先生は寺沢 薫 巻向学研究センタ―長、もう7月、残りわずかとなりました。
内容は巻向のヤマト王権の成立についてです。
巻向学の第一人者である寺沢先生から直に講義を受けられるのですから、得難い機会です。
しかし、ここ3カ月授業を受けてきて、少し思っていた内容とずれを感じています。
やはり、必ずしも専門と限らない学生相手の授業、どうしても説明が多くなり、なかなか核心に触れません。
ここ数回は、魏志倭人伝を改めて読んでいます。
やはり、逆に20回近い回数があると、核心よりも周りを精密にたどることが多く、私自身も、
ここ1,2カ月はドイツ語に勉強の比重が傾き、ちょっと中だるみ状態です。
今日は7月のアカダマ会の講師をお願いしている、松田先生から宿題が送られてきました。
ここらで、ドイツ語から、また古代史に比重を移し換えて、しっかり古代史の勉強に取り組みます。
NHKの歴史秘話ヒストリアと言う番組で、邪馬台国、卑弥呼の特集が組まれていました。
こういう番組がゴールデンタイムで、お茶の間に届けられるというのは、如何に国民の間で歴史、特に邪馬台国や卑弥呼の対する興味が高まっている表れかと思われます。
テレビ番組ですから、内容は総花的で、深いものではありませんが、福岡の平原遺跡からでた内行花紋鏡が伊勢神宮の御神体の可能性があるとか、古墳の上で行われた神事についての話は、まさにアカダマ会で,2回にわたって穂積氏によって話していただいた内容であり、
そして番組にゲスト出演されていたのが、私が今、奈良大学で聴講している寺沢薫先生ということで、大変面白く見ることができました。
この番組を見て、ブログの内容は、学会の発表ではないのだからこういった取り上げ方でいいのかと気付かされました。
古墳の上で行われた神事については諸説ありますが、古墳の存在理由にも係わる大事な問題ですが、決定的なことはわかっていません。
神道考古学というのは、遺跡から出る遺物からどんな神事が行われたかの内容については結局想像するしかないことになります。
割り竹木簡の周囲にある柱穴からその上におそらく建物があったことはわかりますが、そこで何が行われたかは謎のままです。
一つには、僻邪、ようするに外部から来る悪霊を防ぐ。もう一つは、もちろん供養であり、墓前祭礼。そして番組でも取り上げられた首長霊継承儀式です。
番組では、九州の伊都国から巻向へ、女王が移ったということに触れていました。
巻向はとにかくヤマトに突如として現れ、そしてわづか100年ほどで消滅したまさにミステリアスな都市です。確かに九州から移ってきたと考えてもいいかもしれません。
伊勢神宮の創設時期はこれも確定できませんが、やまと王権と深いつながりがあることは確かです。
御神体は天照の身代わりであり、今に至るまでの大切な神宝です。
とにかく、この番組からまた、いろいろ考えさせられました。
今回のアカダマ会は斎宮歴史博物館調査研究課主幹の穂積宏昌氏に再度お越しを願って、
「伊勢神宮の成立について」のテーマでお話をいただきました。
最初に文献上に表れた伊勢神宮の成立の記述について丁寧に拾い上げ、
一つづつについての詳細な解説をいただきました。
その上で、そうした文献に基づいて展開されている先人の諸説の紹介並びに解説。
つづいて、氏の専門である考古学の立場からの視点で解説と、実の詳細多岐にわたる話を展開され、今回も全く、驚きの連続と言うか、新しい視点を多く提示いただき、多くの刺激と知識を得ることができました。
詳しい内容について興味のある方は、講師の著作であるこの本をご覧になってください。
雄山閣 2013 『伊勢神宮の考古学』
私としては今回の話の中で、特に興味をひかれたのは、本筋ではありませんが、伊勢の海上交通の拠点が、
伊勢湾を横断する場合、伊良子度合と呼ばれる潮流の速い難所があり、斉明6年(660)百済支援のため造らせた船が寄稿した港が伊勢湾の内側、斎宮近辺の「麻続野」(多気郡)であったという指摘。
