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今回のアカダマ会は奈良市が買い上げ保存修理をした上
 
[奈良町にぎわいの家」として4月から公開されることになった
 築百年の古民家の見学をしました。

「にぎわいの家」では奈良町づくりセンターの理事長に内部を詳しく解説いただきました。

見学の後はすぐ近くにあるこれも古民家の奈良町物語館に場所を移して
例会を開催しましたのでこれを機会に奈良町と元興寺についての係わりを
少し書いておきます。
奈良町物語館では。おりから寄せ植展も開催されていて賑わっていましたが
何れの建物も奈良市から委託を受けた奈良まちづくりセンターの手によって運営されています。


 

仏教伝来から50年以上にわたって繰り広げられた崇仏派の蘇我氏、
廃仏派の物部氏の間で政治権力と絡めての闘争は物部守屋が撃たれ、
蘇我馬子が政界を牛耳る形で終わり仏教が日本に定着することになりました。

この仏教導入を巡る争いでは、物部氏に同調した中臣氏は存立の危機を迎え、
中臣勝海が殺された結果、中臣宗家の交代があった可能性、
あるいは鹿島の物部氏の領地が没収され中臣氏に移った可能性等、
春日社創立とも関わる問題が秘められていますが、このことは今はさておき、

元興寺の歴史はこうして仏教がようやく定着し、崇峻天皇元年(588)に飛鳥の地に
「仏法元興之場、聖教最初之地」と称えられ法興寺を起こしたのが始まりとされます。

その地は現在の飛鳥寺・安吾院を中心とした場所であることは、
発掘調査でも明らかになっています。

元興寺という名前については、『日本書紀』に法興寺、元興寺、飛鳥寺の名が
随時同一寺院に対して使われ、『続日本紀』には元興寺と法興寺を平城新京に移したことが
2年を隔てて記載があることからやや混乱していますが、
奈良朝以前にできたと確実に考えられる資料には元興寺の呼び名はなく、
平城京に法興寺が移されて後、これが元興寺と呼ばれ、飛鳥に残った寺が
本元興寺とよばれたことからが元興寺と呼ばれる始まりと考えられます。
 
法興寺の呼称が何時命名されたかについては、確かなことはわかりません。
 
一方
飛鳥寺という呼称については同寺異名であることは間違いなく、
当時正式の寺名とその所在地名を取った呼称が並び用いられたのは普通であって、
法隆寺の斑鳩寺、法起寺の岡本寺等、
枚挙にいとまがありません。
 

当初は蘇我氏の私寺としてその権威と財力を傾けて建立された元興寺ですが、
大化の改新で蘇我氏が没落し「然元
為大寺而官司恒治」と
朝廷の援護で官寺化されていきます。


やがて和銅3年(710)都が平城京に遷されたことから、
元興寺としての歴史が始まるのですが、
これは決して順風満帆のスタートではありませんでした。

平城京は藤原氏の主導のもとに行われたことから、その氏寺である興福寺は
厩坂からいち早く移されます。
天武天皇の代に着工された大官大寺も移され大安寺となり、
天皇家の祈願の寺である薬師寺も天皇家の移転に伴って当然移されました。

しかし飛鳥の四大寺の一つであった川原寺はついに移建されず、
元興寺も当初
「帝都遷平城之日、諸寺随移、件寺(元興寺)独留」と
飛鳥の地に留め置かれ藤原氏の氏寺興福寺とは対照的な扱いを受けます。

しかし、飛鳥地方に依然として勢力を持っていた旧勢力を代表する形で、
やや遅れて、養老2年(718)にようやく「遷法興寺於新京」と、
名前を元興寺と改め、飛鳥の地名と共に平城に移ります。

寺域は左京四・五条の七坊。興福寺の南に接し、東南に紀寺、西南に葛木寺があり、
南北四町、東西二町の規模を有しました。
 
梅原 猛氏によれば、その場所が意図的に
 興福寺の眼下に見下ろされる一段下がった地であり
このことが元興寺の立場をよく示していると書かれています。

確かに興福寺は、はるか平城京を見渡せる高台に谷を埋め造成された一等場所に
位置するに対し、その南の低い場所にやや起伏のある地形にそのまま建てられた元興寺に
藤原氏に意図がうかがえると言えるかもしれません。

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このブログを書いていて、思い立って辰市神社と時風神社を訪ねることにしました。
 
