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春日大社では第六十次の式年遷宮を迎えて、それに関していろいろな催しを開催しています。
7日(土)には「自然との共生」をテーマに大阪のグランフロントで記念フォーラムが
開催されました。

大阪まで出かけるのは躊躇しましたが、未だにグランフロントへ行ったことがないので
見学を兼ねて出かけてみました。
奈良の田舎から出かけると、まさに別世界。
会場へ行くのに一苦労で、エスカレーターを上ったり、下りたり、
どこをどう行ったのかさえ分かりかねる感じでした。

第一部が春日大社の花山院宮司の「神の森に生かされる」という話。
宮司さんの話は何度か聞いているので、さほど目新しい話は聞けませんでした。

第二部までの間に南都楽所による舞楽「蘭陵王」が演じられました。
何度か書いたかもわかりませんが、私は実は三十年前には南都楽所に所属して
ざっと三十年、笛と左舞を担当していました。
そしてやめる前にはこの蘭陵王をこういった舞台で度々舞っていました。

やめて以来、意識して舞楽雅楽を避けていて、こうしてゆっくり蘭陵王を見るのは
実に三十年ぶりのことです。
舞人が誰かまではわかりませんでしたが、私よりはるかにうまい舞でした。
ただ少し舞ぶりが私の習い覚えた舞とは微妙に違い、違和感が最後まで残りました。
まあ私が教えたわけではないので当然ですが、やはり月日の経過を感じさせられました。

第二部は宮司さんと、アニメーション映画監督の高畑勲さんと、伊勢神宮の遷宮館や
宇治平等院の宝物館などの設計を手がけた建築家の、栗生 明さん。
民俗学者で福島県立博物館館長の赤坂憲雄さんたちによるシンポジウム。
大変豪華な顔ぶれで期待していたのですが、一時間半では、三人の話は十分には聞けず、
これも少し欲求不満に終わりました。
私の生涯のテーマが春日大社の祭神に関わることで、春日大社にかかわる話には反応してしまうのですが、なかなかに私の知りたいことに関する話には出会えません。
もう少しで見えかかっていることがあるのですが、コツコツ本を読むしかないようです。

ところで余談ですが、パソコンの動きがあまりにも遅いので、思い切って8.1に買い換えました。
このブログが初めての使用ですが、なかなかに年寄りには手ごわく、まだまだ使いこなせません。



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奈良に長年住んでいながら、今回初めて春日奥山の月日亭に大学時代の友人と食事に
行ってきました。

同級生ということで、全員70歳超え、毎年、幹事回り持ちで、
京都・奈良で食事をしていますが、何と早50年、50回になります。
そんなわけで、今回は私が当番で、今まで敷居が高かった月日亭に
思い切ってお邪魔した次第です。

11時半に待ち合わせて月日亭まで皆を歩かせましたが、さすがに遠くて
かなり非難を浴びました。
大仏前の交差点からでも20分近く山に入ります。
ま、確かにおなかは空きました。


確かにこの場所、立地、他府県から来た人には、驚かれますし、
まさに奈良らしさに溢れたたたずまいです。


平日と言うこともありお客さんは我々だけ、ゆっくりと食事と
久しぶりの会話を楽しみました。


月日亭の前を流れる水谷川の河原にあるのが月日磐。
月日亭の名前のいわれもこの岩から来ています。
丸が日、その向かって右の半円が月を表すようです。
この写真を撮るのには斜面を少し降りなければならず、存在を知らなければ見過ごしてしまうでしょう。
かってこの場所に今は博物館の前にある氷室神社があったとか、

氷室神社の主祭神が闘鶏稲置大山主命(つげいなぎおおやまぬしのみこと)であることから
それ以前には都祁にあったとか言われています。
いずれにしろ、この磐が何のために、何時からここにあるかは、不明です。

従来このブログは古代史と奈良のことを書いてきました。
この2回ほど、私は奈良大学で道真に関する授業を半年間受けてきたことから、
時代も地域も奈良とは少し関係がないことを書くことになっています。
そこで、少しこじつけですが、少し奈良に関わる話を書きます。

菅原氏は以前は土師氏と称していました。
前に古市古墳群の話の中で、百舌鳥古市古墳群の巨大な前方後円墳はよく観察すると
同形・同大や同形の縮小拡大した古墳が存在する。
そこからこれらの巨大古墳の造営に関しては、技術者集団として土師氏が主導した
と書きました。
そして藤井寺市一帯は土師の里と呼ばれ土師氏の住まいするところとなりました。
土師氏に関しては、『日本書紀』の垂仁期に野見宿禰の埴輪期限に関わる話が
記載され、そこから土師氏は天皇の葬送儀礼に従事した旨書かれています。
しかし、平安時代に入ると、葬送儀礼の変化もあり、その役割も低下し、
氏族として前途を広げる必要もあり、その居地にちなんで菅原氏に改姓を願い出ます。
その改姓を願い出たのが道真の曽祖父古人です。

その居地は現在の奈良市菅原町であり、今も延喜式内社の菅原神社と菅原寺があります。
その古人は、桓武天皇の時侍読を務め、「儒行世に高く、人と同ぜず」とされ
世に認められた儒者でした。その古人の四男が道真の祖父清公、その子が道真の父
是善で、いずれも文章博士となっています。

三代に亘る儒門の領袖である菅原の家に生まれた道真は「幼にして聡穎、才学日に新たなり」とされ、学問を家の「祖業」と強く意識し、その継承とさらなる発展を自己の負うべき務めとして学問に打ち込みました。

その様子は「少(わか)かりし日 秀才(すなわち文章得業生時代)たりしとき、

「光陰 常に給(つ)がず、朋との交わりに言笑を絶つ、
妻子も親しび習うことを廃めたりき」

「帷(とばり)を垂れ戸を閉ざし、経典を渉猟す。風月花鳥有りといえども、
蓋し詩を言うの日尠なし」と自ら述べています。

こうして勉学にうちこみ文章博士に任じられた時

「文章博士は材に非ざれば居らず。吏部侍郎は能有らばこれ任ず。
余が祖父より降りて余が身に及ぶまで三代相承け、両官失うことなし。
故に謝詞有り」と大いに面目を施しています。

「家業 年祖 本 詩を課す」すなわち詩は先祖から伝えられた職業であり、
「父祖子孫 久しく要期す」と菅家では父祖以来子孫に至るまで、
 詩作は約束事であると襟持しています。

宇多天皇は

「菅原朝臣は、これ鴻儒なり、又深く政事を知れり。朕選びて博士と為し、
 多く諌止を受けたり」

 「菅原朝臣は朕が忠臣のみに非ず、新着の功臣ならめや」

 と道真を高く評価し、信頼を寄せますが結果としてこのことが逆に太宰府への
 左遷へとつながってしまいます。

百人一首に採られた
「このたびは ぬさもとりあえず・・・」この歌はその宇多天皇の奈良吉野宮滝への

 行幸に伴したときの歌と伝えられています。

 紅葉を錦に見立てる発想は漢詩的発想と言え、古今集でもこの1首のみです。

 この歌の歌碑は東大寺の手向山八幡宮の境内にありますが、この歌にある手向山は
 一般名で、この地で詠まれたわけではありませんが、奈良で詠まれたという点では
 間違いありません

 
 

道真がこよなく梅花を愛したことはよく知られています。

このことは『拾遺集』に記載の太宰府に左遷される折に自邸の梅の木に歌いかけたとい う
この歌で特に世間に知られています。

「こち吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわするな」


しかし道真の生きた時代は、詩と言えば漢詩であり、道真自身も自らを詩臣と称し
漢詩を読むことによって宮中に仕えていると語っています。

その道真の詩は、自ら編集した『菅家文草』 『菅家後集』に千年を経た今でも
ほぼ完全に残されています。

そしてその巻頭を飾る詩は、道真11歳の時の作「月夜に梅花をみる」であり、
その掉尾を飾るのが、道真の死の一月前に詠まれた、
「城に盈ち郭に溢れて幾ばくの梅花ぞ」と春雪を梅花に見立てた「謫居春雪」

