category:From マスター
3世紀の中ごろ大和に突如として、巨大な前方後円墳が築かれました。
やがて4世紀の中葉以降になると、その場所が大和盆地の北部わゆる紀古墳群、
あるいは馬見丘陵に移り、やがて4世紀末から5世紀になると大和盆地を出て、古市、百舌鳥古墳群へと場所を変えます。
目下のところその理由は未解明です。でも、別の権力が新たに発生したのではなく移動と考えたほうがよさそうです。
いずれにしろ この古市、百舌鳥古墳群の中心的時間帯は5世紀です。
中国の「宋書」に421年から478年に登場する倭の5人の王たち
(讃・珍・済・興・武)の5王の墳墓が、この古市・百舌鳥古墳群の中にあることは
間違いありません。
どの古墳がどの王にあたるかは、まだまだ論争があります。
明治の比定も決してでたらめになされたわけではなく、
その当時の資料に基づき真剣に定められたものですが、今は多くが間違いであることが指摘されます。だからといって、まだどれも確定したわけでもありません。
仲哀天皇陵とされる岡ミサンザイ古墳、墳丘の長さ242m、幅182m
古市古墳群の中で3番目の大古墳です。
埴輪の形状から5世紀後半と考えられています。
天野さんは、この古墳は倭王武の古墳であろうと推定されています。
仲姫皇后陵古墳(仲津山)全長290m古市古墳群の中で御応神天皇陵に次ぐ大きさです。
応神天皇の后である仲姫の陵と比定されていますが、
4世紀後半の築造と推定され少し年代が合いません。
私は歴史時代と呼ばれる文献が残っている時代が一応専門で、
それ以前のことは詳しくありません。
全くの素人として、この巨大古墳に費やされた労力は一体何のため、
何の必要があったのか改めて疑問を感じます。
首長霊の後退儀式のためとか、首長の権威の誇示だとか言われていますが、
いまひとつ腑に落ちません。現代人の感覚で考えてはだめだとは思います。
允恭天皇陵(市野山)古墳。全長230m古市古墳群の中で4番目、
全国で19番目に当たる
大古墳です。これらの古墳は土師氏と呼ばれる技術者集団がかかわりました。
藤井寺には多くの土師氏が居住していたと考えられ、
現在でも土師の里という地名で呼ばれています。
このような大古墳が多く含まれる古市古墳群ですが、それらの大古墳に付随して
多くの陪塚もあります。
鍋塚古墳と呼ばれるこの古墳もそのひとつで一辺50mの方墳です。
中にはこのように、高速道路の下にひっそりとたたずむ古墳もあります。
今回半日かけ見学した古墳はまず津堂城山古墳ー鉢塚古墳ー岡ミサンザイ古墳ー誉田御廟山
(応神陵)古墳ー大鳥塚古墳ー古室山古墳ー仲津山古墳ー鍋塚古墳ー長持山古墳出土石棺ー
市野山(允恭天皇陵)などなどですが、まだまだ半分以下しか見れていず。
まだ数多くの古墳があり、見るべき場所も数う多くのこされています。
また日を改めて再訪したいと思います。
やがて4世紀の中葉以降になると、その場所が大和盆地の北部わゆる紀古墳群、
あるいは馬見丘陵に移り、やがて4世紀末から5世紀になると大和盆地を出て、古市、百舌鳥古墳群へと場所を変えます。
目下のところその理由は未解明です。でも、別の権力が新たに発生したのではなく移動と考えたほうがよさそうです。
いずれにしろ この古市、百舌鳥古墳群の中心的時間帯は5世紀です。
中国の「宋書」に421年から478年に登場する倭の5人の王たち
(讃・珍・済・興・武)の5王の墳墓が、この古市・百舌鳥古墳群の中にあることは
間違いありません。
どの古墳がどの王にあたるかは、まだまだ論争があります。
明治の比定も決してでたらめになされたわけではなく、
その当時の資料に基づき真剣に定められたものですが、今は多くが間違いであることが指摘されます。だからといって、まだどれも確定したわけでもありません。
仲哀天皇陵とされる岡ミサンザイ古墳、墳丘の長さ242m、幅182m
古市古墳群の中で3番目の大古墳です。
埴輪の形状から5世紀後半と考えられています。
天野さんは、この古墳は倭王武の古墳であろうと推定されています。
仲姫皇后陵古墳(仲津山)全長290m古市古墳群の中で御応神天皇陵に次ぐ大きさです。
応神天皇の后である仲姫の陵と比定されていますが、
4世紀後半の築造と推定され少し年代が合いません。
私は歴史時代と呼ばれる文献が残っている時代が一応専門で、
それ以前のことは詳しくありません。
全くの素人として、この巨大古墳に費やされた労力は一体何のため、
何の必要があったのか改めて疑問を感じます。
首長霊の後退儀式のためとか、首長の権威の誇示だとか言われていますが、
いまひとつ腑に落ちません。現代人の感覚で考えてはだめだとは思います。
允恭天皇陵(市野山)古墳。全長230m古市古墳群の中で4番目、
全国で19番目に当たる
大古墳です。これらの古墳は土師氏と呼ばれる技術者集団がかかわりました。
藤井寺には多くの土師氏が居住していたと考えられ、
現在でも土師の里という地名で呼ばれています。
このような大古墳が多く含まれる古市古墳群ですが、それらの大古墳に付随して
多くの陪塚もあります。
鍋塚古墳と呼ばれるこの古墳もそのひとつで一辺50mの方墳です。
中にはこのように、高速道路の下にひっそりとたたずむ古墳もあります。
今回半日かけ見学した古墳はまず津堂城山古墳ー鉢塚古墳ー岡ミサンザイ古墳ー誉田御廟山
(応神陵)古墳ー大鳥塚古墳ー古室山古墳ー仲津山古墳ー鍋塚古墳ー長持山古墳出土石棺ー
市野山(允恭天皇陵)などなどですが、まだまだ半分以下しか見れていず。
まだ数多くの古墳があり、見るべき場所も数う多くのこされています。
また日を改めて再訪したいと思います。
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今回の見学会は、11時に近鉄南大阪線の藤井寺駅に集合して5時まで、ざっと10k強を
各古墳で講師の懇切丁寧な説明を聞きながらみっちり歩き回りました。
最初にに訪れたのが、駅の北側に位置する、津堂山城古墳。
陵墓参考地となって、陵墓に指定されていませんが、それは中世に城として利用されその形が大きく損なわれていることが、一因ですが、全長208mの堂々たる大古墳で、
4c後半の築造と考えられています。
明治の末年に地元の人たちが石槨の天井石を掘り出し、古墳外に持ち出されてしまいました。
最近になって天野氏はじめ関係者の努力で、あちこちからその天井石を回収され、それがこの古墳にふもとにあるガイダンス棟の前庭に実物が展示されています。
写真の文字が見える石もその一つで、神社の石碑として利用されていたものです。
後円部の一部のみが、指定されているため、自由に出入りでき私たちは今回はその古墳の上で昼食をとるという贅沢ができましたが、考えてみると、この古墳は間違いなく大王墓であり、大和や百舌などにある他の大王墓の古墳では考えられないことです。
古墳の上からは立地条件がよく観察でき、おそらく大和から進出してきたであろう、大和王権が地元の豪族たちの上に支配を確立したであろうことが立地からも確認できます。
その意味でも河内王朝は考えにくく、大和王権の支配がうかがえます。
また4c末の大王墓から考えられる天皇名は、おのずと絞られますが、いまだ定説とはなっていません。
名前は、いずれ発表されるであろう天野先生の論文を見ての楽しみとしておきます。
とにかく、こうした深いお話を聞きながら、古墳をめぐれたことは、今回の大きな特徴でした。
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アカダマ会で以前に講師をお願いした藤井寺市教育委員会の天野先生にお願いして
現地見学会を実施しました。
古市古墳群は大阪の東南部、羽曳野市から藤井寺市にかけて築かれた古墳群で、
隣接する堺市の百舌鳥古墳群と合わせ、世界文化遺産への登録を目指しています。
古墳時代と呼ばれる3世紀から7世紀、日本列島で多くの前方後円墳が造られました。
その中で墳丘の長さが200mを超えるのはわずか35基。
その大部分がいわゆる畿内に集中しています。
そして大王墓と考えられる巨大前方後円墳は、大和と、
この百舌・古市古墳群にほぼ限られています。
大和から何故この地域に巨大古墳が移ったのか、王権の移動か?連続性があるのか?
まだまだ未解明の部分が多くあります。
現地に行ったからといって、何がわかるわけではありませんが、やはりまず現地に足を運ぶべきというのは鉄則です。
ですが、この藤井寺というのは、直線距離はしれていますが、電車で行くには実に不便です。
奈良から出発すれば、まず西大寺で乗り換えて橿原神宮駅、それから近鉄南大阪線に乗り換え。
11時の集合時間ですが、家を出たのは9時前、2時間かかります。
それだけに、こうした機会がなければなかなかに行く踏ん切りがつきません。
今回の参加者は奈良ソムリエアカダマ会の仲間に、なんと卒業以来会うのは初めてという大学時代のサークル(考古学研究会)のメンバー。
奈良大学の通信学部文化財歴史学科で共に学んだ友人。
さらには天野さんが関西学院大学で教えている聴講生。
ソムリエのメンバーの友人。と種々雑多。
しかし全員歴史好きであることが共通の仲間です。
天候が何より心配でしたが幸い、絶好の行楽日和,この時期としては大変暑い日となりました。
現地見学会を実施しました。
古市古墳群は大阪の東南部、羽曳野市から藤井寺市にかけて築かれた古墳群で、
隣接する堺市の百舌鳥古墳群と合わせ、世界文化遺産への登録を目指しています。
古墳時代と呼ばれる3世紀から7世紀、日本列島で多くの前方後円墳が造られました。
その中で墳丘の長さが200mを超えるのはわずか35基。
その大部分がいわゆる畿内に集中しています。
そして大王墓と考えられる巨大前方後円墳は、大和と、
この百舌・古市古墳群にほぼ限られています。
大和から何故この地域に巨大古墳が移ったのか、王権の移動か?連続性があるのか?
まだまだ未解明の部分が多くあります。
現地に行ったからといって、何がわかるわけではありませんが、やはりまず現地に足を運ぶべきというのは鉄則です。
ですが、この藤井寺というのは、直線距離はしれていますが、電車で行くには実に不便です。
奈良から出発すれば、まず西大寺で乗り換えて橿原神宮駅、それから近鉄南大阪線に乗り換え。
11時の集合時間ですが、家を出たのは9時前、2時間かかります。
それだけに、こうした機会がなければなかなかに行く踏ん切りがつきません。
今回の参加者は奈良ソムリエアカダマ会の仲間に、なんと卒業以来会うのは初めてという大学時代のサークル(考古学研究会)のメンバー。
奈良大学の通信学部文化財歴史学科で共に学んだ友人。
さらには天野さんが関西学院大学で教えている聴講生。
ソムリエのメンバーの友人。と種々雑多。
しかし全員歴史好きであることが共通の仲間です。
天候が何より心配でしたが幸い、絶好の行楽日和,この時期としては大変暑い日となりました。
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大淀町でかるた教室を開くにあたって競技かるたについての話を頼まれました。
時間は20分ほどということで、あまり詳しい話はできませんが、奈良県かるた協会の会員による競技かるたの実演をして、それを見ながらの説明という形でやろうと思っています。
実は今、競技かるたは、大変なブームになっています。
過去何十年かかっても、さほど人気がなかった競技かるたですが、漫画「ちはやふる」以来人気が沸騰、各地の大会では参加者が急増して運営側が会場の確保に四苦八苦、そして各地のかるた協会にも会員が急増中です。
日本のポップカルチャおそるべしです。また会員の中で海外の普及に取り組む方がいて、
世界規模であちこちに競技かるたを楽しむ方が増えています。
今年は、あのキャロラインケネディー駐日大使もかるた大会を見学されました。
奈良県かるた協会としてもかるた普及のためには、現在あまり盛んでない奈良南部にも普及を、ということで、二つ返事でお引き受けしました。
しかし正直初めての経験、とうじつはどうなることやら。
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ドイツ旅行も最後の行程となりました。
最後の訪問地ビーレフェルトは人口が約32に万人余りと、奈良と同じ程度の規模の都市です。
今までは、ドイツでも観光地を巡りましたが、ここビーレフェルトには観光客の姿もほとんどないいわば無名の地方都市。
それだけにいわば本当のドイツを知るための絶好の場所と言えます。
下の写真はドイツでもっとも美しい高地ハイキングコースのひとつである
長さ156キロメートルのヘルマンスヴェーク上にあり、
ビーレフェルトの象徴となっているシュパレンブルク城。
この城は13世紀中頃 ラーフェンスブルク伯爵が築き、ビーレフェルトの町を見下ろすように聳えています。
城から町と近郊のすばらしいパノラマを楽しめます。
この周りにはジョッギングコースがありいつも多くのジョガーで賑わっています。
さりげないたたずまいの中にもドイツらしいビーレフェルトの街並みです。
下の写真はビーレフェルトのラートハウス。
ドイツのどの町でも見られるように、昔のままの建物を大切にし、
街並みも新しい建物も立ちながら、伝統的なたたずまいを決して失いません。
