の考え方があり、
常陸説を合わせて考察したい。
中臣氏の名前が『日本書紀』に初めて登場するのは、
垂仁天皇二十五年春二月に中臣連氏の遠祖の大鹿嶋が、
阿部臣の遠祖武淳川別、和珥氏の遠祖彦国茸、物部連の遠祖十千根、
大伴氏の遠祖武日と共に五大夫に任ぜられたとする記事である。
中臣連遠祖大鹿嶋は、伊勢国風土記逸文に倭姫命と天照大神を祭ることに関係する話が
みえ、また倭姫に従って五十鈴河上に、天照大神の鎮座の地をたずね、伊勢神宮が創建
すると大鹿嶋が祭官に任じられたとみえているが、その名前からも鹿嶋と何らかの関係が
うかがわれる。
同じく二十五年三月の条の別伝(一書)には、中臣連の祖探湯主が卜占したという記事がみえる。
仲哀天皇代では、四大夫として中臣鳥賊津連・大三輪大友主君・物部膽食咋連・大伴武以連の四者が挙げられている。
神功皇后紀にも同じ中臣鳥賊津使主の名がみえる。
この鳥賊津使主は伊賀都臣とも書かれ、また雷大臣と同一人物が分身させられたとも考えられている。
五世紀中頃允恭天皇の舎人として、同じ中臣鳥賊津使主と言う名がみえるが、別人と考えられる。
この後六世紀に至るまで、中臣氏の記録はない。
これらの中臣氏については、その存在を裏づける史料が『日本書紀』の記述以外にはなく、立証は難しい。
そして六世紀に入ると『日本書紀』には三人の中臣の名がみえる。
一人は欽明朝の中臣連鎌子である。欽明天皇十三年(五五二)十月、百済の聖明王が釈
迦像・経論・幡葢などを献上した時、天皇が礼拝すべきか否か群臣に問うた時、礼拝すべ
しと言う、蘇我大臣稲目にたいし、物部大連尾輿と共に仏教の受容、礼拝に反対した。
二人目は勝海で、敏達天皇一四年、疫病が流行した時物部連守屋とともに仏教信仰を絶
つべきことを奏し、用明天皇二年にも、天皇の仏教信仰に異を唱えた。
三人目は中臣連磐余である。
敏達天皇十四年、大臣蘇我馬子が病気平癒のため天皇に仏法信仰を願い出た時、
大連物部守屋と大三輪君逆と共に仏像を壊し、寺を焼き払い、仏法を滅ぼそうと謀ったと伝える。
これらの仏教受容をめぐる物語は元興寺縁起にも見られ、仏教受容をめぐって物部連、
中臣連と三輪君の三氏族が団結して反対したことは間違いないと思われ、
これらの中臣氏は実在の人物とみて間違いなかろう。
ただ『日本書紀』に名前の見えるこの三名の中臣氏は、藤原氏の諸系図や「中臣氏系図」
「大中臣氏系図」などには見当たらない。
逆にこれらの系図に六世紀ごろの人物として黒田(継体朝)・常盤(欽明朝)・可多能祐(敏
達朝)の名があるが、『古事記』や『日本書紀』などの正史にはいずれもその名がみえない。
七世紀に入ると『中臣氏系図』に中臣御食子・国子小徳冠前事奏官兼祭官、
前者は小治田(推古)朝・岡本(舒明)朝、後者は岡本朝に供奉したと記す。
『日本書紀』では御食子は舒明即位前紀に弥気としてみえ、国子は推古紀三十一年条に
見え、征新羅の大将軍に任じられ、実在は確実な人物である。
前事奏官・祭官は推古朝に成立し、「天皇の御前=側近にあって言辞を伝奏する役」、
祭官は「宮廷の祭祀にあずかる官職」である。ここでも中臣氏は斎官として登場する。
そしてこの御食子の子が鎌足であり、ここから藤原氏は始まったのである。
新春奈良かるた大会が春日大社の景雲殿で行われました。
参加者は、ざっと50名ほど、大半が小学生ですが、お歳をとった方も参加され、文字通り老若男女と言った感じです。
最初にアトランダムな組み合わせで、1回戦。
次にグループの1位同士、2位同士といった組み合わせで2回戦。
そして2回戦の成績で表彰と言う段取りでした。
試合後表彰までの間に、競技かるたの高位有段者による模範試合。
そして、チャレンジコーナーということで、その有段者に挑戦という試みも行われ、競技かるたの速さを実感させました。
最後に優勝者には春日大社宮司賞が贈呈されて終了です。
二章、中臣氏と祭神について
1、中臣氏の名義について
この章では、何故鹿嶋・香取の神が藤原氏の氏神とされるかについて、中臣氏という氏族を通じて考察した い。
この場合「氏」とは、古代において祭禮・居住地・官職などによって結合した同族団または
その連合体であり、 大和政権では官職・地位はウジによって世襲され、土地、人民はウジ
が領有し、ウジ名は天皇が賜与するも のである。
国造・郡司クラスの地方豪族は「氏」のなかにはいらないのが一般用語例である。
通常、支配者と隷属者の関係にある中央豪族と地方豪族とが、同じ祖先をいただく本家
