リューデスハイムです。
ワイン酒場や土産物店が軒を並べる細い路地がつぐみ横丁。
酔っ払っても道幅が狭いので決して倒れないとか、ツグミがちょっと歩いて
すぐ止まるように店に立ち寄るところからこの名がついたよう。
父なる川(Der Rhien)ライン川はスイスに源を発し、
フランスとドイツの国境を流れ、オランダを通り北海に注ぐ長1230kmという、
日本列島がすっぽり入る長さです。
ドイツに入ってから1kごとに数字が表示されています。
有名なローレライは554.
ビンゲン・リュデスハイムからコブレンツまで世界遺産として登録されています。
差いよいよ乗船です。
ここからザンクト・ゴアールまで1時間半の船旅です。
この船はホテル船。欧米人はこうしたホテル船に乗って何日もかけてあちこちに上陸しながら
ラインを下ります。
ここらがゆったりと旅を楽しむ欧米人と、せかせかとあちこち名所を駆け回る日本人の旅に対する考えの大きな違いです。
ライン下りのスタート地としてはナーエ川がラインに合流する地点にある
ビンゲンという町が有名です。
今回はまずその対岸にあるニーダーヴァルトの丘に登りました。
そこにはドイツ統一ウィ記念した女神ゲルマニアのぞうがたっており、
その丘からはライン川が一望できます。
丘から船着き場まではロープウエイが通っています。
フランクフルトはドイツの空の玄関にあたります。
関空からも直行便が一日一往復あり、多くの人がここからドイツに入ります。
正確にいうと、フランクフルトアムマイン。
ライン川の支流にあたるマイン川沿いに7世紀ごろにできた街ですが、アムマインと言うのは、
もう一つフランクフルトオダーという町があることから区別するためです。
なぜ同じような名前があるかと言えばフランクフルトという意味が、フランク族が、フルトに建てた街、フルトは川の浅瀬の意味で、マイン川のそばにフランク族が建てた街。
もうひとつもフランク族がオーダー川のほとりに建てた街ということです。
さてそのフランクフルトは人口が約70万。
今やドイツの金融の中心地、そしてメッセの町でもあります。
下の写真がそのメッセにあるメッセタワー。日本の領事館もこのビルにあります。
一方で、戦争で徹底的に破壊された古い町並みのレーマー広場も、復元しています。
そしてやはり戦災で壊れたゲーテの生家も復元され疎開されて無事だった家具調度品とともに
展示され、博物館として公開さrています。
8月22日から9月5日まで15日間ドイツへ行ってきました。
日本では8月は天候不順で広島の豪雨災害もあり、まだ酷暑の夏。
ドイツは緯度で言えば樺太ぐらいにあたる北国。
行く前に調べていると、大体最高で20度、最低では10度を切っている日もあり、
夏の国から、秋たけなわの国へという感じ、果して何を着ていけばいいのかかなり迷いました。
南のミュンヘンから北のハノーファーまで移動するので、旅行の場合は滞在中の温度、気候は運次第と考えたほうがいいでしょう。
さて、初めてのドイツは予想以上に素晴らしい国でした。
ドイツは日本と同じく第2次世界大戦の敗戦国であり、国土は徹底的に破壊されました。
戦後、日本は火災では完全に消滅する木の家のリストラクチャを図りましたが、石作りが基本のドイツは教会も城も、ラットハウスも個人の家も、できるだけ昔のままで復元する方法を根気よく取って行きました。
そして現在、多くのドイツの街々の家々は、全体としてまるでおとぎ話に出てくる家のようなきれいな景観を作り出し、町は昔の面影をほぼ取り戻していました。
日本では焼失した各家々がてんでんばらばらに立て直した結果、昔の景観は思い出すよすがもないほどに変貌し、どこの町へ行っても中心部はほとんど個性のない味気ない町となってしましました。
ドイツへ旅行して、日本は大変な失敗をおかしたと考えさせられました。
初めてのドイツ、まさに私の個人的感想の旅行記をしばらく続けようと思っています。
写真はライン河畔の古城、ドイツではどこにでも誇らしげに、国旗が掲げられ、その点の同じ敗戦国日本との違いが感じられます。
蘇我氏については、稲目以前にはほとんど記述がなく、稲目が初代である可能性が強く、蘇我氏は渡来人であろうといわれています。
一方乙巳の変のもう一方の中臣氏も渡来系であろうという指摘があり、鎌足自身が渡来人である可能性も排除できません。
ことにあたって古人皇子が発した「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉。
普通に読めば鎌足が韓人にあたります。また鞍作という姓は渡来人のものです。
結局その当時政治の中心にいた知識人は渡来人であるということが、その背景にあろうかと思います。
大陸から渡来してきた人々については大きく時代が2つに分類されます。
7世紀後半の百済・高句麗滅亡に伴う朝鮮半島からの亡命者あるいは難民と、4世紀以前の朝鮮半島、中国大陸からの渡来人です。
数の上では4世紀以前が圧倒的で、その数は研究者によっては数万人から数百万と、かなりの開きがありますが、その当時の日本の人口からすれば、驚くべき多数の渡来人が海を渡って日本にやってきたことは間違いありません。
7世紀以降の渡来人は、私は日本国の政治が安定してから、日本に自らの意思で移住してきたのですから帰化人という言葉のほうが適当と考えます。
その来方も平和的と言えます。
ところが4世紀以前は、数からいっても必ずしも平和的にやってきたとは言えません。
無人の荒野ではなく、すでに人々が暮らしている場所に海の向こうから、押し寄せたわけですから、当然のごとく摩擦が生じます。
日本書紀や古事記にも渡来人に関する多くの記述はありますが、平和的な移住者として書かれていますが、これは7世紀以降の渡来人に関する記述です。
風土記では違います。例えば新羅の王子である天日桙が葦原志許命(大国主)と争って上陸したとか、神前郡では伊和大神と軍を発して相戦かった。
また新羅の客人が地元の石神の玉眼を抉り取り、怒った神によって全滅させられたとか、
上陸、通過にあたって地元民と多くの争いがあったことを書いています。
古代の渡来人は我が国に技術、芸術、思想など平和的な文化交流をした一面、倭人社会に緊張と不安を引き起こし、倭人との間に多くの確執を起こしました。
記紀の編集にあたっての大方針は天皇の万系一世の由緒をただすことであり、ことさら渡来人との騒乱を取り上げることはありません。
そのことにとらわれない風土記は、その当時にあっても、もはや伝承でしかない民間の古い記憶をそのまま拾い上げて載せていると考えられます。
なにが言いたいかと言えば、弥生時代の倭国の騒乱の大きな原因の一つが渡来人であり、
巻向に突如として出現した都市が邪馬台国であるとすれば、豪族に擁立された卑弥呼が都を大和に置いた理由が大陸に近い九州から渡来人を避けるためと考えられるということです。
いつの世も国がまとまるのは外敵の脅威です。都塚古墳から一挙に邪馬台国まで思いをはせてしまいました。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |