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アカダマブログ
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少し旧聞になりますが、産経新聞奈良版(11/3付)「ニーズに即した観光を」によると

《奈良商工会議所は平成19年、観光ボランティアガイドを育成するため、全国的にも早い段階でご当地検定「奈良まほろばソムリエ検定」を始めた。こうした試みが、観光振興に貢献したと高く評価された》。 《「多様なニーズに即してガイドできる観光ボランティアを育成したい」。そう考えて生まれたのが、奈良まほろばソムリエ検定だった。平成22年の平城遷都1300年祭に向けた試みだったが、祭りの後も、最上級資格「ソムリエ」の取得者が県内各地で独自に活動。観光客の誘致に大きく貢献している。「今後も観光地の保存や活性化に取り組みたい」》。

私がソムリエ友の会の役員をやめたのはまさに、この友の会がボランティアガイド事業を中心として、推し進めるという方針に、私は適していないと考えたからです。

ソムリエの試験を受けたのも、決してガイドをやりたいからでなく、単に奈良が好き、奈良の知識を増やしたいと言うことが理由であり、人には適不適があります。

そんなわけで、ソムリエの合格者の集いで、たまたま知り合った人を核として始まったアカダマ会ですが、あくまでも交流、親睦そして同じ歴史好き、奈良好きの同好の会として今後も続けて行きたいと思っています。

今回は東大寺の上司永照さんを講師にお迎えして、お水取りの話を伺いました。

最初に「本に載っているような事は話さない』と言うことで食堂作法の、いわゆるおかゆである「ごぼ」の話、差し懸けの音を鳴らす作法など、本当に参籠した人からしか聞けない話を聞かせていただけました

永照師は声明の名手と言われておられ、その素晴らしい声で声明も聞かせていただけ、ホラ貝までも吹いていただくという熱演で、2時間があっという間に終わってしまいました。

来年のお水取りには是非また、行かせていただきたいと思います。

大変恐縮されていましたが、お水取りと言う行事には大変費用がかかり、いつも赤字だと言う話があり、奈良県民、いや日本人全体の悔過をしていただいているのですから、なんとか支えていきたいと考えます。

「風雨順時」。すべての気候が順調であること、そのことによって春が来る。

それが春を呼ぶと言われる「お水取り」の根本であり、「お水取り」はまさに春を呼ぶ行事であるということでした。

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奈良大学の同級生が茨木から正倉院に来たので、今日は柳生へご一緒しました。

最初に訪れたのは定番の家老屋敷。柳生藩1万石の家老、小山田主鈴の旧邸。となりの分家の屋敷、写真では左側は現在も人が住んでいます。

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次は柳生陣屋跡

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ついで芳徳禅寺36f7b254.jpeg、柳生家代々の菩提所で、開山は沢庵和尚。

紅葉がきれいでした。

奥には柳生家の墓所。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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次に、今日の目的地である天乃石立神社です。山道を上がると、巨岩がそそり立ち、まさに神のいます雰囲気を漂わしています。今日は訪れた人は我々のみ。

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最後は紅葉の園成寺で今日の旅は終わりました。先日石神のことを書いたばかりなので、どうしても天乃石立神社を訪れたかったので、今日は収穫の多い1日でした。

この巨石を目の当たりにして、古代人が石を神と感じることが実感できました。

 

 

 

 