こういっては何ですが、それほど拝観すべきものもない神社ですが、
春日社の歴史を調べる上では是非一度は行く必要もあります。
 今回はちょうどよい機会と、意を決して訪ねることにしました。
『古社記』が伝えるところによれば、
鹿島から神が奈良に到着された折に随行した中臣時風・秀行が
神に住まうところを訪ねたら、神が榊を投げその落ちたところに
住むようにとの託宣があり、その場所が平城左京八条二坊五坪の艮の角、
現在、この時風神社・辰市神社のあるところというわけです。

春日大社からは直線で約五キロほど、その距離感を知る上でも、
御蓋山のふもとから、あえて自転車で出かけました。

適当にその方角を指して出かけて近くまでは難なくたどり着きましたが、
肝心の神社がなかなか見つからず、何人かに尋ねてようやくたどり着け、
結局所要時間は1時間以上かかってしまいました。

 やわな現代人と古代の人がその距離感が違うでしょうが、
いくら非常勤であっても、通勤するには余りにも遠すぎるというのは実感です。

大東さんも書いておられるように、この場所は春日の神領であり、
その管理を兼ねながら、辰市・大東家が住みつき、神社はその神領の
鎮守社であったのを家祖を宣揚するためにそういう伝承ができたと
考えるのが妥当かと思えます。
 
  

辰市神社の社殿は、『春日社記録』建久8(1197)の条によれば、
春日大社末社の木宮社
(紀伊社)の旧殿を譲与、
嘉禎
2(1236)の遷宮にも本社第二殿を拝領とあります。
天正年間に戦火で焼失し、現在の社殿は寛政10年(1798)の再建とのこと。
嘉禎2年と言えば、第23回の式年造替,建久8年は第21回の式年造替での
払下げかと思われます。
現在の住所は杏町ですが旧の辰市村です。


 
社殿は南面していて、その南、道を隔てて時風神社があります。
祭神は武甕槌命・経津主命 神宮(こうのみや)とも呼ばれます
  
時風神社の祭神は時風・秀行です。
  
こちらは東面して社殿があります。

 現在は西九条町ですが、こちらも旧辰市村です。
社の向きは創建時と同じかどうかはわかりませんが、
御蓋山は方向は北東になりますから少しずれていますので、
向きは遠く故郷の鹿島を向いているのでしょうか。


 そこから東へ50mほど離れて倭文神社が
                                                                                        あります。
 
こちらも向きは東面です。

「倭文神社」「しずりのやしろ」とか「ひずりのやしろ」と呼ばれていたようです。

 鎮座地は西九条町二丁目142
 
こちらのご祭神は武羽槌雄命・経津主命・誉田別命 
  武羽槌雄命と言うのは、あまり聞きなれない神様ですが
 『日本書紀』第9段の一書に
 


「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を
天香香背男(あまのかかせお)と曰う。
請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。
是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。」
記述がある。
これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので
上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
  
 
このように、常陸の国に武御雷の神が来られた時反旗を翻した香香背男を
武御雷の代わりに討ったのが武羽槌雄命で、鹿島大神の先駆の武将とされ
武の神です。

 
武羽槌雄命は、天羽槌雄命と同名で織部の神で、倭文氏はその後裔であるとされ、
 辰市郷に住んで神衣を織ったと伝えられています。
 わたしはその伝承は後から付け加えられたもので、本来故郷である鹿島で
 ともに祀られていたことから、春日の神領であるこの地に中臣氏の守り神として共に
 祀らていると思います。

今回訪れてみて、この辰市の地が中臣氏の管理した春日の神領であり、
時風神社・辰市神社にまつわる伝承は、のちの世に、祖霊を顕彰する意味で
できたものという、大東氏の見解が妥当であると確信を強くしました。

 

 

 

 

社家は当初すべて中臣姓であったわけですが、やがてその区別の意味もあり、
地名を苗字化して、辰市郷に住む中臣氏は辰市家と呼ばれ、

大東家は、鹿島から随行してきた中臣氏が東家であったため
そこから派生して大東と呼ばれと考えられています。
同じく中東家もその住む場所から、大東家と区別して中の東と呼ばれた
と思われます。

千鳥家については、代々有名な歌人を輩出した家柄で「玉葉集」に入選した
和歌にちなみ「千鳥」としたと伝えられています。

その他の社家も各家の位置や方角にちなんで、
奥・西・中・南・北・上・辰巳などの名字がつけられています。

 

大東・辰市の両家が当初正預と呼ばれていたわけは、
藤原氏の氏の長者から、春日社を、お預かりして日常の社務に従事する役職で
あることを意味しています。

神主も神社の神官という一般的な意味とは少し違い、
当初は春日祭に際して、神祇官から勅使と共に派遣され
天皇の宣命を奏上する役儀でしたが、
後に常大中臣氏が常勤の神主に任命されたのが始まりです。


このように由緒ある社家ですからその社録も高く、江戸時代には
神職としての雑収入を含め100石を超えていたと考えられます。

従ってその屋敷も、泉水なども備わった立派な物でしたがそれらすべてが、
明治の官社化で多くが離散し、明治で19軒を数えた社家屋敷も
その多くが空き家となり、大正時代にはすでに、滅びの美の象徴である
崩れかけた土塀を残すのみの廃墟となってしまい、
今はわずかに数軒が
昔の面影をとどめているにすぎません。
前回の写真は今も尚昔の社家の面影を残す数少ない屋敷のひとつで
今は森精機の所有となっています。
 

 

その他の屋敷跡の多くは現在は空き地のまま放置されています。

私は長らくこれらの土地の存在を不思議に思っていましたが、
先日ふとしたご縁で、代々の春日の禰宜家の子孫の方にお話を聞く縁があり、
これらの土地が、多くは旧社家屋敷であり、子孫が相続したものの、
特別風致地区のため建物を建てることがかなわず、利用もできにないため
そのままになっているということを聞き、納得した次第です。

 

このように多くの社家が神社を離れましたが、大東・千鳥の両家では
戦後も尚引き続き春日大社で神職を務め、先代は権宮司まで勤められました。

私は、お二方とは面識もあり、今にしてもう少し昔の話を聞いておけば
と後悔しています。

先代の大東延和氏は奈良県庁に奉職された後、
春日大社の参事として多くの著作を残され、
私のこの文章も多く氏の本を参考にさせていただいています。

また先代の千鳥権宮司の息は現在も春日大社で奉職され
千年を超える家職を守っています。
なお、枚岡神社の宮司で前春日大社権宮司の中東氏については、
ご本人にお聞きしたところ、社家の中東家との係わりはないとのことでした
 

その他社家ではありませんが、春日の旧禰宜家である梅木氏は
現在は漢国神社をはじめ数社の宮司を兼任され、
大宮氏は氷室神社の宮司と、神社は違えども神職を続けておられ
ていて、奈良の悠久の歴史が今も尚,息づいていることに感銘します。

 
 高畑大道にあちこち見られる空地は かっての社家屋敷が
 明治で廃絶した後、手つかずで放置されているものです。

 

 


一般には社家とは代々その神社に奉職する家柄という意味で使われていますが
春日大社の社家とは『古社記』が伝える鹿島大神に供奉して上洛した
中臣殖栗連時風・秀行の子孫が相承する正預家辰市・大東両家の子孫と、

元慶2年(867)に神祇官人大中臣氏が来任して神主となった大中臣(中東家)、
さらに保
元年(1135)に若宮が創建されて若宮神主職となった千鳥家、
そこから分かれた分家を加えた数件を社家と呼びます。

社家の祖とされる時風・秀行が実存の人物であるかは、伝承の世界ですから、
確認できませんが、鹿島から神を勧請した際に同行する役儀の神官がいたで
あろうことは間違いありません。

その『古社記』が伝えるところによれば、鹿島から神が奈良に到着された時に、
時風・秀行が自らの住むところを伺ったところ、神が手に持った榊を投げ、
その落ちたところに住めとの託宣があり、それが平城左京八条二坊五坪の艮の角、
現在の杏町であったと伝えています。

 

春日から直線で約5キロとそんなに遠くまで飛ぶわけがないと言った理屈はさておいて、
少なくとも平安時代には、神社から相当離れた土地に住んでいたことは事実です。

このことは、古代の神職は非常勤であったことを示唆します。

私は随行してきた中臣氏の身分が、さほど高くなかった表れではないかと考えます。

 

平城京において身分の高い貴族ほど、平城宮に近い場所に居宅を構え、
下級役人ほど遠く離れた場所であったことはよく知られています。

 

鹿島郡に少なくとも7世紀には中臣氏が存在し、神宮司と郡司職を兼ね地域支配をしており、
しかも中央の中臣氏との関係があったことは、私の卒論でも考察したところです。

 

そこから、中央の中臣氏が仏教導入を巡る争いで失脚し、
中臣宗家の交代があったのではないかと考えましたが、
この時鹿島から随行してきた中臣氏が、その居住地として、
宮から遠く離れた場所を与えられた事実は、都において鹿島の中臣氏の地位が
さほど高くなかったとも考えられ、この仮説も見直す必要があるかもしれません。

余談はさておき、鎌倉時代以降に、神主大中臣氏が野田郷に定住し、
正預中臣氏が高畑郷に移住したのにちなみ、
神主方を北郷。正預方を南郷と通称するようになり、
近世にはいると南郷に混在して北郷の社家も高畑に住むようになりました。

辰市・大東家は春日本社に最も近い下の禰宜道(現ささやきの小道)の入り口あたり、
千鳥家は若宮に近い上の禰宜道の入り口に位置し、その分家や禰宜家の多くも
そのあたりに移住し、社家町が形成されていきました。

明治の官社化によりその職を追われた多くの社家が、高畑を離れましたが、

 

千鳥家は現在も昔のままの場所にとどまり、大東家は場所は少し移動しましたが、
やはり高畑にその居宅があります。

 

堀辰夫は奈良を「長い年月の間にほとんど廃亡に帰し、自然のうちに溶け込んだ廃墟」と言いそこに底知れぬ魅力を感じ、志賀直哉は「名画の残欠が美しいように美しい」と奈良の滅びの美を称えた。

会津八一も高畑でその崩れかけた土塀を歌に詠んだが、そうした滅びの美の象徴といえる崩れかけた土塀がここそこに見られるのが、かって志賀直哉も居を構えた高畑の社家町です。

 


 


社家については稿を改めてまた書きますので、ここではそのことに踏み込みまず、
社家町としての高畑についてのみ書きますが、高畑が社家町になったのは
春日の創建時からではありません。
記録でみる限り鎌倉時代中期以降のことです。
当初社家町は春日社の参道を挟んで南側の高畑を南郷。
北側の野田(現在の公会堂あたり)を北郷と呼び多くの社家がそこに居を構えていました。
明治の記録では社家は19家、そしてその分家や使える根宜や神人を合わせ数十軒が軒を連ねていたと考えられます。
これらの社家の通勤路として高畑から春日へ、東から上・中・下と3本の山道があり、
その存在は鎌倉時代の記録にも残っています。
その一番下手の道は現在「ささやきの小道」と呼ばれ親しまれていますが、
その道の入り口あたりには,社家の中でも由緒の高い辰市・大東家が居宅を構え
このあたりが南郷の中心部でした。
志賀直哉の旧居はこの近くにあります。

社家町としてばかりでなく、奈良の東山中から奈良市街への街道としても栄えたこの町が
何故、奈良の滅びの廃墟の象徴となってしまったか?

皮肉にも明治政府の国家神道、神社の官社化がその背景となります。
明治に至るまで、南都の社寺は合計で3万石の朱印領を受け、興福寺の2万石は別格としても
春日も八千石余りの社領を受けそればかりではなく、摂関家からも多くの寄進を受け
多くの神人を抱えていました。
明治のご一新については、奈良では廃仏毀釈で寺の被害は多く語られますが、
実は神仏分離で神社にも大波乱がありました。
興福寺の門跡をはじめ寺僧数十人が春日に参仕することになった上、官幣大社として
官社化された結果、神職に定員制が引かれ、旧社家や禰宜のすべてが解任されて
社領は上知令によって没収。
こうして、多くの社家の屋敷が無住となり、荒廃の一途をたどった結果
志賀直哉や、会津八一が目にした崩れかけた土塀に落箔の気配を漂わせた
高畑が現出した次第です。

私が心配するのは、社家町の風情を今に残す崩れかけた土塀は、
文化財として全く保護の対象とはならず、荒れるに任されていることです。
土塀の維持管理には、家屋敷の保全より多くの金銭がかかります。
家主には、それにかける費用に対する援助はないうえに、
塀を修理しても住まいの快適さには全く寄与しないという葛藤があります。
今や行政にも予算の余裕がないこともわかりますし、だからと言って
このまま、高畑の土塀を手をこまねいて消滅させていってもよいのか?
正直私にも解決法はわかりません。

 
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