ハノーファーは18世紀にはイギリス国王を兼ねたハノーファー王家ゆかりの町で、その王宮庭園は往時をしのばせてくれます。中央駅からはヘレンハウゼン王宮庭園までは、Uバーンに乗り換えになりますが、日本のように地下へ行きさえすればすぐ乗り換えられるかと思ったら、Uバーンの駅が少し離れていて、ずいぶん探しまわったのも今は良い思い出です。
この地を最後として、今回のドイツ旅行は終わりです。
そして、なんとカメラの電池もここで終ってしまいました。
面積こそ日本とさほど変わりませんが、国土のほとんどが平地。大部分が山岳地帯の日本。
人口は日本がドイツの1,5倍。
この差が、国民の行動にも少なからず影響を与えていると思います。
何かにつけて、ドイツはおっとりして、日本のようにぎすぎすした感じがありません。
人々はお節介でなく、さりげなく親切です。
私がスーツケースを抱えてもたついていると、だれかれとなくさりげなく手伝ってくれました。
歩道で立ち止まるだけで例外なく車は停車してくれます。
買い物でもたもたしていても、決してせかされるようなことはありません。
暮らしは質素で華美でなく堅実です。
家も100年、150年前に建った家が当たり前のように軒を並べています。
中はもちろん近代的に改造されています。
ドイツ人の趣味は散歩とジョギング、サイクリング。
どれもお金がかからないことを揶揄する人もありますが、
お金をかけた遊びをよしとするほうが間違っています。
日常の品物も、使い勝手だけが優先されています。
こうして、私は行くまで良く知らなかったドイツに魅了されすっかりドイツフアンとなったばかりでなく、本当の豊かさとは、という問いかけも考えさせられました。
またいつか絶対にドイツを訪れたいと思いながら今回の旅を終わります。
最後の訪問地ビーレフェルトは人口が約32に万人余りと、奈良と同じ程度の規模の都市です。
今までは、ドイツでも観光地を巡りましたが、ここビーレフェルトには観光客の姿もほとんどないいわば無名の地方都市。
それだけにいわば本当のドイツを知るための絶好の場所と言えます。
下の写真はドイツでもっとも美しい高地ハイキングコースのひとつである
長さ156キロメートルのヘルマンスヴェーク上にあり、
ビーレフェルトの象徴となっているシュパレンブルク城。
この城は13世紀中頃 ラーフェンスブルク伯爵が築き、ビーレフェルトの町を見下ろすように聳えています。
城から町と近郊のすばらしいパノラマを楽しめます。
この周りにはジョッギングコースがありいつも多くのジョガーで賑わっています。
ひときわ高い尖塔は町のシンボルでもある、Altstädter Nicolaikirche (聖ニコラス教会) と Neustädter Marienkirche (聖マリア教会) とで建造は 13 世紀まで遡ります。
さりげないたたずまいの中にもドイツらしいビーレフェルトの街並みです。
下の写真はビーレフェルトのラートハウス。
ドイツのどの町でも見られるように、昔のままの建物を大切にし、
街並みも新しい建物も立ちながら、伝統的なたたずまいを決して失いません。
ハノーファーは18世紀にはイギリス国王を兼ねたハノーファー王家ゆかりの町で、その王宮庭園は往時をしのばせてくれます。中央駅からはヘレンハウゼン王宮庭園までは、Uバーンに乗り換えになりますが、日本のように地下へ行きさえすればすぐ乗り換えられるかと思ったら、Uバーンの駅が少し離れていて、ずいぶん探しまわったのも今は良い思い出です。
この地を最後として、今回のドイツ旅行は終わりです。
そして、なんとカメラの電池もここで終ってしまいました。
面積こそ日本とさほど変わりませんが、国土のほとんどが平地。大部分が山岳地帯の日本。
人口は日本がドイツの1,5倍。
この差が、国民の行動にも少なからず影響を与えていると思います。
何かにつけて、ドイツはおっとりして、日本のようにぎすぎすした感じがありません。
人々はお節介でなく、さりげなく親切です。
私がスーツケースを抱えてもたついていると、だれかれとなくさりげなく手伝ってくれました。
歩道で立ち止まるだけで例外なく車は停車してくれます。
買い物でもたもたしていても、決してせかされるようなことはありません。
暮らしは質素で華美でなく堅実です。
家も100年、150年前に建った家が当たり前のように軒を並べています。
中はもちろん近代的に改造されています。
ドイツ人の趣味は散歩とジョギング、サイクリング。
どれもお金がかからないことを揶揄する人もありますが、
お金をかけた遊びをよしとするほうが間違っています。
日常の品物も、使い勝手だけが優先されています。
こうして、私は行くまで良く知らなかったドイツに魅了されすっかりドイツフアンとなったばかりでなく、本当の豊かさとは、という問いかけも考えさせられました。
またいつか絶対にドイツを訪れたいと思いながら今回の旅を終わります。
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