という詩であるのも決して偶然ではありません。

このように道真が梅花を愛したのは梅花が春を寿ぎ、その色香が美しいからと言うだけでなく、
道真にとって、梅はまた、宮廷内宴の象徴であるということが重要な意味を持っていました。

内宴と言うのは、嵯峨天皇・淳和天皇以降村上天皇のころまで続いた宮廷の年中行事であり、
天皇が少数の文士を呼び歌舞を奏で、詩酒に興じる宴でした。

その様子を道真は

臣聞く、春は1年の驚策にして 、四時の光彩なり

時は是れ鶯花、君子遊予す。其れ喜ばしからずや。

数輩の詩臣も詔旨に非ざれば其の志を言うことをえず。之を内宴と言う。

伏して一人の喜び有ることを叙べ、兼ねて万物の春に逢ふことを賦す。


この内宴において詠ぜられる花が宮中の仁寿殿の西側の庭先に咲く紅梅でした。

このように、道真にとっては梅花は花を通して宮中にあって詩を詠む詩臣である
道真の誇りであり、道真自身のの象徴でもありましたからこそ、
今なお天神の神紋は梅鉢なのでしょう。


国文学特殊講義という講座を奈良大学で聴講生として半年間受講しました。

この授業の中身は『菅家文草』『菅家後集』を通して菅原道真について学ぶ事で、

担当教授は菅原道真の詩文研究の第一人者である滝川幸司先生。

私がこの授業を選択した理由は、我家に残る「元和元年乙卯年討死定故書置者也」

という所謂大坂夏の陣に際し先祖が書き残した家系図にあります。

当初三巻あったようですが、今は二巻しか手元にありません。

非常に長い巻物で、全文漢文ですので、私自身まだ最後まで読み通していませんが、

そこには我が家が菅原道真の三男の末裔であると書かれています。



ご存じのように道真は昌泰の変と呼ばれる出来事により、右大臣の位を追われ、

太宰府の権師に左遷され、その子供も、皆引分国々被流ということになり、

我が家の祖先たる三男は備後国恵蘇群に配所となりましたが、
朱雀天皇の時に参内して
備後一国令地地頭。
以後戦国の戦乱時には丹波国高津城にあり、最後関ヶ原で敗れたのち
大坂夏の陣にて討ち死と言ったことが累々と書かれています。

今の我が身と引き比べ、あまりにも偉大な祖先過ぎ、我が身には

何のかかわりもないことと、今まで敬遠して無関心を通していましたが、

この年になってようやく、少しは先祖のことも学ぼうと殊勝な気を起したわけです。

この授業で初めて道真の『菅家文草』に接して、まず漢詩がここまで率直に

心情や日々の出来事を表現できるのかと、漢詩に対するイメージが一変たこと。

道真に関して知らない事が多いこともまた、思い知らされました。

道真については、どうしても死後の怨霊となった話が中心となり、宇多天皇に
つかえた官僚としても姿はほとんど知られていません。

宇多天皇の「寛平御遺誡」に、
『菅原朝臣は朕が忠臣のみに非ず功臣なり」とあり、

宇多天皇の治世下多くの嫉妬・抽象・讒言に耐え、
忠実に、政務に奮闘精励し、知を竭し、忠を尽くし

清廉無比に祖父清公・是善・道真の三代に亘る儒門の領袖

「文章は暗に家風に誘われ 吏部は偸かに祖業の存するに因る」

として学識を持って政務に尽くしながらその純粋さ故に世俗の

権力争いの渦中に巻き込まれた無念の生涯を、今少し掘り下げて
勉強する必要を感じました。



道真の参考文献を挙げておきます。

道真の概略を知るには、吉川弘文館『菅原道真』坂本太郎

道真の歴史研究には、吉川弘文館『摂関政治と菅原道真』今 正秀

道真の詩については 笠間書院 『菅原道真』 波戸岡 旭

          塙書房  『菅原道真論』滝川幸司

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