この記述から的潟と推定した点です。つまりヤマト政権の東方経営の拠点は伊勢ではなく、伊勢湾を松阪周辺となります。
このことは、ヤマトと東国とのルートを改めて見直す必要が感じられます。
何故これにこだわるかと言えば、私の生涯のテーマである鹿嶋から春日へのルートと重なるからです。
このことに関しては、まだ整理がついていませんから詳しくは書けませんが、大いに刺激を受けました。
それにしても、今回の話も内容が多岐にわたり、実に深いものでした。
当然のことながら、私自身の勉強不足を痛感させられた1日でもありました。
「日吉館は日本の伝統の美術・芸術・学問を眼のあたりに見ることの出来る、日本で一番誇りのある古都、奈良の中に静かに在る建物です。
ですから、ここは普通の旅館ではありません。奈良を愛する学徒が学び憩う場所です。
随分昔から日吉館を訪れ語り集まった人々は、学者であり、作家であり、詩人であり、研究家であり、若々しい学生であり、奈良を好きな働く人々であったのです。
昔の人々は、隣の部屋に心の合った友達を見つけて、奈良の古美術について語り合い、それから人生や世界の動きについて語り合い、最後に再び”奈良はいいなあ、大事にしたいものだ”と言い合いました。
日吉館は、そういう友達との出会いを創ってくれる場所でもあるのです。
ですから、もうおわかりでしょう。日吉館では、ふるさとの母の家へ帰って来た時のように、過ごせばよいのではないでしょうか。
第一に、お酒を飲んでわいわいさわぐところではありません。
お若い人々へは、九時~十時過ぎまで帰って来ないことのないようにお願いします。お母さんが心配するように日吉館は心配しますから。お風呂へ入る時は順番に上手に入りましょう。
お風呂のお湯をひどく汚すことは、あとで待っている友達を悲しませます。
たくさんの人が泊まるのですから、履物は自分で出し入れしましょう。
お布団も、小ざっぱりたたんでおけば、朝の支度もしやすくなりましょう。
日吉館での娯楽は、静かに楽しめる碁、将棋にとどめましょう。明日は、もっと私たちの心を楽しませてくれる、素晴らしい美術・建造物・自然が待っているのですから。
日吉館にはサービスする女中さんは居ません。わざとおいていないのです。
お茶がほしい時は、気楽にお台所の所まで来てお頼み下さい。すぐお湯を沸かして美味しいお茶を届けてくれます。また玄関先で、静かに飲むのもよろしいものです。すぐ友達が出来ます。
こういう建物が、もし奈良に無くなってしまったら、古美術を愛する人々は、高いお金をとられて、やたらピカピカする、どこかへ泊まらなければなりません。
日吉館があるために、貧しくとも学問・芸術の研究のために滞在できた昔の学徒たちの思いを、はじめて日吉館を訪れた方々へ、お願いせずにはいられないのです。日吉館がいつまでも、このままの姿で、静かに在
るように、若人の勉強する場所でありますように、と。どうぞ、その歴史を受けついで、奈良の日吉館に憩
う学徒の誇りをお持ちください。」 日吉館を愛する者一同
私は1962年に第一文学部美術専修に入学すると、奈良美術を生涯の研究テーマと決め、奈良行きをはじめた。それは新幹線の登場前のことで、関西線経由湊町行きの夜行列車「大和号」に乗車し、翌朝奈良に到着。駅で洗面して登大路の日吉館まで直行した。 文学部の美術研究室で、奈良には美術・建築を研究する学者や、画家・小説家の芸術家たちが古くから泊ってきた日吉館という旅館があって、會津八一先生も大 正時代から常宿とし、先生が揮毫した看板もあるという話をたびたび耳にした。どうやら日吉館は奈良を愛し、奈良の風光や美術、文学にあこがれた人たちの常 宿らしい。 |
