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アカダマブログ
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一応書き上げました。

30枚から50枚以内と言う枚数指定。(文字数は関係なし)仕上がりは49枚。

ここだけは見事です。中身は???

だけど、もう書きなおす気力もないし、これで提出します。

最終チェックをして、10月3日から10日までの間に提出となっているので、それに間に合わせます。

昨日は、一応春日大社へ書き上げた旨報告に行ってきました。

枚岡神社も提出までに1度行かなければ。

来年、合格したらもう1度、鹿島・香取に行こうと思っています。

向こうは覚えているかどうかも怪しいけど、一応お礼と報告です。

なんて合格した後の計画だけが決まっています。

一種のイメージトレ。楽観主義が私の取り柄。

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卒論に行き詰まり、手元にある本をぱらぱら見ていると、日本書紀の景行紀に中臣と言う名が・・

そこで日本書紀を取り出してみてみると、確かにありました。

今の大分県、豊後の国に景行天皇が土蜘蛛退治に赴いた時、祈った神の名。

志我神・直入物部神・直入中臣神。

これは、なんでしょう?

直入は豊後国風土記に豊前国仲津郡中臣村(和名抄では中臣郷)とある。

中臣の地名説で仲津郡が中臣姓の発祥の候補地としては挙げていたが、日本書紀にこんな記述があるのは、みのがしていました。

しかも物部神と一緒に登場とは。

今さらです。これはどう解釈したらいいのでしょう。

ともかくは、中臣氏と物部氏の深い結びつきは、かなりさかのぼること。

そしてフツの神を祀る物部氏、武甕槌神を祀る中臣氏。

とりあえず、鹿島・香取の結びつきがここでも。

ほとんど書き終えた論文をまた考え直さなければ。

香取を単なるイワイヌシの神として、鹿島とセットと考えるより、氏族としての中臣・物部で考えるべきかも。

藤原不比等と石上麻呂の結びつきは、世上のイメージと違って強固であった可能性があります。

たしか宇合の妻は石上だったか・・・

また、振り出しに戻りそう。

なんと提出まで2週間を切ってしまいました。

現在の状況は、職場放棄といった感じです。

もう駄目、こんなの論文とは言えない。なんて思っています。

結局一歩も進んでいません。

枚数はもう40枚以上書きました。

でも中身が満足いきません。

まだ春日大社の創立の時期については、われながらうまくまとめたと思います。

でも肝心の、鹿島の神がなぜ春日に来たかについては、結論ありきで、これと言う決め手がでません。

これでは、意味がない。状況証拠の積み重ねで何とかなると思っていましたが、現実は厳しい。

鹿島の中臣氏と畿内の中臣氏、まだ未解決です。


 

いつのほどにか、皆がそう言うようになって、会の名前になった。

考えてみると、店をやめたので、「アカダマ」と言う名は、この会でしか残っていないわけで、、これはこれでいいのかも。

もともとは、もう2年前になりますが、「奈良まほろばソムリエ検定」のソムリエ合格者の第1回(たぶん2回目はないと思われる)でテーブルがたまたま一緒だったグループで、その後もまた集まりましょうということからスタートしました。

当初は、だから6,7人。

その後、このブログを通じて、入りたいと言う希望者がいたり、前に私がいた、ソムリエ友の会の広報部会のメンバーもくわわったり、紹介があったりで今はその倍以上。

今日は私が奈良大学のスクーリングで都合が悪く、2か月ぶりの例会。

参加者は15名。これは店のスペースでは限界を超えた人数です。

もちろん喫茶としては、20名以上は入れますが、集まりではそうはいきません。

でもどんどん減っていくことを思えば結構な話です。

今回も、シリーズとして3回目の日本書紀。

倭の五王あたりの時代についてです。

詳しい内容は、私はまとめるのが苦手で、http://koza5555.exblog.jp/ 「奈良・桜井の歴史と社会」ブログで、きっと書いてもらえると思うので、省略です。

ただ、あらためて日本書紀は奥が深いし、古代史の宝庫と言う思いを強くしました。

卒論を終えたら、もっとじっくり読みたいと今は思いますが、たぶん卒論が終わったら読む気力は残っていないかもしれません。

そのなかで印象に残った話は、「大日下王」ひょっとしたら王朝かもしれない河内の皇子です。

ともかく崇神から武烈までの王朝は、何でもあり、時代の前後の混在。そのなかでどれが真実か、はたまた後の世の挿入か。

汲めども尽きぬと言ったところです。

でも残念ながら、今はこの時代には深入りするわけにはいきません。

それにしても、今日も言われてしまいました。

「今だかってだれも解明することができないテーマによく取り組みましたね」

う~ん、甘かった。最初に先生がこのテーマは難しすぎる、史料がない。先行研究もない。と止めてくださったのに。

しかし、賽は投げられた。いまさら引き返す時間は残されていません。

無謀にも、突撃です。


 

7月中旬から5回。毎回、金、土、日の3日間づつのスクーリングが、今日ですべて終わりました。

暑い中ですから、かなり疲れましたが、精神的には充実した日々でした。

今回は「奈良文化論」

近代文学を通じて奈良を見ると言う感じです。

1日目と今日3日目にレポート。

もともと本好きな私には楽しい授業でした。

正岡子規はその短い生涯で恋愛体験はほとんど語られていませんし、激しい自己主張もあり、そんなエピソードもないのですが、なんとあの有名な歌「柿食えば 鐘が なるなり 法隆寺」にはこんな話がありました。

実はあれは、法隆寺ではなく、東大寺の鐘。今レストランになっているかって対山閣という旅館が、奈良坂にありました。

そこで旅装を解いた子規が、女中に柿を所望します。

そして、かたわらで子規のために柿を剥いてくれる女中をみやれば、色は雪のごとく白く、目鼻立ちは申し分なく整い。

生まれを聞くと、月ヶ瀬の出とか、そこで思わず梅の精霊ではないかとまで思う。

柿もうまい、乙女もきれい、うっとりと柿を食っていると鐘の音が、女中は「おや、初夜の鐘の音が、」どこの鐘かと問えば、東大寺と答える。

このようにしてこの句は生まれた。なぜ東大寺が法隆寺化と言えば、子規にとっての奈良のイメージに法隆寺がかなうから、要するに「行く秋や 皆千年の ものばかり」という、奈良の悠久や伝統を表現するためには法隆寺がふさわしいということであった。

奈良を訪れた子規は結核の症状もひどく、言わば人生に不安な時、そんな時、その胸にほのぼのとした明かりをともしたのは、奈良の自然と一体となった雰囲気、そして美しい少女の面影。

この歌のエピソードです。こうして無事すべてのスクーリングは終了。明日から卒論一辺倒です。

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