と分家との関係に秩 序されるが、中臣氏を上につけて称するいわゆる中臣の複製氏族の
多くは中臣氏の勢力下にはいった地方 豪族が、中央の中臣氏の保護を求めるために中
臣氏の支流氏族の形をとって複姓を称したものと思われる(⑿)。
中臣氏の名義については、大別すると職名説と地名説の二説がある。
① 地名説でナカトミをナカツオミの音韻変化とし、ナカは地名、ツは助詞、オミは原始的カバネとする説
② 職名説でナカトミの氏名を職掌より由来すると言う説である。
①の地名説では太田亮氏
はナカの地を、豊前国仲津郡、常陸国那賀郡を挙げて(⒀)いる。
地名説は、臣のカバネを持つ氏族は、氏名が出雲臣・葛城臣のように地名によっているこ
とから、「ナカの臣」 と言う考え方が成り立つことは考えられるが、中臣氏は連姓氏族であ
るから、中連でよかったことになる。
これについては天皇の政治の一つの仕事として呪術祭禮があり、中臣氏はそれについて
の事務をつかさどっ ていたため朝廷の重臣として力をつけ、祭礼担当氏族として権力を手
に入れた。
そのため天皇の祭官として、高天原で活躍する皇室の祖先の神々と神話の中で結び付く
必要に迫られ、その 遠祖を高天原の神とせざるを得なくなって中臣氏は連姓氏族となった。
それ故初めは、中臣という臣姓氏族たらんとしたが、欽明朝ごろにおける最初の神代の物
語の編纂過程に於 いて、中臣氏の祖が皇室の祖先神と密接な関係を結ぶ物語が作られ
はじめ、神の子孫としての地位が確定 していったので、やむなく中臣の下に連と言う姓を
つけ、複姓のようなありさまになったのであろうという解釈(⒁)がある。
地名説の、豊前仲津郡説の前提には神武東征説話があり、この事について実証的な根拠
はなく、また豊前 仲津郡、常陸国那賀郡に中臣郷があるとか、
中臣部が存在するといったことは中臣部の分布を示すものでは あっても、
畿内の中臣連との関係は説明できない。
ただ『日本書紀』景行紀に豊後直入郡で神祀りした神が直入物部神・直入中臣神という記
述があり、古くか らの中臣氏と物部氏の関係を窺わせる。『古事記』神武編には神八井耳
命が「常道の仲國造の祖也」との記 述があり、多系中臣氏との係わりが疑われるが、これ
も立証は難しい。
中臣寺の存在から大和説もあるが、各氏族の氏寺は七世紀中葉以降各氏族が律令官人
化するに従い、本 拠地を離れ居住移転を繰り返し、それにつれ氏寺も移転する例は枚挙
にいとまがない。
また、氏寺は氏神と違い、一氏に一ヵ寺と限らず、また氏全体を代表するものではない。
例えば蘇我氏の場合、大化前代に建立された寺院は、
敏達十三年(五八四) 「於二石川宅一、修二治仏殿一」、
推古四年(五九六)に法興寺、舒明六年(六三四)豊浦寺、舒明十三年(六七一)に山田寺
と四ヵ寺ある。
このように、寺はあくまで個人ないし「家」が中心となり、氏全体に信仰が及ぶものではない。
②の職名説の根拠は『群書類従(⒂)』「中臣氏系図」である。
この資料は延喜六年(九〇六)に撰進され、その中の天平宝字五年(七六一)に撰氏族志
所の宣により勘造さ れた本系帳で、次のように述べられている。
高天原初而。皇神之御中。皇御孫之御中取持。伊賀志桙不レ傾。 本末中良布留人。
称二之中臣一者。復旧之由。惟其義也。
ここでは神(皇神)と天皇(皇御孫)との中をとりもつ義とされている。
また『家伝』(群諸類従)では
其先出二自天児屋根命一也、世掌二天地之祭一、相二和人神之間一、仍命二其氏一曰
二大中臣一。
ここでは「人神の間を相和す」ことから中臣と命名されたとしている。
『家伝』下にも
「世々天地を祭を掌り、神人の間を相和す、仍つて其の氏に命じて中臣と曰ふ」としるす。
中臣氏の伝承で、允恭紀にみえる中臣鳥賊津使主が、天皇と弟媛(衣通朗姫)との仲介を
する話、皇極紀に みえる中臣連鎌子が中大兄皇子と倉山田臣の女の仲立をする話、
大職冠伝の天智天皇が大海人皇子の狼 藉に怒って太皇弟を害せんとしたのを、
鎌足が諌止した話がみられるが、つまり鎌足は、天智天皇と大海人 皇子との間に立って、
仲裁的役割を演じたことになる。
この話は史実と思われるから、中臣氏の祖が神と人と の中を取り持つという物語は、
鎌足の時代か、あるいはそれに近い時期に作為されたと志田(⒁)氏は主張する。
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