玄関のガラス戸を開けて、「ただ今」と声をかけると、小母さんが「お帰りなさい」と迎えてくれる。これが日吉館伝統の客と女主人の最初のセレモニーであっ た。女主人の田村キヨノさんを泊まり客が親愛を込めて「小母さん」「小母ちゃん」と呼んだ。一日中斑鳩や飛鳥を歩き回り、夕方日吉館へ戻ると七厘の炭火で 食べるスキヤキが待っていて、見ず知らずの人と一つの鍋を囲む。夕食が終わっても寝る部屋が決まらない。はじめての人と相部屋になったが、奈良の好きな人 ばかりですぐに打ち解けた。
文学部美術史コースの奈良実習旅行は80年前に會津先生がはじめられ、私が教師になったころもまだ日吉館に泊っていた。1997年の秋に奥島孝康総長から小母さんに感謝状が贈られたが、小母さんはもういない。日吉館の建物も取り壊された。諸行無常である
早稲田大学文学学術院教授 大橋 一章
ここのところ、アカダマのことについて、思い出す機会があり、
そうした中で、日吉館についても語ることがしばしばありましたので、
改めて日吉館についてこの機会に書いておきます。
登大路を東に上がって行くと、博物館の前に「日吉館」(1914~1995)という宿がありました。
1972年にはNHKで「あおによし」という番組があり、この旅館が紹介されたこともあります。
その建物も既に取り壊され、今はテナント募集中の空き家となっています。
會津八一が愛し、その八一を訪ねて奈良を愛する多くの文人、学者がこの宿に集いました。
また八一が早稲田の学生を連れて毎年のように訪れたことから、早稲田の古美術のゼミや古美研が以後も毎年のように宿泊した宿でもあります。
この宿は奈良の古社寺、古美術を訪ね長期滞在する若者たちに、時には実の祖母のように慈愛に満ち、時には厳しく接し、皆に日吉館のおばちゃんと親しまれた田村キヨノさんの存在抜きでは語れません。
この宿で、多くの奈良を愛する人々の交流が生まれ、育って行きました。
おばちゃんに認められた人は、奥の座敷に通され、若者はいつかはおばちゃんに認められてあの奥の座敷に通されるようになりたいと、勉学に励みました。
おばちゃんは、一刻も早く宿を出て、時を惜しんで、奈良を回れという気持ちで朝、若者がいつまでも宿に居ることを許しませんでした。
時にはアカダマは、そうして宿を追い出された日吉館のお客さんが朝に、1日の行動を打ちあわせたり、夕刻にはその成果をお互いに報告し合う場でもありました。
そうした若者の姿を目の当たりにしていた私も逆に、奈良について目を開かせられることが多くありました。
日吉館と言えば、安い宿泊料にもかかわらず提供される豪華な夕飯のすき焼きが有名でした。
私は奈良の人間ですから、泊ることはありませんでしたが、そのすき焼きは何度も御馳走になりました。
と言うのは、私が所属していた南都楽所では毎年1月15日が舞楽始めでそれが終わって、日吉館で新年会を開くのが恒例になっていました。
今では骨董品と言うか、目の当たりにすることはない、炭火の七輪の上でのすき焼きです。
今それを屋内でやれば一酸化炭素中毒で倒れる人が続出かもしれませんが、日吉館は大丈夫です。なぜかと言えば自然に十分な換気が行われたからです。
早い話が隙間風がはいるからです。座敷は自然な傾斜があり、寝ているうちに自然に転がって行くという話もありました(笑)
でも、日吉館に泊まる人にとっては、そんなことは問題ではありません。その醸し出す雰囲気がすべてだからです。
今奈良には残念ながら、日吉館も、アカダマもすでにありません。
奈良を愛する人々のために、今の時代に合ったこうした場所が、いつかまた出来ることを切に祈ってやみません。
日吉館をよくあらわしている文章を参考のために掲載しておきます。
最初は日吉館のお客さんが、自主的に日吉館に宿泊する後人のために書いた文章です。
後の文は、現在早稲田大学大学院教授である大橋氏の若き日の日吉館の思い出です。
先日図らずも、大橋先生には電話でお話しする機会を得ましたが、この文章を掲載する許可はいただいていませんが、できれば事後承諾で願います。
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