前に山に対する崇拝を書きましたが、同じ自然物では石に対する崇拝があります。

「石神」「磐座」「磐境」といった言葉で表されます。

古代人は石や木も霊魂を持ち活動すると考えていました。

特に変わった形の石は神霊がこもると考えられていました。

石も成長したり、子を産んだりすると信じ、それでも石の永久に堅くて変わらないという特性を不思議なものと、とらえていました。

だから石神とは石そのものが神の姿ですが、また神聖な石には神が降りられる、あるいは神がお座りになるものとして磐座があります。

臨時に神をお祀りする場を、石で囲んだり、小石を敷いたりするのが磐境です。

すべては石には霊が宿るという根本概念から起こっています。

春日で言えば、春日大社本殿楼門前にあるさくで囲われた「赤童子出現石」も小規模な磐座であり、見ることはできませんが、春日大社本殿の下にも磐座があります。

水谷川神社の本殿の下にも同じような磐座があり、これは目にすることができます。

またこれも見ることはできませんが、御葢山の東半部中腹に帯状に連なる列石があり、御葢山の東半分にめぐらされていてこれは磐境と考えられます。

他に奈良では柳生の天石立神社のご神体は花崗岩の巨石ですが、これが石神です。

自然神ではほかに水神があります。

池神・沼神・河神あるいは龍神、また水分神社などがそれです。もちろん海の神もその範疇でしょう。

このように日本の神の源流たる自然神には、もともと固有の名前はありません。

本居宣長の言う「可畏きもの」(かしこきもの)が神です。

「出雲風土記」によれば、神祇官社184の中25、非神祇官社215の中3しか祭神が記されていません。

「延喜式」の神名帳のおよそ64%が祭神不明なのです。ところがこれが享保年(1717)ではほとんどの神社に祭神が書かれています。

どういうことかと言えば、記紀の皇統譜につながる神々を祭神として行ったのです。

社格を高めて、それに見合う地位あるいは、極端に言えば利益にあずかる事が目的と考えられます。          したがって現在の祭神から、神社の当初の形態を探ることは難しいのです。

今まで店をやっていた関係で、お客さんが来られた時に地元である私が見ていないと言うのも、話にならないので無理をしても行っていました。

でも、もう店をやめたし、それに先日行こうかなと思って博物館の前まで行って、行列におそれをなしたこともあり、今まで50回近く見ているので、今年はやめようと思っていました。

でも、奈良国立博物館に長年勤めておられたその道の権威ですある帝塚山大学の関根俊一教授の「正倉院と正倉院宝物」というタイトルの話があったので、タイムリーだし、めったにない機会ですので、おもいきって行ってきました。

帝塚山大学は初めてです。会場はやはりここも中高年でいっぱいでした。

内容は今回の展示品の8割がた説明をしてもらえたし、勤務していた人でないと聞けない話もあり行って良かったと思います。

正倉院の北、中、南の各倉は、年代測定法により間違いなく同時代に建てられたものである。

保存は校倉の役割でなく2重の木箱により一定の湿度が保たれたおかげである。

展示品の順番は決まりではなく、暗黙の了解事項で、第1番は北倉の聖武天皇の遺愛品を持ってくること、それも武器類は除く。

あるいは天保の修理の時絵図を作成したが、その時森川杜園も16歳で加わっており、絵図の作成にかかわっていたかもしれない。明治の修理で作成した杜園の鏡箱の絵図は残っている。

その鏡をいれた漆皮の技法は現在でも作成が難しい超絶した技法であることなど紹介されました。

そして今回の目玉である瑠璃杯は18年ぶりの出品、次回は早くても15年ぐらい後、したがって自分の年と相談して

今回行くかどうか決めたらいいと言われて、やはり行こうかなと考えました。

 

011.JPG和邇氏のことを書いていて、急に思い立って、和邇下神社に行くことにしました。

天理櫟本のバス停で降りると目の前に和邇下神社の鳥居があります。

鳥居をくぐってすぐ脇に公園があって、そこに柿本人麻呂像があります。

ここにはかって、治道山柿本寺があって、人麻呂の墓塚と伝えられる歌塚があります。

柿本氏は和邇氏の一族です。

 

 

 

014.JPG参道をまっすぐに行くと、急な階段が現れます。その上が和邇下神社ですが、なぜそんなに高いかと言うと、この神社は和邇下神社古墳と言う全長115mの古墳の円墳部の頂上に鎮座しているからです。

この和邇下古墳の東方丘陵上に30数基の古墳が分布していて、東大寺山古墳群と言われています。

おそらく和邇氏一族の墳墓だと思われます。

そのなかでも東大寺山古墳は丘陵上の最高所の位置していて、後漢の中平(184~189)の年号を金象嵌した環頭太刀が出土したことで有名です。

この古墳は天理教の教会内にあり、恐る恐る入って行きましたが、誰も人がいなく、どんどん奥まではいってようやく人がいて、その人の許可をもらって、やっとたどり着きました。

そこからまた急な階段を上って、ようやく山の上が東大山古墳です、わたしには墳丘の形は、全く確認できませんでした。

次にそこから和邇の集落を目指します。この集落の中に和邇坐赤坂比古神社があります。

『日本書紀』に言う「和邇坂下」の地です。

このように櫟本あたりには和邇氏のゆかりの神社や場所が、まだ残っています。

和邇氏には叛乱伝承はなく、逆に王権側に立って叛乱を平定したり、軍事行動に従事したりした伝承が多くあります。

そして数多くの皇妃を出している氏族です。

おそらく5世紀後半ごろに王権に完全に服属し、葛城氏にとって代わったと思われますが、やがては物部氏にのみ込まれて行って、その名を消したのではないかと思われます。

その古代氏族の名残の地がこのあたりです。

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